五話
大人になってもずっと一緒に遊ぼうね。
これまでの人生で、そんな約束を何回か交わした。
でも、それらはことごとく時の流れの勢いに押し流されてしまった。
俊太ともそうなってしまうのだろうか。
彼はすっかり小屋に現れなくなった。
道ですれ違っても、少し目が合うだけで会話はない。常に忙しない表情をしているからだ。
まだ会話があった頃、いつも嬉しそうに最近忙しいって言っていた。忙しいって、そんなにいいことなのか?
他にも話しかけづらい理由はある。
スズのことを幻だと言われたことがまだ許せない。
こっちから歩み寄って謝れば、また元の関係に戻れるかもしれない。
でも、それじゃスズのことを幻だと認めてしまうみたいで悔しい。
小さなプライドと儚い祈りが邪魔をする。
どうでもいいじゃないか。
もう、あいつのことはどうでもいい。
基本的に自分のことすらどうでもいいんだから、他人のことは気にしないようにしよう。
修斗は人間関係のもやもやを全部絵にぶつけた。
スズと自分しかいない空間で絵を描くのは、何も余計なことを考える必要がなくて気が休まった。
とはいうものの、あの日以来スズもあまり元気がない。
「スズ、見て。これはなかなかの出来だろ?」
今回絵に描いたのは街の絵だ。
鮮やかな茜色にこだわった、夕焼けの街の絵。
高台から見える街並を写真にとって、そのまま絵に落とし込んだ。
これまでで最も綺麗に書けたかもしれない。
「ふーん、いいんじゃない」
スズは欠伸をしながら、そっけなく呟いた。
自信作を上の空で返されて、修斗は少し悲しくなった。その様子を見てか、スズは少し面倒くさそうにため息をついた。
「絵上手くなったね」
「ありがとよ。でも、俺なんてまだまだだ。こんなんじゃ賞は取れない」
「だろうね」
「だろうね、じゃなくてさ。なんか具体的なアドバイスくれよ。ここをこうしたほうがいいとか」
修斗がたまらず催促すると、スズはぴょこんと飛び上がり、古い机の上に着地した。
そして、窓の外を退屈そうに眺めながらポツリとこう言った。
「想いが伝わってこない」
その短い言葉は矢のように修斗の心を射抜いた。
想いが伝わらない? これだけ一生懸命書いてるのに?
「あんたさ、賞を取るために書いてるの? 何様のつもりなの」
「いや、賞に応募しようって言ったのお前じゃん」
「あたしは賞を一つのゴールとしてあげただけ。賞を取るために絵を描けって言ったわけじゃない」
窓の外を見つめていたスズは、今度は修斗の肩の上に飛び乗った。スズは柔らかな前足で修斗の肩を踏みながら、こう言った。
「修斗。素晴らしい絵っていうのはね、見る人の心を切り取るのよ。見る人の心を震わせて、その人の胸の奥にしまいこまれた光景を思い出させるの。そういうパワーを持った絵を描くには、どうすればいいと思う?」
「......」
滔々と紡がれたスズの言葉は散文詩のように修斗の心に入り込んできた。
人の心を震わせる?
こんな自分にそんなことができるのだろうか。
「わかんないや」
修斗は口を尖らせた。
スズは喉を鳴らしながら、修斗の頬に弱めの猫パンチをした。
「簡単よ。まずあんた自身が心を震わせなきゃ。自分が感動できない絵で人を感動させられると思う?」
この三ヶ月、自分の描いた絵を眺めてみる。
どれもこれも描きあげた時は嬉しくてすぐに小屋の壁に飾った。
俯瞰すると、共通点が見えてくる。
「綺麗」なものを描くことにこだわっていて、絵の一つ一つに主張が感じられない。
結局何を伝えたいのかよくわからないのだ。
飲食店に飾られていてもおかしくはないのだけど、存在感がないとも言える。
「修斗が心から描きたいものってなんなんだろうね」
「俺が描きたいものは――」
自分が描きたいもの。
自分が絵をはじめるきっかけになったもの。
死んだ友達が完成させられなかった一枚の水彩画。
修斗は音を立てて立ち上がった。
スズは驚いて数歩飛びのいた。
「なに、急に」
「降りてきた」
「は?」
「釣りにいくぞ」
「なんでそうなるの」
「......思い出したんだ。俺が描きたいもの」
修斗は目にかかった髪をかきあげた。
「格好つけんの下手だね」
◇
川の上流へ向かった。
小屋がある場所から上流まで、徒歩で四十分ほどかかった。釣り道具を担いでの移動は、運動不足の体にずしんと響いた。
魚がいそうなポイントに目をつける。
岩に水流かぶつかり、飛沫となって水面を白く揺らしている。
その横に、ちょうど流れが清らかな場所があった。
経験上、水泡が豊富に浮かんでいるところが魚が潜んでいるポイントだ。
あそこに糸を垂らすためには、どこへ座るのがベストだろうか。
見渡すと、向こう岸におあつらえ向きな岩があった。
が、先客が座っていた。
頭に麦わら帽を被った少年だ。
「あれ、あの男の子、どこかで......」
「響だ」
スズはポツリと呟いた。
響は鈴音の弟だ。
年齢はたしか五つ下で、今は中学生くらい。
最近は全然話したことがないが、修斗が小学生の頃まではよく遊んでいた。
親が忙しい鈴音の家庭では、幼い弟の面倒を見られるのは鈴音しかいなかった。
修斗はスズを見つめた。
声をかけるか否かは、スズの気持ち次第だ。
しかし、修斗が問いかける前にスズは響のほうへ向かって歩いていた。
響は自分に近づいてきた猫に気付き、わずかに顔を綻ばせた。そして、その後ろに立っている修斗の存在に気が付いて、思わず二度見した。
「あ、どうも」
「どうも」
なんというか、友達の兄弟というのは地味に対応に困る。
「えっと......たしか、響くんだよね。俺、鈴音の友達だった――」
「修斗さんですよね。ご無沙汰してます。あ、この前は姉に会いに来てくれてありがとうございます」
「う、うん。こちらこそ」
響は丁寧に斜め四十五度のお辞儀をした。
洗練されたその挙措は、あの粗暴な鈴音の妹とは思えなかった。
姉弟のどっちかがおかしいともう片方はしっかり者になるという噂は本当だったようだ。
間近で見る響は鈴音と同じで、端正だけどどこか寂しそうな顔立ちをしている。
頭に被っている麦わら帽は、姉の形見だろうか。
「どう、釣れてるかい?」
「いえ全然。実は僕、釣りが苦手なんです」
「はは。そうなんだ。苦手なのに、よくこんな険しいところで釣りするねー」
修斗は隣の岩に腰かけた。
響は大きなバケツを携帯している。しかし中身は空っぽだ。
「主を釣るためです」
「主?」
修斗は目を丸くした。
「はい。姉ちゃんに教わったんです。この川には『黒幕』っていう、物凄く大きい怪魚がいるんだって。なんでも体長が一メートルもあるらしいですよ」
「......へえ、鈴音がそんなことを」
修斗は半笑いしながらスズをみた。
スズはどこ吹く風でそっぽを向いている。
あいつ、俺の前では半信半疑だったのに。
「それで君は釣りをしてるわけか」
修斗が微笑むと、響は複雑そうな表情をした。
そして、憎たらしいほど青い空を見つめながら、姉とよく似た形の鼻を撫でた。
「姉ちゃんがいなくなって、僕なりに色々考えたんです。自分が姉ちゃんにしてやれなかったことは何だろうって。何か、僕が何か少しでも姉ちゃんが喜ぶようなことをしてあげていれば、姉ちゃんはまだ生きてたんじゃないかって」
「......」
自分が行動をしていれば、鈴音は生きていたかもしれない。そんな弟のひたむきな想いを聞いて、スズは何を思うのだろう。
「でも結局何をどうすべきだったのか、なんにもわからなくて。ただ、一つだけ浮かんだのは『黒幕』のことだったんです。本当に楽しそうに話してましたから。まあ、今釣ったってもう姉ちゃんには見せられないんですけどね」
響は諦めたような顔をした。
修斗はその背中をポンと叩き、励ました。
「そんなことないぜ。たぶん、いや、きっとみてるよ。どっかで」
「え?」
響は目をぱちくりと瞬かせた。
スズは何も言わず、心優しい弟の顔を見つめている。
「俺もさ、あいつのために釣りにきたんだよ。この川にいる『黒幕』を」
修斗は慣れた手つきで腕を振り、鮮やかに釣り針をキャストした。針の糸を通すように、釣り針は狙ったスポットに着水した。
スズは修斗の膝の上に座りながら、水に広がる波紋をじっと目で追いかけている。
「実はさ、『黒幕』を見たことあるの俺だけなんだ。鈴音には一度も見せてやることができなかった」
「え? そうだったんですか? 僕はてっきり姉ちゃんが発見したんだと」
「うん。あいつの部屋にさ、描きかけの水中の絵があったろ? あの絵にはきっと未だ見ぬ『黒幕』が描かれる予定だったんだ。少なくとも俺はそう思ってる。だからーー」
そこまで言ったところで、膝の上のスズが暴れだした。修斗の膝に爪を立て、不機嫌そうに鳴き声をあげている。暴れるたびに首輪の鈴がりんりんとなって、何かの音楽を奏でているようだ。
その様子をみて、響は笑った。
「その黒猫、修斗さんのですか? 額の三日月模様が綺麗で可愛いですね」
「ああ。虎みたいに凶暴な猫だけどな」
ぽちゃん。
水が跳ねる音が聞こえた。
二人同時に川面を見ると、響の竿が猛烈にしなっていた。
「お、おい。響くん、当たってるよ」
あの引き具合は少なくとも雑魚ではない。
かといって、この川にあんな引きの魚いるだろうか。
根がかりか?
いや。
「『黒幕』かもしれない! 頑張れ!」
「え、え? えっと、どうしたらいいんでしたっけ」
「慌てないで。無理にあげると糸が切れる」
修斗は響の竿に手を添え、震えている竿を落ち着かせた。こういう時はゆっくり、冷静になって時間をかけたほうがいい。
魚の影はまだ見えない。
標的が右へ行ったら竿も右に傾け、左へ行ったら左に傾ける。そうして糸に余計な力をかけないようにしながら、さりげなく糸を引いていく。
徐々に徐々に獲物を疲れさせ、こっちへ寄せていく。
二人と一匹は息を呑み、その瞬間を待った。
ぽちゃん。ぽちゃん。
水が弾ける音が大きくなってゆく。
静かな渓流に、魚が舞い踊る音が響いた。
突如、それは姿を現した。
「なんだあれ......」
真黒な、巨大な魚が首をもたげていた。
一メートルはありそうな長い体と、細かい斑点のある黒い体。
あんな魚は見たことがない。
幼い頃にみたあの大きな魚影。
きっとこいつが『黒幕』の正体に違いない。
懐かしい記憶がメリーゴーランドのように頭の中を回転した。
「修斗さん。あ、あれが『黒幕』ですか?」
「そうだと思う」
「あんなでっかいの本当に釣れるんですか?」
響は怯えたような顔をした。
確かに、こんな安い釣竿でつりあげるにはアレの体は大きすぎる。
でも、別に釣れなくてもいい。
こいつの姿さえなんとか記憶できれば。
その時、スズが喋りはじめた。
「修斗。あれは流石に釣れないよ。多分、響が一眼レフ持ってるはず。それで写真だけでも取った方が良い」
「名案だ! 響くん、一眼レフ持ってるだろ? 竿は俺に任せて写真とって!」
「え? は、はい。わかりました!」
黒い怪魚は不気味なほど大人しくしている。
本当に竿にかかっているのか疑わしくなるくらい、水面で王者のようにとどまっている。
響は焦って何回も手を滑らせながらも、一眼レフを構えた。
「いつでも撮れます!」
「よし。できるだけ長くキープする。最高のアングルでとってくれよ」
「はい!」
修斗は少し竿を遊ばせてみた。
すると、これまで大人しくしていた怪魚は急激に暴れはじめた。
猫よりも大きなその身体が、何度も空気と水の境界線を出たり入ったり踊っている。
静寂の渓流に、シャッター音と水が跳ねる音が交互に響き渡った。
「......これが黒幕なのね、修斗」
スズがぽつりと呟いた。
「そうだ。よく目に焼き付けとけよ、鈴音」
「すごいね! 嘘じゃなかったたんだね。やるじゃん修斗」
「当たり前だ!」
修斗が声を張り上げた瞬間、バチン! と何かが爆発したような音がした。
その音と同時に、釣竿は勢いよく宙を舞った。
『黒幕』は鮮明にその姿を水面に留めていた。
丸い眼はギョロリと剥かれ、大きな口は開きっぱなしになっている。
二人と一匹は吸い込まれるようにその姿を見つめていた。まるで、お伽噺上の存在と対峙しているかのように、現実感のない空間が広がった。
わずかな時が経ち、『黒幕』はゆっくりと川の深みへ消えていった。
「すごい。あんな大きな魚がこの川にいたなんて」
修斗は思わずニヤけた。
まさか、本当に黒幕が釣れるとは思わなかった。
それもこれも響のおかげだ。もしかしたら鈴音の加護があったのかもしれない。
「そうだ! 写真とれたかい?」
「はい。ばっちり沢山撮りました。あ、でもどうしてわかったんですか? 僕がカメラ持ってること」
「へ? いや、それは......そうだ。鈴音に聞いたことがあるんだよ。君が写真好きだってこと」
「へえ。そうなんですか」
「そそ。ほら、写真見せてよ」
撮影した画像を見せてもらうと、迫力満点の魚が大写しにされていた。流石は一眼レフだ。
「この写真、姉ちゃんの仏壇に飾ります」
「ああ。そうしてやるときっと喜ぶよ」
「はい。でも、間に合うとは思わなかったなあ」
「間に合う?」
修斗が首を傾げると、響は満面の笑みを浮かべた。
「今日、誕生日なんです。姉ちゃんの18回目の」
◇
響を見送ると、修斗は小屋に戻った。
去りゆく弟の背中を見つめているスズは流石に寂しそうだった。
でも、俺にはどうもしてやれない。
「お前、18なんだな。もうおばさんじゃん」
修斗はからからと笑いかけた。
スズは黙って修斗の足を叩いた。
「あんたは誕生日まだだっけ」
「ああ。俺はクリスマスだから。きっとキリストの生まれ変わりなんだな」
できることはジョークを飛ばして笑わせるくらいだ。
そのくらいしかできない。
しかし、スズは笑わなかった。
「あたし達、お互いの誕生日も知らないんだね」
「そうだな。長い付き合いなのにな」
「うん。あたし、俊太の誕生日もわかんない。ダメね、ほんと」
笑う修斗とは対照的に、スズの呟きには寂しさが混じっていた。
修斗は深呼吸をした。
「俺さ、黒幕の絵を描いて、そんでもし入賞できたら俊太と仲直りするよ」
スズは小さな耳をぴんと立てた。
「それ、永遠に仲直りできないやつじゃん」
「んなこたねえよ失敬な。そう遠くないさ、俺は友達に嘘はつかない男だ」
「ふーん」
スズは器用に修斗の肩に飛び乗った。
「その言葉、忘れないからね」
「ああ。賞をとったら土下座でもなんでもして、必ず仲直りしてみせるよ」
修斗は息巻いた。
「頼むよ。あたし、三人で遊ぶの楽しかったんだから。また、三人で集まりたいよ」
「ああ、任せろ」
「約束だよ」
約束。
美しい響きを持つその言葉は、確かに修斗の記憶に焼きつけられた。
しかし約束は、時に残酷な鎖となる。
修斗がそのことを知るのは、そう遠くない日のことだった。