彼岸にいるあなたへ 22
『獣』が外から籠を眺めていた。
黒い籠には隙間などなく、外から様子を窺うことなどは出来ない。だが、『獣』は中で何が起こっているかを正確に把握していた。
当然だ。籠を構成する呪詛は、『獣』の目であり、肌であり、口であり、爪であり、牙であるのだから。中で何が起こっているかを把握することなど、呼吸をするようなもの。
「────」
その『獣』が動揺した。黒一色で構成された『獣』の表情などというものはないに等しい。けれども、確かに『獣』の毛並みが逆立つように、寒気が走るように『獣』に戦慄いた。
「────?」
何故、自分は戦慄したのか。
その問いの答えを、『獣』は既に持ち合わせていた。
慄いた理由は明白、核となっているライガ、それと『獣』を構成する呪詛の一部があの白蛇が何をしようとしているかを知っていたからだ。
『獣』を構成する呪詛。それはヤトが話したように、過去の戦争の折に発生したものだ。それは大規模な戦争であったが故に、呪詛は人々の怨みを圧縮したものになる。
当然、その中には非人道的な行為の末に怨みを残した者のものもある。
「────」
その彼らが、自分の内側で叫ぶのだ。
──あの白蛇の行為を赦すな!!
──憎い憎い憎い!!
──怖い怖い怖いコワイこわい!!
憤怒、憎悪、恐怖。
彼らの動力源となる感情が騒ぎ出す。
──あの忌まわしき行為を止めろ!!
その感情に従い、『獣』は自らの“身体”を操って攻撃を苛烈にさせた。
幾千の刃を、幾万の刃へ増やし、四方八方から攻め立てる。籠の中は無明の闇。常人であれば、瞬く間に刃に貫かれてしまうだろう。たとえ、暗闇を見渡す術を保有していたとしても、四方八方から迫る幾万の刃を防げるはずがない。
「──────」
だが、『獣』は不思議な予感があった。
あの白蛇であれば、幾万の刃を防ぎ切ってしまうのではないかという予感が。そして、何か怪物が産まれてしまうのではないかという予感が。
それはきっと楕円形の籠が、卵に見えたからだろう。
「くぅ……ッ!?」
明らかに刃の数が増えたことに、ハクロは苦悶の声を漏らした。
どうやら、あの『獣』が儀式を察したらしい。
そう推測して、ハクロは少しだけ呪詛の操作を変えた。
「………」
カガチに吸い込まれるがままだった呪詛が、彼の頭上で渦を巻き始めた。次第に渦が大きくなっていき、ドロリと泥のように形を崩した。
形を失った呪詛は外界を遮断する様にカガチとハクロの二人を隔離して、絶えず流れ続ける。それは、滝のような流れを持った盾。
一見すると酷く脆く見える盾ではある。事実、その盾は薄く、子どもが投げた小石を防ぐのがやっとの代物である。
だが、その盾は同質の物にとっては何よりも厚く、硬いものとなる。即ち、『獣』を構成し、『獣』が操る呪詛にとっては最高の盾となるのだ。
「────」
幾万の刃が、ハクロの展開した盾の流れに巻き込まれ、その盾を構成する呪詛の流れの一部となっていく。その呪詛の一部は、グルグルと循環した後、カガチの身体へと取り込まれていく。
それを見て上手くいった、とハクロが安堵の息をこぼした。
しかし、それも束の間。
「──ッ」
すぐに新たな問題が浮上した。
原因は、『獣』ではない。原因は──
「あああああァァァアアアア!!!」
──カガチだった。
悲痛な叫びが黒い天蓋の中に満ちた。
──同時刻。
「ふぅ………」
ひとりの女が、縁側にて煙管を蒸していた。その美しい女の傍には似つかわしくないはずの大蛇が二匹。だが、その女の雰囲気には不思議とマッチしている。
その女が、紫煙を燻らせて言った。
「今頃、ハクが足掻いている頃かの」
まるで見て来たかのような言葉。
だがその言葉に驚くような輩はこの場にはいない。
「ま、あの異邦人だけではライガは倒せないからの」
そう言って、ヤトは夜空に浮かぶ紅き月を眺める。
あの異邦人は、資格は十分にある。セイカとの試合で見せた剣技。力への貪欲さ。それに幸運。
資格は十分にあるのだ。ただ力が足りない。
あの異邦人とて、時間を重ねればもっと強くなる。肉体は強くなり、新たな技術を必ず覚える。それが彼らの理だ。
だが──
「一人で倒せるほど、アレは容易くない。ライガよりも劣ってるとはいえ、アレが化物であることには変わりはないからの」
そう言ってから、ヤトは目蓋を閉じた。
目蓋の裏に浮かぶのは、かつての戦闘。あの『獣』を封印した時のものだ。
傷はすぐに再生し、莫大な呪詛を操る。あの場に自分が居なければどうなっていたか……自分という、あの『獣』にとっての天敵が居なければ。
そんな風に、物思いに耽ったヤトに言葉がかけられる。
「お前さんの息子は成功すると思うか?」
その声は不思議なものだった。
何処から響いたのかが不明であり、何処からというよりも空間自体が発しているような声だった。
「汝は相変わらずじゃの。盗み聞きとは趣味が悪い」
さして驚くこともなく、平然とヤトは答えた。
カカッという笑い声の後に、再び声が響く。
「して、ヤトよ。お前さんはどう思う?」
「どうも何も、妾の愚息に全てが掛かってる。まったく、それぐらい汝も予測できておるだろうに」
「まあのぅ……とは言え、秘術の成功確率はどのくらいと見ておる?」
秘術。その言葉に、ヤトの眉がピクリと反応した。
それから少し悩んで、掌を広げた。
「五割か。随分と高いな」
「……たわけ。あの場には必要なものは大抵が揃っておる。足りないのは、素体の強さと術者の力のみよ。その上で、最高で半々というのは低すぎる」
厳しいな、と空間に声が響いた。
そうでもないと思うがの、そう心の中でヤトは返答した。
かつて、人類が自らを生き残させる為に編み出した人工的な進化。ハクロが行使しようとしているのは、とりわけ失敗作のものだ。
大量の呪詛というのは生き物に莫大な変化を齎す。進化とも言える程のものを。
故に、魔物はその本能で自らを高める為に、呪詛の塊たる呪印を求めようとする。
しかし呪詛とは世界の淀み。本来ならば浄化される世界の不浄。生き物の怨念、恨み、嫉み、憎しみから生まれる呪詛が、純粋な力を与えるはずがない。そのため、呪詛を糧にした進化というのは、たいていが歪なものになる。
だが、そこに指向性を与えることが出来るのならば、安定した進化を齎すことになる。
そう考えて、かつての人類は『秘術』を開発した。
だが、身体が作り替えられるということに常人は耐えられず、万人に施せない『秘術』は闇に葬られた。
──かつて、『秘術』に関わったものを除いて。
その一人として、ヤトは思うのだ。
五割という数字は低すぎる、と。
あの場には、ハクロとカガチ、両名の力不足以外の条件が整っている。その上で五割というのは、あの男に挑むに当たって低すぎると言えた。
彼女としては、かつての友を知っているからだろう。あの男に、五割程度の力量で挑むのは死にに行くのと同義だと。
「もう少し期待とか混ぜてやってもいいと思うがの?」
その言葉に、ヤトは笑った。
鼻で笑うような、嘲笑するような笑みではない、心からの笑みだった。
その笑顔に、空間から訝しむような気配がした。
何がおかしい、と。
「バカめ。期待なんぞ混ぜてしまったら、確率なぞ意味をなさん」
その声に、空間から哄笑が響き渡る。
「親バカじゃ!?なんだ、あのヤトがここまで丸くなったか!」
愉快愉快と、顔は見えないが、顔を笑みで歪ませているのが分かるような哄笑だった。
「そも、妾は勝てる望みがなければ、送り出しておらんよ」
ただ、と彼女は付け加える。
その優しい笑みを消して。七帝として相応しい冷徹さで。
「ハクロは生きて帰れるかどうか」
それだけは分からないがの……。
その声だけが、冷たい響きをもって消えていった。




