四話
それから、三ヵ月の時が経った。
季節は移ろい、秋の始まりが訪れている。
修斗は高校の授業が終わると真っ直ぐに川へ向かった。
今日は何もやることがない。
でも遊ぶ相手は探さない。
空気が冷えてきたせいか体が疲れてるし、毎日がイベントじゃ飽きてしまうから。
こんな時、いつもなら部屋で爆睡して携帯いじってユーチューブを見て一日が終わる。
でも、近頃なんだかおかしい。
ふとした瞬間に、次はどんな水彩画を描こうか考えている。
修斗は川のほとりの小屋に画材を持ち込み、水流に耳をかたむけながら絵を描いていた。
そのすぐ傍では一匹の黒猫が欠伸をしている。
額の白い三日月模様が特徴的な、どこにでもいる可愛らしい猫だ。
中身に死んだ人間の人格が宿っていて、言葉が話せる以外は極めて凡庸だ。
「ねえ、修斗。最近なんかあった?」
「あった。友達がいきなり死んで、そんで猫になって戻ってきた」
「いや、そうじゃなくってさ。なんつーか......性格が変わるようなこと?」
スズは首を傾げた。
ぬいぐるみのように毛むくじゃらの身体は、よく毛繕いされていて輝いている。
「別に? なんでそんなこと聞くんだよ」
「なんとなく」
「いつも通り、真面目で素直な俺だろ」
スズはたじろいだ。
ふざけた性格なのはいつも通りだが、絶対なんかおかしい。
面倒くさがりで、寝坊助で、何事に対しても斜めから見ているような冷めた男が毎日のように机に向かって一つのことに熱中している。そんなに絵を描くことが楽しかったのか。
絵の魅力は十分すぎるほど知っているスズだが、流石に疑問に思った。
「できた! ほら、見ろよ見ろよ」
修斗はスズを机の上へと持ち上げた。
たった今描きあげられた新鮮な絵の隣に、初心者向けの教則本が置いてある。
最初に持って来たあの川の絵以来、こうして絵をみせびらかされたのは五十作品目くらいだ。
中には眩暈がするくらい酷いものもあれば、唸らざるを得ないようなものもあった。
そんな時はなるべく悪いとこだけ言って、良い所は褒めないようにした。絵描きという、本来自分の庭であるフィールドで修斗に調子に乗って欲しくなかった。
今度の絵はどんなもんだろう。
「ふーん」
「どうですか先輩」
「......だいぶ慣れてきたんじゃない? 色合いとか、結構あたしの好みかも」
描かれていたのは海辺の絵だった。
エメラルドグリーンの海が広がっていて、黄昏の地平線上に一隻のヨットが浮かんでいる。
妙に洒落た構図だ。修斗が考え出したとは思えない。
「この絵、どこからインスピレーションを?」
「ジョーズだよ。この前金ローでやってた」
「はは。修斗らしいね」
アイデアは意外なところから生まれる。
電車の吊り下げ広告だったり、通りすがりの会話だったり、ランニング中だったり。
世界中の人を虜にするようなラブストーリーだって、きっと元を辿ればなんてことないものから生まれたことも多いだろう。
「いやあ、参ったな。絵を初めて三ヵ月。それだけの日々でスズを感心させちゃうなんて。ひょっとして、俺才能あるのか?」
「あんた暇人だからね。そりゃ三カ月間、放課後を全て捧げれば上達するよ。努力と熱意は認めるけどさ。でも、あんた大丈夫なの?」
「何が?」
「大学受験。それとも進学しないで就職するつもり?」
「さあさ、次の絵を考えよ。そうだ、散歩でもいかないか?」
修斗は露骨に話題を逸らし、抱きかかえていたスズを床に下ろした。
迫りくる未来の話が怖いのはよくわかるが、そのあまりの露骨さにスズは失笑した。
でも、その笑顔の灯は風に吹かれてすぐに消えた。
自分は他人のことなんて言えない。
大人の自分を迎える前に去ってしまったのだから。
「あのさ、修斗」
「なんだよ。進路のことならまだ考え中だよ」
「違う。絵のことで、一つ提案があるんだけど」
「提案?」
修斗は鞄から板チョコを取り出すと、がぶりと美味そうに噛みつきはじめた。さながら断食を終えて久々の飯にありついたみたいに、いちいち感嘆の声をあげている。
猫になってから甘いものを食べていないスズはそれが物凄く恨めしかった。
「何のゴールもなくひたすら絵を描き続けるのって疲れない?」
「んー、まあ」
「そうでしょ。だからさ、コンテストに応募しなさいよ。あんたの作品」
「コンテスト? いいよそんなの。芸術は競うものじゃないぜ」
「賞金も出るのよ。最優秀賞だと十万円。しかもフランス留学付き」
「十万円!?」
修斗はチョコレートを一気に頬張ると、スズの目線に合わせるように四つん這いになった。
「面白え。わくわくすっぞ」
わかりやすい奴。
スズは猫目を細めた。
「まあ、入賞するわけないとは思うけど。何の目標もなくひたすら描くだけじゃ、上達に限界があるかなと思って」
「おお、俺のことをそんなに親身に思ってくれてたのか! お前やっぱ良い奴だな、スズ」
「勘違いすんなよ。あんた、あたしが完成させられなかった絵の続きを描こうとしてるんでしょ? 下手なものを描いてもらっちゃあたしが困るの」
スズは拗ねたように言うと、床に転がって不貞寝を始めた。
わかりやすい奴。
修斗は右口角を吊り上げた。
「俺、ちょっと携帯でググってみる」
調べてみたところ、スズの言うとおり今年いっぱいは応募できるコンテストが開催されていた。
県主催で、応募資格は18歳以下の県内の学生に限ると書いてある。全国規模でなく、県規模ならワンチャンあるんじゃないか?
と思ったのも束の間。
そんな皮算用はすぐに打ち砕かれた。
去年の入賞者たちの作品を見ると、どれもこれもレベルがまるで違った。
絵の知識のない修斗が見ても、尋常じゃないことが伝わってくるレベルの絵だった。
修斗は脱力して、携帯の画面を閉じた。
やっぱり何事にも才能という言葉がついてまわるんだ。
ましてや絵なんて小さい頃から優秀な親に英才教育を受けてきた化け物がひしめいているに決まってる。
少し考えればわかることだ。
「ごめん、スズ。俺やっぱ――」
「あたしの絵、完成させてくれるんでしょ? でないとあたし、一生成仏しないよ」
「それとこれとは――」
「一回、やってみよう。ダメ元でいいから。一回本気だしてみよう。あたしが一緒に描いてあげる」
スズは薄桃色の肉球が眩しい前足を天に掲げた。
そんな丸い手じゃ、筆を握ることもできないのに。
修斗は笑った。
随分だらしなく思われたものだ。
まあ、どうせ俺にはやりたいことがないんだ。
こんなクソみたいな人生、終わったも同然。
膨大に残されただけの時間を、今は亡き鈴音に分けてあげると思ってみてもいいかもしれない。
修斗は猫の手を借りることを決意した。
「わかったよ。やってみるぜ、スズ」
「そうこなくっちゃ!」
スズの声には興奮が感じられた。
本当は自分が応募したかったんじゃないか?
修斗はスズの肉球をつつきながら、そんなことを思った。
「よし、そうと決まればアイデア探しだ! スズ、行くぞ」
「えー、もう夕方やん。どこいくの?」
「何言ってんだ、猫は夜行性だろ。行き先は......適当だ」
「あんた、いつも行き当たりばったりね。そんなんじゃモテないよ」
「いいんだよ。俺は孤独と愛し合ってるから」
「きもいね」
二人が小屋を出て、河川敷からあがろうとすると、丁度部活帰りの学生たちが群れをなして歩いていた。
「あ」
修斗は立ち止まった。
群れの中に、俊太がいた。
周りには坊主頭の学生が沢山いて、俊太の隣には可愛らしい女の子が寄り添って歩いている。
「お」
修斗の視線に気づいたらしく、俊太は立ち止まった。
それに伴い、周りの取り巻きも立ち止まった。
修斗は思わず目を逸らした。
絵をはじめてからの三ヵ月。
実はほとんど俊太とは話していない。
向こうも忙しそうだし、こっちも絵に描くことに熱中していたから。少し前まで親友だったはずなのに、今ではどこか気まずい。
「修斗、久しぶりじゃん。元気か?」
「あ、ああ。そこそこ」
「そっか。それは良かった。絵、相変わらず描いてんの?」
「まあ、多少は......」
いまいち会話が弾まない。
修斗は縋るような思いでスズを見つめた。
三人の内誰か二人が気まずくなったとき、残った一人が中を取り持つのが暗黙の了解だった。
スズはてくてくと俊太に歩み寄った。
「よ! 俊太、その可愛い子が彼女? 後輩かな? やるじゃん」
陽気な声音で話しかけるスズを、俊太は何故か無視した。それとは裏腹に、彼女のほうはスズに食いついてきた。
「わあ可愛い。この子、野良猫?」
「いや、友達の飼い猫。首に鈴ついてるだろ」
俊太はぬけぬけとそう言うと、スズの頭を撫でた。
「おい、お前何言ってんだよ。こんな恐ろしい猫、飼えるわけないだろ。中身鈴音だぞ」
「修斗、変なこと言うなよ、鈴音は亡くなったんだ。冗談で名前を出すんじゃない」
「は? お前なあ......おい、スズ。このすっとぼけに何とか言ってくれよ。俺じゃ手に負えねえよ」
修斗はスズに話しかけ、抱き上げた。
その様子をた俊太の彼女は怪訝な顔をしている。
「あはは、修斗は本当に剽軽だな。猫が話すわけないだろ」
「い、いやいやいや。お前だってこの前まで話してたろ」
修斗は思わず声を荒げた。
「幻聴だよ。突然鈴音が死んだから、あの時は俺もお前も頭おかしくなってたんだ」
「お前......本気で言ってんのか?」
「こっちの台詞だよ。修斗、現実見ろよ。学校さぼって猫と会話して。今のお前おかしいよ」
修斗は胸に燃え滾る怒りの気持ちを抑えることで精いっぱいだった。
でも、スズがその小さな前足で修斗を制止していたから何もできなかった。
「あ、ごめん。これから野球部で焼肉行くから。またな」
俊太は修斗の肩を叩くと、彼女の手を握ってさっさといなくなってしまった。
ぽつり。
取り残された二人を煽るように、群青の夕暮れから雨が降ってきた。
「ふざけんな!」
修斗は小石を思いっきり蹴飛ばした。
自動販売機にぶつかって、石が弾ける無機質な音が響いた。その音で修斗は我に返り、慌てて抱き上げていたスズを地面に下ろした。
「スズ......ごめんな。俊太の馬鹿があんなこと言って」
「別に。気にしないよ。おかしいのは自分でもわかってるから。それにあんたが謝ることじゃない」
「でも――」
「俊太の気持ち、わからなくもないから。猫と人間が喋ってるなんて異様だし、ましてやあたしが......死んだ鈴音が憑りついてるなんて、彼女の前では言えないよね」
小さくなっていくスズの声は修斗の胸をちくりと刺した。
「関係ないよ」
「え?」
「どんな姿になったって、たとえ幻聴だとしたって、鈴音は鈴音だろ。俺はいま確かにこうしてお前と話してる」
修斗は地面に落ちている石を拾った。
「もう一度、お前と話したかったんだよ。俺も俊太も」
ふわふわな黒猫は地面を見つめながら、かすかに震えている。
「ごめん」
「いやいや、何謝ってんだよ。ありがとうって言うところだよ」
「違う。あたし、あたしは......」
スズはすすり泣きをはじめた。
その様子を、修斗は黙って見つめた。
鈴音は昔から勝気なやつだったけど、たまに堰を切ったように泣き出すところがあった。
精神的に不安定というか、極端なニ面性を持っていた。本人は自分はAB型だからだといって笑っていたけど、本当は自分の心の調子の振り幅に悩んでいた気がする。
「あたし、どうしようもないんだ。本当に。死んだ方がいいの」
「なんでそんなこと言うんだよ。もう死んでるくせに」
「......」
修斗のツッコミには答えず、スズはそのまま小屋を出て行った。
修斗は去って行く小さな背中を追いかけることもできず、ただ見つめていることしかできなかった。
自分が嫌いなのは、スズだけじゃない。
俺だってそうだ。
でも、俺は自分は嫌いだけど、スズは好きだ。
だからあんな卑屈なことを言ってほしくない。
それを本人に直接言えない自分が情けなくて、また自己嫌悪に陥る。
「あーあ」
破れた窓の隙間から、強い風が吹いてきた。
春に俊太と鈴音と三人で並んで取った写真が、ことんと音を立てて倒れた。
修斗は一抹の寂しさを抱えながら、写真を立て直し、ため息をついた。
続く。