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水彩画の中の君へ  作者: 昼夜
7/10

七話

古ぼけた廃屋の壁には、水中を描いた水彩画がずらりと飾られている。


これだけ並んでいるのを見ると、流石に時の流れを感じる。夏の日射しに焼き付いていた街は秋に彩られ、いつのまにか冬の匂いが漂いはじめている。


マフラーを巻いている学生たちをみて新たな季節の訪れを想う。季節は何度移ろっても、自分はいつまでも子供のままな気がする。


修斗は水で湿った窓を指でなぞった。


「何してんの」

「いや、ちょっと感傷に浸ってたんだ」

「きもいね」


スズは笑った。


少し前までスズは精神的に不安定だったみたいだけど、今はなんだか落ち着いている。

何か心境の変化でもあったのだろうか。


「......なあスズ。頼みがあるんだけど」


咳ばらいをし、改まった様子で修斗は話した。

大体こういう時はろくでもないことを言い出すことが多い。

スズは興味無さげに耳だけそばだてた。


「お前の絵、俺にくれよ」



修斗は相変わらずの冷めた瞳で言った。


「あたしの絵?」

「ああ。あの未完成の水中の絵。俺、あの絵を完成させてそれをコンテストに応募したいんだ。そうすれば、文字通り二人で応募したってことになるだろ」

「......別にあたしは構わないけど」


人の絵に手を加えるのは意外と難しい。

どうしてもその人固有の癖みたいなものがあるから、違う人物が描いた部分だけ浮いてしまいがちだ。

ただ、修斗の筆跡はずいぶんと私の絵に似ている。


私が描いたものを真似るところからはじめたのだから当然といえば当然だけど。


「よし。それなら後は鈴音のお母さんに頼むだけだな」

「あれは母親のじゃなくてあたしの物だから。別に親の許可なんて得なくてもいいよ」

「そういうわけにもいかねえだろ。俺を泥棒にする気かよ」

「いやあんた泥棒したことあるやん」


スズは苦笑した。

実際、何度三人で近所のお爺さん家の柿を盗んだかわからない。大して柿の味が好きなわけじゃないのに、あのスリルが欲しくて何度も盗んだ。


いつか謝りに行こうと思っていたけど、結局謝らずじまいで終わってしまった。

猫になってからたまに気まぐれで訪ねると、お爺さんはよくミルクをくれる。


「柿泥棒はもうしないよ。俺一人だし、それに流石に罪悪感がでてきた」

「いつか謝りに行こう。許してくれるかわかんないけどね」

「ああ。わかってるよ。俺が絵で賞を取って有名になったら、あの家のお爺さんには柿を山ほど送るつもりだ」

「なにその美談っぽいただの自己満。うけるんだけど」


スズはからからと笑い、修斗の足を小突いた。


「いやあ、本当にやるよ俺は。俊太とも仲直りの約束もあるし、絶対入賞してやる」

「その意気その意気。期限までに応募さえすれば、0.001%くらいは可能性ありそうだしね」

「それほぼ無理ゲーじゃん」


そんな会話をしながら、修斗は鈴音の家へ向かった。


                        ◇ 


インターホンを押すと、鈴音のお母さんはすぐに出てきてくれた。

アポも取らずにきたのに、嫌な顔一つせずに家にあげてくれた。


居間にあがると、弟の響もいた。

軽く会釈をすると、修斗はまず仏壇に線香をあげた。

笑顔の遺影の横には、以前釣った『黒幕』の写真が飾ってあった。


「その魚、イトウっていうらしいですよ」

「いとう?」

「はい。人の名前みたいですよね。ネットで調べたら結構有名な魚でした」

「はえー、そうなんだ。俺はてっきり未確認生物かと思ってたよ」


四方山話もほどほどに、修斗は早速本題にはいった。


「あの、今日はお願いに来たんです。未完成の鈴音の絵を一枚いただけませんか」

「あの子の絵を?」


鈴音のお母さんは訝しげに首を傾げた。


「はい。唐突なんですけど俺、絵のコンテストに応募しようと思うんです。それで、鈴音の絵を一緒に応募したいと思って。不躾なお願いだということはわかっているんですが、どうかあの未完成の絵をいただけないでしょうか」

「あら、修斗くんも絵を描くの?」


鈴音の母親は目を丸くした。


「描きます。鈴音の影響ではじめたんです。だから、まだ駆け出しなんですけど」


修斗は精いっぱいの作り笑いをした。

せめて爽やかな印象を与えないと、よく思ってもらえない気がした。死んだ我が子の遺した絵だ。

たった一枚とはいえ手放すのは容易なことじゃない。


「ねえ、絵を描くのってそんなに楽しいことなの?」

「はい。僕は結構楽しんでます。鈴音が夢中になるのもわからなくはない感じです」

「......そう。そっか。それがあの子のやりたかったことなのね」


鈴音の母親は真顔になった。

そして、逡巡したような面持ちになり、口を閉ざした。修斗が緊張した顔で見つめていると、やがて諦めたように微笑んだ。


「いいわよ。絵を持っていきなさい。あの子が蒔いた種を枯らさないよう、精いっぱい頑張ってね」


その言葉には重みがあった。

鈴音の短い人生にどんな意味があったのか、きっと母親である彼女が一番考えたはずだ。

修斗は気を引き締めるような気持ちで、強く返事をした。


「はい! ありがとうございます。必ず素晴らしい絵を描いてみせます」


頭を下げると、額が机にぶつかった。

額に少し血が滲むほどの勢いだった。

それを見て、響きが笑った。


「修斗さん、やっぱり面白いですね。姉ちゃんの言ってた通りだ」

「いやあ、君のお姉ちゃんこそかなり面白い奴だったよ」

「そうなんですか? 家では物凄く大人しかったんですけど」

「ああ、破天荒だった。例えばさ、あいつ、待ち合わせすると必ず遅れてくるんだよ。だいたい毎日何の予定もないくせにさ。で、その言い訳が毎回――」


――ごめん、ちょっと家でやることあったんだ。


修斗の脳裏に鈴音の言葉がよぎった。


そうか、あれは絵を描いていたのか。

俺が遊びほうけている間にも、鈴音はずっと絵を描いていたんだ。

きっと叶えたかった夢のために。


拳をぐっと握りしめる。

彼女の人生が秘められたあの絵を駄作にするわけにはいかない。


「修斗さん?」

「いや、何でもない。とにかくさ、鈴音は本当に面白くて良い奴だったよ」

「はは。姉ちゃんも同じこと言ってましたよ」

「......」


修斗は言葉にならない想いで胸がいっぱいになった。

あの時は困惑で流せなかった涙が、急に鼻腔までせりあがってきてしまった。

慌てて首を横に振り、正気を取り戻す。


「絵、持ってきていただいてもいいですか」


たまらず話を切り替えると、響が頷いて絵を取りにいってくれた。その間、修斗は動揺を悟られないように作り笑いを続けた。

鈴音のお母さんは何も言わずに、温かいお茶を注いでくれた。


すぐに響が階段を下ってくる音が聞こえた。


居間に戻ってきた彼の腕には、額縁に飾られた一枚の絵が抱えられている。

改めてその絵を眺めて、修斗は舌を巻いた。


絵を描くようになってから初めて見る鈴音の絵。

それは未完成といえど、とても素晴らしい絵だった。


青々とした水中の描写は奥行きを感じさせる。

陽光が水面に乱反射して輝いているが、水の奥底は対照的に深い青で染められ、鮮やかに陰影がつけられている。細かな泡沫も描かれていて、作者の余念のなさを感じさせる。


流石にレベルが高い。

鈴音の美的センスの良さが随所にみてとれる。

思い返せば服装もいつもお洒落だった。


そして、ところどころ疎らに空白があるのはこの絵が未完成であることを明確に示している。


特に目立つのは、中心には忘れ去られたかのように広がる大きな空白。


ここに『黒幕』の絵を描きたかったんだ。


修斗は額縁の上から絵を撫でた。


「額縁ごとあげる。大切にしてね」

「はい。本当にありがとうございます」

「もしいい絵が描けたら、僕達にも見せてください」


響は指でグッドサインを作った。

修斗もそれにグッドサインで答えた。


「うん。必ず」


神妙な気持ちで、修斗は鈴音の家を出た。


          ◇


小屋に戻った。

スズは気怠そうに床で寝転がっている。


「あたしの家なのに、なんであたしが入れないのよー」

「それは仕方ないだろ。おばさんも弟さんも元気そうだったよ」

「ふーん。まあ、体だけは丈夫だからね。うちの連中はー」


呑気な会話をしながら、修斗は額縁からゆっくりと鈴音の水彩画を取り出した。

折れないように慎重に取り出し、下敷きの上にのっけた。


スズはその様子を見ようともしない。


修斗は何もつけていない筆を取り出し、イメージトレーニングをした。

大丈夫。絵の基本はもう鈴音が書いてくれている。

自分がやるのはプラスアルファの部分だけだ。

魚の絵は職人芸と言い張れるくらい練習してきたんだ。


この半年間、毎日死ぬほど描いてきた絵たちを思い出す。

修斗は深呼吸をした。


筆を湿らせ、魚色に混色させた絵の具に浸す。

余分な水分を落とし、跳ねないようにクレーンゲームみたいに慎重に筆を持っていく。


真ん中の余白の上に腕がたどりついた瞬間、修斗の右手は震えた。

慌てて修斗は筆を戻した。


ダメだ。描けない。

描こうとするとどうしても手が緊張してしまう。



「っぷ。なに? あたしの絵に筆をいれるからって緊張してんの? 」

「うるさい! 緊張するに決まってんだろ」


失敗は許されない。

鈴音の絵を完成させて、絶対にコンテストで入賞するんだ。


修斗はいつも鉛筆で水彩画の下書きをしていた。

でも、驚くべきことに鈴音は全く下書きをしていないらしかった。紙への影響を嫌っていたのだろう。


消しゴムを使うことによる紙への影響や、下書き線の残留を考えると、統一感を損なわないために修斗も下書きを諦めざるを得なかった。


ぶっつけ本番で何かに挑戦するのは期末テストいらいだ。修斗は額の汗を拭い、意を決して再び筆を握った。


スズは欠伸をしながら、こう言った。


「別に失敗してもいいよ。本気で挑戦してダメならそれは仕方ないこと。上手くいってばかりじゃつまんないし、失敗だって後で活かせばいい。今は自分だけの色をだすことに全力になって」



その言葉は修斗に発破をかけた。

失敗を恐れて結局何もできないことの多かった修斗にとって、失敗を許してもらえることは大きな救済だった。


自分だけの色。

そうだ、いつまでも鈴音のフォロワーでいるわけにはいかない。これは俺が描く水彩画なんだ。

額の汗は止まらないが、手の震えはなくなった。


修斗は完全にインプットした『黒幕』の姿を頭に思い描きながら、ついに筆を水彩紙の上に落とした。


時と共に脈々と魚の姿が描かれてゆく。


荒削りだけど、生き生きとした素晴らしい絵だ。


(ありがとね、修斗)


スズは心の中で呟いた。


机に乗っかった黒猫は、まるで人生最後の景色を瞳に焼き付けるかのように水彩画を見つめていた。

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