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失われた歌

作者: 坂本小見山

  (一)



 いつの時代、どの民族にも、音楽はある。音楽は、人間にとって欠かし得ないものなのだ。これは、そんな音楽にまつわる、一つのミステリアスな物語である。



  (二)



 高校の音楽の実技試験は、日野剣太(ひのけんた)にとって、一つの屈辱であった。


 彼の歌は拙劣を極めた。試験は、バス、テノール、アルト、ソプラノの四人一グループで行われたので、他の三人の顰蹙を買ったのだ。



 西暦二〇一三年二月。日野の通う、大阪の星成(せいじょう)高校の廊下にて。


「これって、一種の連帯責任やんな」

 実技試験の後の休み時間、バスが呟いた。明らかに、アルトの日野への当てこすりであった。日野は黙っていた。

 テノールも口を開いた。

「せめて『迷惑かけた』ぐらい言うたらどないや?」

 そう言って、日野の肩を突いた。日野はしかし、謝るどころか相手を睨み返した。

 あわや一悶着が起こりかけたとき、ソプラノの女学生が日野を庇った。

「やめぇや。日野君には何の責任もあらへんがな」

「いや、そもそも学校休みまくってる日野が悪いのであって・・・」


 ソプラノの言葉には、何の他意もなかったが、日野は、それを「庇うふりをして嫌味を言った」と解釈した。それほどまでに、日野の、歌に対する劣等感は、彼の認識の目をひずませていたのだ。



 もし、彼の同級生に対して、「彼の長所は音楽だ」などと言ったら、ジョークとみなされることだろう。



  (三)



 その日の夕方。

 学年末の短縮授業で、学生たちは、とうに午前中に帰ってしまっていた。


 誰もいない音楽室に、日野が現れた。

 彼が手袋を外すと、手袋越しに伝わった外気の寒さのために薄紅味を帯びた、鍵盤を愛撫するために在る触手のような、繊細な指が現れた。


 彼はピアノの前に座した。手に、窓から差し込んだ朱赤の夕日が、温かく触れた。

 彼は冷えた鍵盤に指を置いた。そして、力を込めた。


 日野はなぜ、ここでピアノを弾こうと思ったのか?そこには、音楽に対するプライドを辱められた、この「場所」に対する、雪辱の意図があったのだ。


 彼の指が、本のページを捲るように紡ぎ出した旋律は、とても悲しげなものであった。喪われた「思い出」の死を悼み、嘆いて歌っているような旋律であった。

 彼の、ビスク・ドールのような、神経質な美質を備えた顔にも、曲調にシンクロした懐古の深刻が宿っていた。


 やがて曲は、どこか浮いたような調に移り、曲調も打って変わった。それは、成仏を諦めた地縛霊の、乾いた冷たい諦念のような、寂寥としたものであった。


 曲が進むと、寂寥は更に厳しさを帯び、アレグロの畳み掛けるような焦燥を呈した。そして、旋律の成す緊張が絶頂に達したとき、彼の指は鍵盤を押さえつけたまま止まった。


 空間に落ち着きが取り戻され、最初の、あの嘆くような旋律に戻った。その旋律に続いて、また例の寂寥とした旋律が始まったが、今度は転調せず、さながら悲しみと地続きの寂寥といった気色であった。

 そして、寂寥が余韻を残して鍵盤に染み入るように、曲は終わった。



 音楽の世界から現実の世界に戻った日野は、そのとき漸く、室内にいる見知らぬ女学生に気付いた。

 彼女は、椅子に座り、演奏者の日野自信をまるで無視しているかのような格好で、あたかもCDプレイヤーから流れる音楽を聴くような態度で、しかも熱心に彼の演奏を聴いていた。


 彼女は、余韻が止んでから、日野に顔を向けた。嫣然と微笑んだその顔は、どこか大人びた、凛とした優しさを帯びていた。

「悲しい曲やなあ。でも好きやで。何ていう曲?」

「『怪談のソナタ』」

「誰の曲?」

「僕」

「君の作曲。どういう心境で作ったん?」

 このとき、彼女が「すごいやん!」などと、作曲したこと自体を褒めるような言い方をしなかったのは、大いに日野の意に適った。然れども、彼は彼女の質問に、彼の音楽に対する考え方と相反するものを見て取った。

「僕が何を表現したかなんかは、どうでもいいですよ。あるのは、聴き手が何を感じたかだけです」

 閉鎖的な彼が、珍しく持論を述べた。それは、二人のいるこの音楽室が、浮世離れした象牙の塔のように感ぜられたからであった。


「あら、でも、私がおらんかったら聴き手はおらんかったやん?」

「聴き手が実際におらんでも、聴き手を想定しさえすればいいんです」

「聴き手がどんな感想を持つかも含めて?」

「うん」

「ふうん。君、名前は何て言うの?何年生?」

「日野。一年生です」

「私も一年生やで。日野、何君?」

「日野剣太。君は?」

「シズカやで」

「君は、何でここに?」

「ここで会合があるねん。まだ時間があるねんけど、早めに来てん」


 日野は、その会合について聞こうとはしなかった。彼はやがて、簡単に挨拶して、帰って行った。



  (四)



 野に活気が復活する季節。年度が明けたが、日野は二年生にはなれなかった。


 彼が学業を等閑にし始めたのは、中高一貫であるこの学校の、中学一年生の秋だった。

 当時、日野は文芸部におり、文化祭に出展する純文学「さらばペンよ」を書いていた。彼はそのために、生活の全てを奉げていた。その頃の彼にとって、執筆こそが、諸々の行為の意味であり、全ての価値の行き着くゴールであったのだ。

 しかし、その身命を賭した執筆は、虚しく終わることになった。執筆に勤しむあまり、中間試験の勉強を疎かにし、成績不振の懲罰として、部活動を休止させられたのだ。

 彼は、文芸のために学業を犠牲にし、その結果、その両方を失ってしまったのだ。


 以来、彼は、何をやっても、結局報われぬような気がして、全てに対して億劫になってしまった。

 そして彼は、趣味のピアノに逃げ込むようになった。電子ピアノに繋がれたヘッドホンの内側に隠遁したのだ。

 こうして日野は、現実から逃避するようになったのだ。


 剣道家である父は、息子に対する予ての不満を爆発させた。

「こんな文弱に育てた覚え、無い!」

 そう言う父に対して、母は、彼を庇った。

 彼は、母に連れられて、現在のマンションに引っ越したのだ。



  (五)



 何事も為さぬまま、時は経ち、初夏になった。


 ある日、休み勝ちの日野が、気が向いて登校した。しかし、そんな日に限って、午後から天気が崩れて雨に変わったのだ。彼は、この偶然を、自分の不運に結びつけて考えた。



 その日の放課後、彼は、傘がないので、濡れて帰ることにした。

 校舎から出ると、雨粒が彼の肌に掛かった。彼のたおやかなうなじから、雨粒が体温を少しずつ吸い取ってゆくのが感じられた。


 校門の近くまで来たとき、彼を呼ぶ声があった。振り向くと、見覚えのある女学生であった。一瞬、それが誰か判らなかったが、やがて「シズカさんやんな?」と言った。

 なぜ、一瞬判らなかったのか。それは、冬に遇ったときと違い、如何にも下世話なこの現実の世界に、彼女の存在が溶け込んでいたからだった。


「久し振りやね。傘は?」

「忘れてもうてね」

 彼がそう言うと、シズカは鞄を漁り、予備に持っていた折り畳み傘を日野に差し出した。

「ありがとう。いつ返したらええ?」

「また遇うたときでええで」


 そう言われたが、学校にあまり来ない彼には、偶然に任せれば、再会の機会は永遠に失われてしまうように感じられた。

 彼は、シズカと再会するのに、相応しい時と場所を考え、提示した。

「水曜日の放課後、そうやな・・・、三時ぐらい、時間ある?」

「うん。何で?」

「じゃあ、その時間に、音楽室に来てくれる?そのときに返すわ」

 それは、以前に音楽室で偶然出会った誼で傘を貸してくれたシズカとの再会の場所として、如何にも相応しい場所に思われた。



 雨中の帰路を歩む日野は、自分の心が浮ついていることに気付き、自ら恥じた。

 日野は、その心の高揚の理由について考えることを避け、剰え、その感情そのものを、なかったことにしようと努めた。

 彼は、今書いている曲のことに意識を集中させようとした。彼は、大規模なロンドソナタ形式の楽曲を構想していた。しかし、一向に旋律が思い付かなかったのだ。


 彼はやがて帰宅し、ピアノに向かった。そして、戯れに、片手を鍵盤に乗せて、旋律を紡いでみた。

(哀愁、できるだけ濃厚な哀愁を帯びた旋律を・・・)

 そのとき、不思議に、今まで思いつかなかった、新しい旋律が紡ぎ出されたのだ。だが、彼はそれには満足できなかった。

(違う。こんな甘ったるい哀愁やない。もっと、英雄の死を悼むような、勇壮な哀愁を、聞く(もん)に感じさせる楽想が欲しいんや・・・)



  (六)



 水曜日の授業は午前中で終いであった。その日の三時、日野は、職員室に行き、忘れ物を口実にして音楽室の鍵を受け取った。


 午前中の雨は止み、やや傾いて、微かな憂いを帯びた日の光が、雲間から放たれて、窓から校舎内に差し込んでいた。日野は、久しく気候のこんな好都合に遇っていなかったから、少し拍子抜けしてしまった。


 音楽室に入ると、既にシズカはいた。

 彼女は、コピー用紙の束を持ち、見入っていた。それは、口実に説得力を持たせるために、日野がわざと置き去りにしたものだった。

「やあ」

 声をかけられて、シズカは彼に気付いた。

「これ、君の?」

 そう言ってシズカは、手に持っているコピー用紙を指し示した。それは、ベートーヴェンの楽譜のコピーであった。

「うん」

「私も好きやで、ベートーヴェン。特に交響曲第九番」

「僕は第五番が好きや」

 そう言ったとき、日野は、交響曲第五番、俗に言う「運命交響曲」と、今の自分とのギャップに、羞恥を覚えた。

「運命交響曲」――嵐のように荒々しい第一楽章から、ひと時の安堵をもたらす第二楽章、そして暗鬱な行進曲である第三楽章を経て、勝利の凱歌たる第四楽章に至るという、まさに苦難を打ち負かして栄光を掴み取るような勇敢を湛えた大作。かつて、小説家を夢見ていた小学生時代の日野は、この作品が大好きだった。だが、全てを放擲してしまってからの四年来、彼はこの曲を聞かなくなっていた。それを、シズカの共感を得た勢いで、咄嗟に好きな曲として挙げてしまったことを、彼は恥ずかしく感じたのだ。


 彼は、話題を逸らそうと、傘を返し、礼を言った。

 シズカはそれを受け取りながら言った。

「ベートーヴェンは偉大やった。でも、彼の後に続いた音楽家らが、音楽をワヤにしたんや」

「どうして?」

「彼は、それまでの枠を壊して、自由な音楽を作りはった。でも、後の音楽家らは『自由』と『好き勝手』を一緒くたにしてしもたんや。ほんで、芸術の名ぁの許に、愚にも付かんノイズが乱造されたんやで」


 日野は、シズカの論に大いに賛成だった。

 実際、彼もまた、十九世紀以降の「前衛的」音楽に対して大いに不満を持っていた。が、それだけではなかった。

 彼は、クラシック音楽の荒廃に、かつて彼が所属していた文芸部の風潮をオーバーラップせしめていたのだ。


 この学校の文芸部員らは、自己満足しか能がない「軽薄な大衆小説」ばかり書いていた。心情描写や季節の詠嘆といった、文学の醍醐味と言える要素を、まるで欠いたものさえ多かった。


 プロットの軽薄さは、一例を挙げれば、次のようなものである。

 ――頓死した主人公が、冥界の法廷で浄玻璃の鏡を割り、超能力者に転生を果たし、原理主義教団の魔手から世を守り、やがては多くの女性の愛を欲しいままに得る――、といった具合であった。


 日野は戯れに、その小説の作者に、仏教の伝来によってもたらされた輪廻思想と、日本古来の黄泉の国という概念との比較の話題を持ちかけたが、相手の反応は、予想通り軽薄なものだった。

「宗教の話はちょっと・・・。これ、飽くまで小説やから」


 無論、日野は宗教の宣伝をしようとした訳ではない。寧ろ、客観的かつ真摯にそれらを分析する態度をとった日野の方が、より作家としての誠実を具えていたと評すべきだろう。


 日野はそう言った連中に囲まれながらも、一人、ひたすら純文学を目指した。

 その彼の作品が、日の目を見ることなく闇に葬られ、かの軽佻浮薄な似非娯楽小説が文化祭に出展されたことを思うと、日野は屈辱の念に堪えなかった。



 そのとき、日野の背後から、声が聞こえた。

「シズカ、この人は?」

 日野は、驚いて振り向いた。

 声の主は、如何にも明朗で、健康的な男子学生であった。

「友達よ。彼は、音楽を良う理解してるねんで」

 シズカは次に、日野に男子学生を紹介した。

「この人はヒデトシ君。近々、一緒に『音楽史研究会』を作ろう言うてるねん」

「どうも」

 日野は、ヒデトシに挨拶した。

 シズカはヒデトシに言った。

「なあ、彼も研究会に加えへん?」

「ええな。どない?君さえ良かったら」

 日野は慌てて断った。

「いや、僕は、留年してて部活動禁止やから」

「気にせんでええ。どうせ非公式のクラブなんやから」

「考えさせてくれ。学業のこともあるし・・・」

 そう言うと、日野は、逃げるように帰ってしまった。



 彼の心は動揺していた。

 さっき、二人に対して感じた疎外感。それは、単に二人が親密そうだったからだけだろうか?


 日野は、二人の関係について、想像を逞しくしていた。

(もしや、恋人同士なんと違うか?)

 しかし、だとすれば、どうなのだ?自分とは無関係のはずではないか?

 ・・・日野は、もはや認めない訳にはいかなかった。自分が、いつの間にか、シズカに魅かれていたということを。



  (七)



 日野は、シズカに対する感情を紛らわすために、またも、例の作曲に没頭しようとした。しかし、依然として旋律は思い浮かばなかったのだ。


 ・・・あの雨の日、彼の指がほとんど無意識に紡ぎ出した、あの旋律。

 あれから何度もピアノの音の奥に、欲しい旋律を探したのだが、その度に、あの旋律が現れ、いよいよ彼の心に根を下ろしてしまったのだ。


 哀愁はある。確かにある。しかし、これじゃないのだ。彼が欲しいのは、もっと崇高で、どこにも目的地を持たない、それ自体で完結した悲しみであったのだ。


 しかるに、この旋律ときたら・・・!

 どこかを目指しているのに、その目的地は、この現実世界のどこにも見当たらず、ただその目的地への憧憬だけが、耐えがたい寂しさを以って、徒に心を急かすような、人間的な「弱さ」に基く哀愁なのだ。

 彼にはもう、この旋律の正体は判っていた。

 これは、紛う方なく、シズカに対する感情の顕現だったのだ。


 そのことが、彼のこの旋律に対する反感を強めた。


 潔癖の彼は、恋慕の念というものを、夙に下世話なもの、世俗的なものとして蔑んできた。それには、次のような訳があった。


 彼の両親は、剣道場で知り合い、大恋愛の末に駆け落ちして結婚した。そのことは、彼も幼少期から聞かされていた。

 しかし、彼の父は、彼の母に、度々無理強いをした。彼も何度かその現場を目撃したのだが、それは如何にも冒涜的で、母性や人格といった尊ぶべきものを度外視し、ただの肉体としてしか母を見ていないものに感じられた。


 ・・・こうして日野は、恋愛感情というものを、陵辱への欲求と同一視するようになってしまったのだ。


 彼は、恋情を克服せねば、シズカに対する自分の言動が、全て不誠実なものになってしまうと思った。



  (八)



 彼が学校に来ることを億劫に感じる最大の理由は、無聊にあった。授業の内容は理解できず、一年下の同級生たちと交友を持とうともしなかったのだ。

 昼休みは、机に伏して寝入った風を装って、同級生らの姦しい雑談に耳を傾けるのが、退屈凌ぎの良策であった。



「お(かん)から卒業アルバム借りてきてんけど、見てくれる?あの噂、本真(ほんま)みたいやで。・・・ほら、ここ見て。『残念なことに、私達のクラスメイトが行方不明になりました。間宮静香(まみやしずか)さん。私達は、あなたの無事を祈っています』。でな、お(かん)に訊いてみたら、最後に間宮さんがいてはった場所、あの音楽室やねんて!」

「やっぱり、音楽室の幽霊は本真(ほんま)やねんで!」


 それを聞いて、日野は、伏せていた顔を上げた。首筋の皮膚に冷たい緊張が走っていた。

 あのシズカは、幽霊だったというのか?いや、そんな筈はない。一度、校門の近くで遇った彼女は、現実的世界に齟齬なく嵌め込まれた、確かに実在する人物だったのだ。


 そのとき、彼はあることを思い出した。前回会ったとき、音楽室の鍵を開けたのは日野であるのに、シズカは既に室内にいたのだ。あのとき、彼は、適当な説明を講じて納得してしまっていた。


 そう言えば、確かに、音楽室で見た彼女には、どことなく、現実の世界から少しずれた次元の住人のような印象があった。



 彼は帰路で、ずっとそのことを考えた。考えれば考えるほど、彼女が現実ならざる世界の住人であるという観念が強くなっていった。


 帰宅後、彼はピアノに向かうと、片手で例の旋律を奏でた。


 彼は、この期に及んでも尚、シズカに対する恋慕の念が消えていないことに気付いた。

 そして、この感情の中に、かつて父が母に対して呈したような蛮性があるかどうか、探った。しかし、いくら探しても、それは見当たらなかったのだ。

 それは、飽くまで純粋な恋情だったのだ。痛みが飽くまで純粋に痛みであるのと同じように、この恋情は、それ以上に分割できない、素粒子のような、それ自体で完結した、純然たる・・・恋情であったのだ!



 彼は、抗うことをやめ、この旋律で、作曲計画を進めることに決めたのだった。



  (九)



 それから毎日、日野は、学校に来た。シズカの霊との再会の機会を求めて。放課後は、必ず音楽室を訪れた。毎日鍵を借りていては訝しまれるので、音楽室の前まで行って、扉が開いていないかどうかを確認した。しかし、一向に扉が開いている時は来ず、シズカとも遇えなかった。


 そうしている間に、曲は完成に近付いた。最初はロンドソナタを書くつもりだったのだが、あの旋律にロンドソナタ形式は相応しくないと気付き、二部形式に変えてしまった。


 この頃の彼は、久し振りに活き活きとしていた。彼の目には生気が戻り、胸が張られたことで、今まで影が落ちていた顔にも、光が差していた。



 やがて夏休みが始まったが、彼は、学校の音楽室の前に日参した。しかし、依然としてシズカには遇えなかった。



 夏休みを全て費やして、曲は遂に完成した。完成した曲を、彼は「彼岸のアダージョ」と題した。


 完成したとき、彼は、あることに気付いた。この曲の調が、前作「怪談のソナタ」に対して、ちょうど、下属調であったのだ。

 彼は思った。

(これは、ピアノソナタの一部や。そうに違いない)

 と。

 ピアノソナタは、三つか四つの楽章から成る、組曲の一つの形式である。その第二楽章は、第一楽章の近親調で、緩やかな拍子で書かれるのが普通である。かの「怪談のソナタ」が第一楽章で、この「彼岸のアダージョ」が第二楽章であると考えると、納得が行った。

 そして、第三、第四楽章に続くのだと、彼は直感したのだ。


 彼は早速、第三楽章の作曲に取り掛かった。第三楽章は、陰鬱を吹き飛ばすような、テンポの速い、三拍子の情熱的なスケルツォを企画した。


 彼は、健康を肯えるほどにまで、健康を取り戻していたのだ。しかし、それは、シズカが非現実的な存在であることを前提とした健康であった。現実世界に向き合った健康ではないということに、彼自身は気付いていなかった。



 夏休みが終わっても尚、日野はシズカと再会できなかった。彼は、もうシズカに遇えないのではないかと懸念した。懸念に抗うように、彼は、根気強く音楽室に通った。


 窓から見晴るかす山は徐に色めき、残暑の中にも、風は微かな涼を運びつつあった。



  (一〇)



 九月の末。第三楽章「火のスケルツォ」が完成した日の翌日。


 何日か、秋雨が続いたが、その日は偶さかの秋晴れであった。


 昨日までの雨をまるで意に介していないような、その叙情的な夕日に、彼は、前回シズカと会った日を髣髴した。

(こんな日ぃこそ、シズカさんとの再会に相応しいのになあ・・・)

 彼は、好都合を露骨に期待した。シズカに「現れて欲しい」という期待が、知らず知らずのうちに、「今に現れるぞ」という希望的観測、あるいは妄想にすり替わっていたのだ。



 彼は、音楽室を指して歩いていた。

 その途中で、彼は、前方を行く男女二人の学生に目を奪われた。それは、シズカとヒデトシであった。


 日野の心の中には、再会の歓喜と、この二人の関係への懸念との、相反する二つの感情が混在していた。

 もはや、シズカが生者か死者かなどは、問題ではなくなっていた。


 彼は、二人が恋人同士であって欲しくないと、祈るような気持ちで二人の後を付けた。二人は、やがて音楽室に入って行った。


 暫くして、日野も音楽室に至った。そして、扉を微かに開け、中を窺った。



 室内には、二十人ほどの生徒が座っていた。その中に、シズカの姿もあった。

 黒板の前に、ヒデトシが立っていた。

「ほしたら、音楽史研究会のミーティングを始めよう。諸君、変身を解いてくれたまえ」

 それを聞いたとき、日野は安心した。二人に関する疑惑は、一先ず据え置きになったのだ。


 だが、次の瞬間、彼は目を疑った。部員たちの姿が、次々と、赤やら青やらの、光る人型の怪人に変わっていったのだ!

 見たところ、男性は全身青一色、女性は全身赤一色のようであった。


 青い怪人になったヒデトシが言った。

「同士諸君。人間どもは、折角我々が与えてやった『音楽』を、こないにも零落させてもうた」

本真(ほんま)本真(ほんま)や!」

 他の怪人たちも口々に共感した。

 怪人の一人が立ち上がって発言した。

「私は、折角あのベートーヴェンいう男を使(つこ)うて、音楽をキリスト教の手ぇから人間の手ぇに奪い返してやったのに、人間どもいうたら、それを、近代思想至上主義いう別の宗教に易々と渡してもうたんやわ。人の好意を無にさらしよって!」

 他の怪人も声を上げた。

「儂なんか、ジョン・ケージいう男に音楽をくれてやったのに、あろうことか、あんがきゃ、それを実験材料にしてもうた。もはや、人間に音楽なんか、勿体ないわ!」


 ヒデトシが、皆を制して言った。

「諸君の気持ちはよう解った。そこで訊きたい。これからも人間に音楽を与え続けたいと思うかね?」

「思わへん!」

「よっしゃ。ほな、人間から音楽を取り上げることに、異存はあらへんね?」

 そのとき、赤い怪人が発言した。その声は、シズカであった。

「全部の人間が悪いと決め付けるんは、急進的過ぎるんと(ちゃ)うやろか?」

「甘いなあ、人間なんか(みな)一緒や」

 そこに、別の青い怪人が口を挟んだ。

「いや、シズカはんの意見にも一理ある。音楽言うのんはやな・・・」



 ・・・こんな怪奇な光景を目の当たりにしているのに、日野は何ら恐怖を感じず、自分が恐怖を感じていないということへの違和感もなかった。

 それは、例えるなら、夢に幻想を見ているときに、もしそれが現実なら感じるであろう恐怖を、夢の中であるがゆえに感じないのと似ていた。


 そのとき、怪人の一人が、声を上げた。

「人間がおるど!」

 その声に従って、怪人たちは一斉に日野の方を見た。


「すいません。立ち聞きする気はなかったんですが」

 日野は、論点のずれたことを言った。

「憎い人間め、先ずおどれから音楽を吸い取ってこましたる!」

 そう言われたとき、初めて、彼は身に危険を感じた。


 すると、赤い怪人のシズカが、声を発した。

「待ったって。その人は私の知り合いや」

 シズカは、人間の姿に戻り、日野に歩み寄った。

「あんたには、音楽を愛する資格があるで。どない?あんたも、私らの仲間にならへん?」


 シズカは、日野に手を差し伸べた。日野は、その手を取ろうとした。すると、彼の手は、青い光を放ち始めた。


 彼は、考えるに先んじて、手を引っ込めた。手は、人間のものに戻った。

 あれほど疎んでいた現実世界だというのに、いざ完全にそこから去ろうとすると、ほとんど反射的に、未練が現れたのだ。

「心配あらへんよ。こっちに来たら、こっちが現実になるねんから。ほんで、そっちが非現実になるねんで」

「僕は・・・、やっぱり、こっちに残るわ」

「そっちには、あんたの生き甲斐はないんやろ?分かってるねんで」

「いや、僕はやっぱり、小説家目指したいねん」

 日野は、自分の口から出た言葉に驚いた。彼はそのとき、漸く、自分が文学に希望を残しているということに気付いたのだ。


 シズカは、寂しそうに言った。

「・・・そう。ちょっと寂しいな。ほなね」

 シズカは手を振った。


 次の瞬間、怪人たちは、シズカを含めて、姿を消していた。そこには、日野が一人立っているだけだった。



  (十一)



 六世紀、仏教の伝来と共に、本邦に輪廻思想が広まった。


 仏式の葬儀には「四十九日の法要」があるが、これは、人が死んで間もない頃は、「中有(ちゅうう)」と呼ばれる幽霊のような状態をとっており、四十九日後に「生まれ返り」を果たす、という思想に由来する。



 他方、日本古来の信仰では、人は死ぬと、黄泉の国に移住すると言われている。

 この「黄泉の国」と、現実世界「中つ国」は、「千引(ちびき)の岩」で隔てられているとは言え、地続きになっているとされる。

 そして、死者が、黄泉の国から現実世界に帰ってくることを、「黄泉帰(よみがえ)り」と呼ぶのだ。



「生まれ返り」と「黄泉帰(よみがえ)り」。この二つは、由来も違えば、意義も違う。しかし、共通して言えるのは、現実的世界と、非現実的世界とが、互いに無関係ではなく、例えるなら、「怪談のソナタ」の、あの「寂寥」の旋律のように、異なる調で現れていても、実は同じ曲の別の部分に過ぎないのと、同じことなのだ。そして、曲の終盤で同じ調で反復されたように、誕生や死といった、生命と非生命の転換のような大事件のときに、二つの世界の間で行き来が起こるのである。



 日野は、音楽室での一件以来、「現実」と「非現実」の連続性を、もはや疑い得ないものとするようになった。彼は、あの体験を、現実と非現実の境界線上で起こったことと考えた。


 あれから、シズカが再び現れることはなかった。

 恐らく、彼女は、昔、行方不明になったときに、現実ならざる世界に移住したのだ。そしてその出入口が、音楽室にあったのだ。と、彼は考えた。



  (十二)



 しかし、事態はそう単純ではなかった。


 更に数日後、秋が深まった十月上旬のある日、彼は、学校の廊下で、シズカに遇ったのだ!


「シズカさん・・・やんな?」

「ああ。尾松(おまつ)静香やけど、君は・・・、ああ、傘貸してあげた人やんな?」


 日野は、この他人行儀な態度を、人目を忍んでのことと思った。

「後で、話したいことがあるねんけど」

 そう言って、彼は、放課後に約束を取り付けた。



 二人は、音楽室の前で待ち合わせた。

「話って、何?」

「君がこの間、ここで赤い怪人に変身したときのことなんや」

「は?何のこと?」

「ここで、人間から音楽を没収する話をしてて、僕を異世界に(いざの)うたやないか」

「何やねん、それ。あんた、頭おかしいんと(ちゃ)うか?」

 そう言って、尾松静香は踵を返してしまった。


 日野は、あれが全て、自分の妄想か夢であったのかと思った。

 ならば、あの行方不明になった間宮静香は無関係だったのか?校門の近くで尾松静香と遇ったのは、本当は初対面であったのに、彼の妄想が、そのときの会話の内容を、再会の挨拶にすり替えてしまったということなのだろうか?


 彼は、去り行く尾松静香に言った。

「僕、君に傘返したっけ?」

 その質問は、一つの試金石だった。もしも、彼が傘を返していなければ、傘を返したあの日のこともまた妄想だということになり、首尾が一貫するのだ。

 しかし、彼女が振り向いて返した答えは、「予想外なことに」、「予想通りの」答えだった。

「返してもろたよ。音楽室で」


 もはや、現実と非現実は入り乱れ、収拾が付かなくなっていた。


 だから、これから後の物語には、「もし、これが日野の妄想ではなく、現実であるなら・・・」という前置きが必要だろう。



  (十三)



 彼はその後、高校を中退し、アルバイトをしながら、小説家を目指して奮闘した。



 数年が経ったある日、彼に朗報が訪れた。小さな出版社の新人賞を、彼の作品が受賞したのだ。



 彼の心に、俄かに歓喜が湧出した、そのときであった。

「良かったやん。おめでとう!」

 彼の横で、声が聞こえたのだ。

 彼は振り向いた。しかし、誰もいなかった。今、はっきりと聞こえたその声は、忘れかけていた、あのシズカの声だったのだ!



 そのとき、彼の頭に、旋律が浮かんだ。それは、小説家への第一歩を踏み出した彼への応援歌のような、優しげな行進曲であった。

 なのに、彼の胸には、空虚感が広がっていた。彼の頬を、涙が伝った。


 彼は気付いた。

「ああ・・・、この旋律は・・・、書きかけの、あのピアノソナタの、最終楽章や!」



 もしも、彼にとって、文学と音楽が逆だったら?音楽に挫折し、文学に逃げ込み、そして再び音楽家を目指す人生だったら、こんなことにはならなかったのではないか?

 今・・・、そう、今頃になって、彼は悟ったのだ。音楽は、文学と違い、あくまでも「恋」なのだ。理性を媒体とする文学と違い、理性を超越した「恋」なのだ。音楽と恋情は、同じ一つのものの、別々の側面なのだ。



 彼は、泣きながら、部屋の窓を開けた。下を覗くと、地面は遠かった。しかしそれは、「あっちの世界」ではなく、「こっちの世界」のものであった。「非現実」ではなく、「現実」の存在だったのだ。



 先程の旋律は、彼の頭から既に消えていた。彼は、音楽の感動の外側に立って、ピアノソナタ全体を、あたかも手に取って見るように、品定めすることができた。

 第三楽章までは完成しているのに、最終楽章だけ、薄っぺらな完成予想図のままであった。


 このとき、彼は初めて、自分を見捨てた父親の心境を理解した。

「こんな文弱に育てた覚え、無い!」

 あのとき父は、息子を「失敗作」と見做したのだ。

 それと同じく、日野は今、完成されるべきピアノソナタが、完成されることを放棄されてしまったのを感じた。しかも、日野自身の手によって!



 これがもし失敗作だったら、彼自身の手で捨てることができたろう。父が彼を捨てたように。しかし、彼は、彼の自由意志で、完成を放棄してしまっていたのだ。


 彼は、窓から身を乗り出した。驚いた通行人の金切り声が、如何にも(アンチ)音楽的であった。それは、この行為への、絶対的な肯定のようであった。


 彼は落ちた。数秒のフライトの後、彼の頭に、一瞬間、強い打撃が加わった。それが、この現実世界の「果て」であったのだ。



  (十四)



 音楽の感動は、素晴らしいものである。だからこそ、それを浮気相手に選んではならないのだ。生涯愛し続ける伴侶とする覚悟がない者が、音楽に身を投じると・・・。

 そうすると、自分で自分の感動を、それが根差している自身の精神ごと引き裂くことになるのだ。

 現実と非現実は、不可逆的に入り混じり、二度と狂気の世界から戻れなくなるのである。



 失われた歌 完

2016/09/15原版起筆

2016/12/24短編版起筆

2024/01/04文章手直し(セリフ以外)

(本作は、拙作「現代の怪談」の一話を改稿したものです。)

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なぜかデジャヴです。やっとこの作品に出会えた、再会できたような感覚です。純粋な愛があった、あるからこそ、シズカさんも前進、精進できるのだと思います…どんなに挫けそうでも。心より感謝いたします。- 交響…
[一言] 音楽と文学。私の好きな要素が上手く扱われていて、楽しく読ませていただきました。幽霊だと思っていたので、怪人の出現には少し驚いてしまいましたが。 『音楽は、文学と違い、あくまでも「恋」なのだ…
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