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水彩画の中の君へ  作者: 昼夜
6/10

六話

同じ文字を書き続けているうちに、その文字を文字して認識できなくなる現象のことをゲシュタルト崩壊というらしい。


いま、スズの頭の中はゲシュタルト崩壊しかけていた。


修斗は同じアングルの川の絵を何度も何度も描き、くしゃくしゃに丸めてはまた同じ絵を描いている。

集中力は剃刀が磨耗していくように拙くなり、苛立ちが顔に現れはじめていた。


だめだ。だめだ。だめだ。

こんな絵じゃ、誰の心も動かせやしない。

この程度の絵を人に見せるわけにはいかない。

絵を高めようとする気持ちが、修斗の手をますます強張らせる。


一人頭を抱えている修斗の背中を、スズは涼しい顔で眺めていた。


床に落ちているくしゃくしゃの絵を広げてみた。

ところどころ絵の具が滲んで汚れてしまっている。

深い藍色の水中で、黒い魚がぎょろりと目を光らせている。


スズはぽかんと口を開けた。


素直に美しい絵だと思った。


「......いいじゃん、この絵。水中に潜む怪魚の躍動感がよく表現できてる」

「駄目だ。なんか違う。自分で見ててピンとこない」

「ふーん。具体的にどの辺がダメなの?」

「あの魚が放つプレッシャーみたいなものを、この絵からは感じられないんだよ」


確かに、絹糸が動くように流れている渓流の描写に対して、派手すぎる怪魚の存在は若干チープに思える。全体の整合性という点では見劣りする。

でも、これは私には描けない。


「たった半年の間に随分成長したね」


珍しくスズが褒めると、修斗は照れ笑いをした。


「天才だからな。俺.....っていうのは冗談。お前が色々教えてくれたからだよ」


スズは首を横に振った。


実際、教えたのは基本的なことだけで、あとは全て彼の努力の結晶だ。

部活もバイトもない、とてつもなく膨大に余った時間を有効活用して、修斗は脇目も振らずに全て絵に捧げた。短期間でここまで上手くなるのも納得できる。


修斗はもう、私のことなんてとっくに抜き去っている。


私が描きたかったものを描く力を持っている。


あの絵の続きを、もう私が描く必要はないんだ。

そう思うとスズはなんだか吹っ切れた気分になった。

喉の奥につっかえていたものがとれたような、そんな気分だ。


それと同時に、修斗に対する嫉妬や自分が死んでしまったことに対する後悔の念が湧き上がってきた


なんでいま、私が筆を手に持っていないんだろう。


抑えようとしても、どうしてもそんな負の感情が湧き上がってきてしまう。

ああ、私は醜い人間だ。

いやもう、人間ですらないのだけど。

あんなに自分のことを想ってくれている修斗に対して、こんなに感情を抱くなんて。


スズのそんな葛藤など知る術もない修斗は屈託のない笑顔を浮かべている。

その笑顔がまた、スズを孤独にした。


「あたし、ちょっと散歩してくる」

「あ、俺も行くよ、ちょっと行き詰ってるから」

「ごめん。一人になりたいの。ついてこないで」


返答が来る前に、スズは小屋を飛び出した。

どうしてこんなに余裕がないのだろう。


ポツリ。

一人小屋に残された修斗は呟いた。


「うーん。なんか怒らせるようなことしたかな。わからん」


           ◇


無意識に身を任せて走った。

たどり着いたのは、今は懐かしい自分の家だった。


悄然と家を眺めていると、見覚えのある青年が丁度家から出てきた。

母親と弟の姿もちらっと見えた。

精悍な顔立ちの青年は、玄関から笑顔で頭を下げると、踵をかえしてスズのほうへ歩いてきた。

蛇に睨みつけられた蛙のように固まっていると、青年がこちらに気付いた。


「あ」


俊太は低い声で呟くと、やがて微笑んだ。


「鈴音。久しぶりだな」

「......猫なんかと話してると変人に思われるよ」

「ああ。あの時はごめん。皆の前だったからさ。仕方がなかったんだ」


そう言うと俊太は腰を屈め、スズに目線を合わせた。


「で、なんであんたがあたしの家から出てくるわけ?」

「鈴音が死んで半年経つから。久々に拝みに来たんだよ」


俊太は両手を合わせ、祈る仕草をした。


そうか。私が死んでもう半年になるのか。

気が付けば、空気は冷たくなり街は色づきはじめている。


この街が純白に染まる日もそう遠くはないだろう。


「ダイレクトに言うけどさ、修斗と仲直りしないの?」

「してもいいけど、あいつが拒絶するよ。俺は俺で、修斗のことを想って敢えて嫌らしい態度を取ったんだけどな。あいつ、鈴音が死んでからずっとおかしいから」

「は? どういうこと?」


スズが尋ねると、俊太は目を丸くした。


「修斗のやつ、もう三ヵ月くらい学校来てないんだ。完全に不登校だよ」

「はあ!?」


スズは思わず叫んだ。

盛りのついた猫のようなけたたましい鳴き声が街に響いた。


「あれ、知らなかったの?」

「そんなこと、あたし全く知らなかったんだけど!」

「まじか。俺はてっきりずっとスズの小屋にいるのかと思ってた」

「いや、毎日いるけどさ。でも、いつも来るのは夕方だから、学校終わってから来てるもんだと......」


意味がわからない。そんなこと聞いてない。

でも、そうだとしたら修斗の絵の異常な成長スピードにも納得がいく。


学校に行く時間も惜しんで絵を描いていたなら、上手くなるのも当然だ。でも、だとしたらなんで黙っているのだろうか。それが腹立たしい。

友達には嘘をつかないんじゃなかったのか。


何より、なんで私なんかのために自分の人生を滅茶苦茶にしかねないことをしてるんだ。


「気を遣ってんだろ、たぶん。自分に気を遣ってほしくないがためにさ。そういう奴だよ、あいつは」


スズは小屋に向かって一目散に駆けだした。

呼び止める俊太も無視して、睨みつけてくる野良猫も無視して、時間の流れさえも越えていく速度で川に向かって走った。


小屋の扉は閉ざされている。

戸を開けようとしても、肉球のついた手じゃ開けられやしない。がりがりと、爪を研ぐように古い扉を引っ掻く。


甲高い鳴き声をあげながら、ドアを何回も叩いた。


「なんだよ。腹でも減ったのか? この間猫缶あげたばっかだろ? おおん?」



スズの背後から、飄々とした男の声が聞こえてきた。

怒る体を押し殺してゆっくりと振り返り、スズは声を震わせた。


「あんた、なにやってんの?」

「え?」

「学校行かずになにやってんのかって聞いてんの」


色をなしたスズにひるんだのか、修斗は閉口した。

沈黙の狭間を縫うようにスズは一歩一歩詰め寄った。


「あんた、留年するつもりなの? あたしが死んだから? ふざけないで」

「いや、俺はーー」

「あたしの死であんたの人生を壊さないでよ。あたしの人生はあたしのもの、修斗の人生は修斗のものよ」


修斗は切なそうな顔をした。

ただでさえ普段からしけた面をしてるのに、今はよりいっそう青白い顔をしている。


「壊れるよ。唯一信頼してた親友が急に死んだら、人生なんて意味がわかんなくなるよ」

「唯一信頼してたって、あんたにはまだ俊太がいるでしょ」

「俊太はもう俺とは違う。俺みたいなクズとつるむより、部活の奴らと一緒にいたほうがあいつのためだ」


修斗は柄にもなく卑屈なことを言った。

それがさらにスズの気持ちに油を注いだ。


「ああそう。ならいいよ。じゃあ次はあんたがあたしに失望すればいい。修斗、あたしね、実は転落死なんかじゃないの。本当は――」

「そんなこと言わなくていい!」


修斗は叫んだ。

その表情は、怒りと悲しいに満ちている。


「わかってんだよ。言われなくたって。少しは俺の気持ちも考えろよ。俺は、あの日から罪悪感で夜も眠れなかったんだ。なんでお前が何も言わずに死んだのかって......その理由が知りたくて、俺はずっと――」



――お前と同じ絵を描いているんだ。



そう呟く声は消え入りそうだった。

今まで見たことのない修斗の表情をみて、スズはもう何も言えなくなってしまった。

また、人を傷つけた。

スズの小さな瞳には大粒の涙が溢れていた。


「ごめんなさい」


贖いの言葉だけが呪文のように口をつく。


「別にお前は悪かねえよ」

「......」


自分はずっと孤独だと思っていた。

誰も自分の気持ちなんてわかってくれなくて、自分は一生このまま一人ぼっちなのだと決めつけていた。

友達はいた。でも、所詮それはただの一時の仲間としか思っていなかった。


お互い付き合うメリットがなくなれば、それまでの縁だと冷めた目でみていた。



それがどうしてだろう。

思ったよりもずっと、私は大事に思われていたらしい。


死んでから気付いたってもう遅いのに。

液体状の悲しみは河原の石を濡らした。


「あたし、もう消えたいな」

「消えるとか軽々しく言うな。せっかく戻ってきたんだから、あと五十年は化け猫としてちゃんと生きろ」

「修斗、お願い。あたしのことを想ってくれるのは嬉しいけど、学校には行って。あんたにはあんたの人生がある。それは、あたしがどんな目に遭おうとも失われちゃいけないものだから」


スズが懇願すると、修斗は乾いた笑いをこぼした。


「安心しろ。俺が学校も行かずに絵を描くようになったのは自分のためだから」

「え?」


修斗は砂利だらけの地べたに座り込んだ。

そして、燦々と眩しい太陽を見上げた。


「楽しいんだ。純粋に。無意味な授業を聞いてるより、絵を描いているほうがずっと有意義に思える」

「でも授業は――」

「何かに本気で打ち込むのってさ。初めてなんだ。俺、ずっと逃げてばかりだったから。そんな自分が、白い紙を前にすると、いつのまにか何を描こうか考えてるんだぜ」


その言葉を聞いて、スズは初めて自分が絵を描いた時のことを思い出した。

真っ白な紙、新品の絵の具、ルールの無い時間。

何を描こうが自分次第。

この紙の中に限っては、私が自由に世界を作ってもいいんだ。


それは寂寥と孤独に塗れていた鈴音の日々に、初めてさした光だった。

あの日から何度も描いた絵たちは今も心の中で輝いている。


修斗もきっと同じ気持ちを感じているのだ。


「わかったよ、修斗。でも、やっぱり学校には行こう。せっかく三年まで通ったんだからちゃんと卒業したほうが良い。あたしの分まで残りの学校生活楽しんで」

「......鈴音の分まで、かあ」


お前がいないと楽しくないんだけどな。

修斗は呟いた。


スズは聞こえないふりをして俯き、考えた。


もしかしたら私は本当にいないほうがいいのかもしれない。


猫になって目の前に現れなければ、修斗はちゃんと学校に行ってだろう。

絵は描いてなかったかもしれないけど、受験勉強はしていたかもしれない。

俊太とも仲たがいせずに済んでたかもしれない。


スズは大きく背伸びをした。


「ま、絵は学校行きながらだって描けるからさ。将来のために学校には行きなさい」

「はは。もう中退は免れないと思うけどな」

「それでも行くの。親が泣くよ」

「お前が言うかその台詞」



修斗は苦笑すると、鈴音を抱き上げて小屋に戻った。


「いま俺行き詰ってんだ。もうすぐコンテストの応募締め切りなのに。ちょっと見てくれよ」

「学校行くならいいよ」

「わかったって! 行きますよ。行く行く。まあ、もう学校ふける理由もなくなったし」

「何よ理由って」

「『黒幕』だよ。俺、黒幕を狙ってずっと渓流釣りしてたんだ。釣り糸垂らしながら絵を描いてさ。でも、お前の弟が釣ってくれたからもうその必要はなくなった。俺の半年がお前の弟の数日に負けたんだぞ。あいつ、将来釣り名人になれるな」


おどける修斗の腕の中で、スズは泣きそうになった。


もうこの日々をそんなに長く続けてはいけない。

どんな物語だっていつかは終わらせないと駄作になってしまう。


だから、残された日々を大切に生きなければならない。戻れない日々を未来で後悔しないために。


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