九話
あれから、10年の時がたった。
修斗は高校を卒業してから二年間、何もせず無意味に過ごし、結局絵の専門学校に入った。
大きな目的を失ったとはいえ、絵への渇望は完全に消え去ることはなかったのだ。
他にやりたいことなければ、希望もなかった。
その絵も、もう何かを描きたい思う衝動を失いかけている。
友達ゼロ、貯金ゼロ。恋人も飼い猫もいない。
かなぐり捨てた夢の跡だけが、空しく頭にこびりついている。
専門学校を出てから、その日暮らしのアルバイトをしながら空いた時間で絵を描くだけの生活をしている。
一種の引きこもりのように、創作の世界に閉じこもっている。
あの頃のようにコンテストに応募することもなく、誰かに絵を見せることもしない。
親には世捨て人呼ばわりされ、もう完全に見放されめいる。
鏡を見るたび、ひとり孤独に野たれ死ぬ自分の姿を想像する。
人が生きる意味ってなんなんだろう。
場所も選べずに勝手にこの地に産み出されて、理不尽な現実にもがき苦しんで、生存競争に放りこまれて。
いらない物は豊かに手に入る。でも、本当に欲しいものを手に入れられることなんて滅多にない。
だから夢は夢といわれる。
どう考えてもこの世は生きづらい。
毎日楽しく過ごすには、障害が多すぎる。
それなのに、なんで人は立ち止まらず生きることを選ぶのだろう。
算数の問題に頭を悩ませる子供のように、修斗は唸った。
こんなことを本気で考え始めたらもう死期が近づいているのかもしれないな。
死ぬのは怖くない。
長生きするほうがよっぽど辛い気がするから。
でも、自ら命を絶つことだけは絶対にしない。
俺みたいなクソ人間でも今まで多くの人間と関わってきた。
その中の誰かに、心ばかりでも罪悪感感じさせる可能性があるからだ。
誰にも気付かれないように、自然と消えることができたらどんなにいいことか。
深夜の街を徘徊しながら、修斗は煙草を吹かした。
人は変わっても、この街の冬の冷たさは物心ついた頃と変わらない。
追憶に耽る修斗の目の前を小さな物陰が横切った。
その影は途中で立ち止まり、黄緑色の目で修斗を見つめた。
猫か。
修斗は立ち止まり、目を細めた。
宵闇に紛れてわかりにくいが、猫の毛の色は黒だ。
額に白い三日月模様がある。
修斗は思わず煙草を落とした。
「......スズ?」
呼びかけても黒猫は何も言わない。
そんなわけないよな。修斗は苦笑した。
十年前の幻聴に、一体いつまで囚われているんだ。
それでも、足は猫のほうへ進んでいた。
いないよなという諦めに対して、ひょっとしたらいるかもしれないという希望的観測が勝ってしまった。
手を伸ばせば触れそうなくらい近づいた。
すると、黒猫はとことこと歩き始めた。
なんとなくその後ろを尾行してみる。
左へ曲がり、右へ曲がり、たまに戻ったり。
右往左往している内に、いつしか一人と一匹は川のほうへ向かっていた。
懐かしい。
この川にも高校生以来来ていない。
ここに来ると色々なことを思い出してしまうから。
あの頃に比べるとコンクリートの面積がやや広がったが、清らかな流れと透明な水は相も変わらず美しい
青春を過ごしたあの小屋は今では撤去されてしまった。代わりに増水注意の黄色看板が立っている。
夜の帳の中に響き渡る川のせせらぎが、修斗を学生時代に少しだけ引き戻した気がした。
先ほどの黒猫は大きな石の上に乗っかり、前足を舐めている。
ここで、木の葉のように川に流されてしまうのもいいかもな。
そう思った矢先だった。
黒猫は突如身を屈めると、さながら跳弾のように石から石へと飛びうつり、十メートルは離れている向こう岸まで移動した。
突然のことに驚いた修斗はその動きを目で追うと、やがて自分を疑った。
黒猫が飛びうつった先の向こう岸。
そこに見覚えのある人がいた。
背中まで伸びた黒髪、花柄の白いワンピース、麦わら帽子。
間違いなく、それは人間の頃の鈴音の姿だった。
鈴音は三日月模様の黒猫を抱き上げると、修斗を真っ直ぐにみつめた。
時間がとまり、全ての音が薄れて消える。
二人は銅像のように見つめ合った。
修斗は声を発することができず、足も石化したように動かすことができなかった。
どれくらいたったろうか。
鈴音は無垢な笑みをたたえた。
愛嬌のある深いえくぼは、夜の暗闇でもよく見えた。
やがて、ゆっくりと修斗に背を向け、鈴音の姿は黒猫と共に茂みの中に消えていった。
「待って!」
ようやく足が動いた。
手を前に伸ばし、川に足を踏み入れる。
腰まで水に浸っても気にせず前へ突き進む。
しかし、流れが急でまともに向こう岸へ渡れそうになかった。
結局、修斗は鈴音を追うことができずに、石ころみたいに川に佇むことしかできなかった。
「なんで? どうして現れた。俺はお前のことを記憶にしまいこんでたのに。それがお前の望むことだと思っていたのに......」
あんまりじゃないか。
修斗を嘲笑うかのように、木々は風で騒めいた。
久々に見た鈴音の笑う顔。
幻覚だったのか?
いや、もういっそ幻覚でもいいのかもしれない。
間違いなく、俺の世界には鈴音は現れた。
そしてその意味も教えないまま、どこかに消えていった。
これで、おいていかれたのは三度目だ。
本当に気まぐれなやつ。
人のことをなんだと思っているのだろう。
修斗は足元の砂利を見つめた。
今度は一体何を伝えにきたのか。
せめて、さよならだけでも言って欲しかった。
孤独な悪態をつきながらも、修斗の胸にはなにか熱いものがこみあげていた。
鈴音が死んで十年目の冬。
忘れかけていた横顔。
三日月模様の黒猫。
かつて感じた初期衝動がありありと甦りはじめた。
それは花々が芽吹くような、そんな新鮮な気分だった。
ああ。
まだ俺の心の中にこんな感情が存在していたなんて。
この感情を思い出させるために鈴音が現れてくれたような気がした。
修斗は久々の全力疾走で、夜に染まる街を駆け抜けた。