二話
翌日も、翌々日も修斗は川に通った。
猫になった鈴音に会うためだ。学校が終わると、幽霊バスケ部員の修斗はすぐに学校を飛び出した。
野球部の俊太は夕方まで練習があるから平日は遊べない。
「ったくさあ、最近付き合い悪いんだよな。俊太のやつ」
「部活でしょ? 仕方ないじゃん」
「そうだけどさ。でも、あいつ最近土日まで部活で忙しいとか言うようになったんだぜ。いくらなんでもやりすぎだろ。どんなに練習したってどうせ私立には勝てないのにさ」
修斗は川に釣り糸を垂らしながら言った。
どんなに練習をしたって、ただの市立高校じゃ限界がある。小さい頃からずっと練習をしてる連中に勝てるわけがないし、才能や環境に恵まれている連中がこの世には五万といる。
バスケの大会で化け物みたいな巨人たちを目にしてきた修斗はそれを痛感していた。
プロになれるわけでもないのに、強い奴らの脇役になるだけなのに、そこまでの時間を捧げる価値が見いだせない。そんな諦念に満ちた考えが修斗を部活から遠ざけてしまった。
「前から言いたかったんだけどさ、あんたの考えってただの負け犬だよね」
スズは欠伸をしながら言った。
額の三日月模様が川から弾けた水で濡れている。
「そうかもな。でもさ、世の中にはどんなに頑張ったって負け犬にしかなれない奴が沢山いるんだよ。だから俺はそうなる前に――」
「限界まで頑張って負けることと、最初から諦めて逃げることは違うでしょ。それに、頑張った人たちはね、修斗。絶対それに見合った何かを得てるはずだよ」
スズの言葉を聞いて、修斗は黙り込んだ。
彼女には妙に情熱的な部分がある。そこが物事に対して俯瞰的すぎる修斗と相容れないところだった。
いつもくだらないことで口喧嘩になって、それを俊太に止めてもらうことも多い。
俊太がいないと喧嘩がエキサイトして、何日も目線を合わせなくなることもあったくらいだ。
「そういうスズこそ部活やってなかったくせに」
「あたしは塾で忙しかっただけよ。それに、あたしにだって情熱を傾けるものくらいあった」
スズは得意げに額をこすった。
もうすっかり猫でいることに慣れたらしい。
「ああ、昼寝でしょ?」
「違うわ! 教えないよーだ」
「なんだよ。もったいぶんなよ」
「教えたってあんたにはわかんないもん」
軽蔑するような視線を向けられた修斗は少しムッとしてしまった。
「わかるよ。俺はこう見えて歩く生き字引と呼ばれた男なんだぜ」
「よく言うわ......ま、教えてもいいけどさ。水彩画だよ」
「すいさいが?」
修斗は首を傾げた。
それと同時に川で魚が跳ねるみずみずしい音がした。
スズはむくっと立ち上がると四足歩行で川に近づき、水を飲み始めた。
「絵だよ。水で溶かした絵の具で描く絵」
「絵!? お前そんな特技があったのか。不器用そうなのに意外だな」
「不器用は余計だね。こうみえて絵には自信があるのよ。絵画教室の先生にも褒められたことあるもん」
スズは得意げに言った。
彼女が絵を描いていたなんて初めて知った。
そんな高尚な趣味を持っていたなんて。
男に混じってサッカーボールを蹴ってる姿からは想像もつかない。
「へえ、そんなに得意なんだ」
「うん。絵を描きはじめると止まらなくてね。毎日一作のペースで書いてたよ。徹夜でね」
「はは。だからいつも授業中寝てたんだな」
鈴音はいつも一限目から爆睡していた。
無神経な寝癖を立てたまま、白昼堂々意識を持って失っていた。
その原因は意外なところにあったようだ。
「なあ、そんならさ。描いた絵を見せてよ」
「やだよ。あんたどうせ馬鹿にするもん」
「しないって。俺は人が本気出してることは絶対茶化さない」
「俊太の野球馬鹿にしてんじゃん」
修斗は苦笑した。
別に俊太が部活を頑張ることを馬鹿にしてるわけじゃない。ただ自分には理解できないだけだ。
冷めていることは重々承知している。
「ま、いつかね。いつか機会があれば見せてあげる」
「いつかっていつだよ」
「そうねー。私が何か大きな賞でもとったらかな」
「はは。無理じゃんそんなの。第一、お前もう死んでるだろ」
修斗がそう笑いかけると、スズは一瞬だけ猫目を大きく見開いた。そして、少しの間沈黙すると、面倒くさそうに前足を舐めた。
その日の夕方だった。
最近では珍しく、俊太から電話がかかってきた。
☆
「そうか。今日で鈴音が死んで一週間か」
「そうだよ。なんか変な感じだな。まだ生きて横にいるみたいだ」
「実際いるからな」
並んで歩く修斗と俊太の後ろを三日月模様の黒猫がてくてく歩いている。
スズだ。
これから向かう場所は鈴音の家だ。
鈴音の葬式は徹底して親族だけで行われたらしく、たとえ友達であっても2人が呼ばれることはなかった。
俊太は懇願の末、鈴音が亡くなって一週間経ってようやく仏壇に手をあわせる許可を得ることができたらしい。そこに修斗も呼ばれた感じだ。
このことをスズに言おうか迷った。そして結局言った。全く言わないのも嘘をついてるみたいで嫌だった。
しかし、俊太には少しだけ咎められた。
二度と帰ることのない我が家を思い出させるのは彼女にとって辛いことだと思うから。
ただ、ひとつだけ、確かめたいことがある。
それは猫になった鈴音の声が彼女の家族にも聞こえるかということだ。
今のところ、自分たち以外では鈴音の声が聞こえたものはいない。
だから修斗はスズを連れてきた。
もし会話ができるなら、きっと伝えたいこともあるだろうと思ったからだ。
「ついた。相変わらずでけえ家だな」
修斗は呟いた。
鈴音の家はお金持ちだ。
庭付きの一軒家で、真新しい屋根の瓦がまばゆい。こんな格調高い家からどうして鈴音みたいなかしましい娘が育ったのだろう。
インターホンを押すと、茶髪の女性がでてきた。
「松本俊太くんと......そっちは宝井修斗くんね」
「はい。夜分遅くすみません」
「いえ、こちらこそ。鈴音のために夜分にありがとう」
鈴音の親とはほとんど話したことがない。
学校行事には来ないし、鈴音自身も家族の話はしたがらなかった。
あまり仲がよくなかったのかもしれない。
振り向くと、スズは物陰からじっと母親を見つめていた。軽く手を振り、束の間の別れを告げた。
「これが鈴音の仏壇よ」
線香の香りが宙に漂っている。
修斗は思わず息を飲んだ。
いま、目の前に黄金色の仏壇がある。
その仏壇の中心で、笑う鈴音の遺影が飾られていた。
仏壇の片隅には、持ち主を失った麦わら帽子が置いてある。
鈴音の姿を見るのは、あの待ち合わせの約束をしたとき以来だ。叶わなかった約束。本当は今でも三人で釣りをしているはずだったのに。
修斗は身体が石のように重くなっていくような錯覚に陥った。横を見ると、俊太は目を潤ませていた。
「俺、嘘だと思ってたんだ」
不意に俊太が呟いた。
「鈴音が死んだなんて、何か悪い冗談じゃないかって。だって、鈴音は人を驚かせるのが好きだっただろ? だから、今回もきっとそうだって」
「......」
修斗は何も言うことができなかった。
嘘であって欲しかったのは自分も同じだ。
今こうして遺影を見せられることで、現実をはじめて突きつけられたような気がした。
「あ。これって」
修斗は仏壇に添えられた一枚の木枠を見つめた。
淡い緋色と緑色が火花みたいに入り混じった、どことなく儚げな花の絵だ。
よく見ると絵の隅っこに『雨の日の金木犀』と書かれている。秋の帰り道を思わせるような、憂愁を感じさせる。
「これが鈴音の描いた水彩画か」
「あら、修斗くん。知ってたの? あの子が絵を描いていたこと」
「え?」
「私、知らなかったの。鈴音ったら何も言わずにこっそりと絵を描いていたのよ。こんなに素敵な絵を描けるなんて......」
おばさんは寂しそうな顔をした。
修斗はなにか違和感を感じた。スズのやつ、確か絵画教室に通ってるって言ってたような。
親に秘密でそんなところに通えるのか?
「俺も知らなかったよ、修斗。鈴音ってどちらかといえば不器用じゃなかったっけ?」
「はは。それ、俺も同じこと言った。そしたら軽く怒られたよ」
俊太の一言で悲しい空間に少しだけ笑いが起きた。
鈴音のお母さんも、頷いている。
場が和らいだのを感じて、修斗は自分でも意外な一言を言った。
「あの、おばさん。お願いがあるんですけど」
「ん? どうしたの?」
「鈴音の絵、他にあったら見せてもらえませんか。俺、実はファンなんです」
そう言うと、おばさんは優しく笑った。
「あるわよ、あの子の部屋にいっぱい。見てあげて」
俊太と一緒に鈴音の部屋に入った。
部屋にはポケモンのキャラクターグッズや、有名歌手のポスターが張ってある。
あいつらしくない、至って普通の女の子の部屋だ。
その部屋の所々に額縁に入れられた水彩画が飾られている。
「すげえ。上手いね普通に」
「ああ」
色とりどりに並べられた水彩画。
そこには様々な景色が切り取られていた。
夏の草原に横たわる牛、裸足で氷の上を歩く女の人、春うららかな桜散る公園。
全て、鈴音がみていた光景なのだろう。
そう思うと胸が熱くなる。
完成された絵たちの中で、一つ妙に目立つ白い絵が目に留まった。
「......この絵」
修斗は胸に感じたことのない締め付けを覚えた。
部屋の片隅に置いてある、ひとひらの絵。
その絵だけ、どこか他の絵とは違う。
青と緑の彩色で描かれた水の中の絵。
でも、まだ何となく物足りない。
作者が何かを付け加えるのを迷っていたような、そんな形跡が感じられる。
「その絵、描き途中なんじゃないかな」
「お前もそう思うか、俊太」
「ああ。だって、この絵だけどこにもタイトルが書かれてないし。それに、なんだか寂しいな」
言われてみれば、この絵だけどこにもタイトルが書かれていない。
他の絵は全て右下の隅っこにタイトルがつけられているのに。
やっぱり、この絵は未完成なのだろうか。
だとしたら、この絵はもう二度と完成することはないということになる。
どうして鈴音はこの絵だけ未完成のまま放置したのだろう。きっちり屋の鈴音のことだから、一度書き始めたものを途中で投げ出したりはしない気がする。
完成させる前に命が尽きてしまったのか、それとも何か理由があったのか。
修斗の中には一つ心当たりがあった。
その心当たりが、きっと自分の胸の奥をたまらなく締め付けている切なさの正体だと思う。
二人は鈴音の部屋を出ると、再び仏壇のある居間に戻った。
「おばさん、僕たちそろそろ帰ります」
「そう。ありがとうね、本当に」
「いえ、こちらこそ.......あの、最後に一つ聞いてもいいですか?」
部屋からでたっきり黙りこくっている修斗の横で、俊太が言った。疲れた顔で笑うおばさんはゆっくりと頷いた。
俊太は軽く一息つくと、意を決したように訊ねた。
「鈴音はどうして亡くなったんですか?」
その言葉は線香の香りのする空間を静かに切り裂いた。鈴音のお母さんは真顔になり、空気が重くなった。
そして彼女は呟いた。
「......階段から落っこちたの。本当、バカよね。あの子」
二人は何も言うことができず、ただ目を伏せた。
鈴音の家の玄関を抜けると、スズが道の真ん中で箱座りをしていた。それをみて、見送りにきてくれたおばさんがこういった。
「その可愛い子猫ちゃん、二人がうちに来た時もそこにいたわよね」
「ええ、そうですね。なんか、ずっと俺たちについてくるんですよ」
「そうなの? もしかしたら、鈴音の生まれ変わりかしら。あの子、猫が好きだったから」
おばさんはそう言って笑った。
その笑顔が修斗の心に突き刺さった。
その猫は本当に鈴音なのに。
幽霊かもしれないけど、確かにそこにいるのに。
耐えかねた修斗が促すような表情で見つめると、スズは何も言わずにどこかへ走り去ってしまった。
続く。