役目
「……じゃあ、鍵番の時私たちは、一種のトランス状態に入っているのね。」
そう言ってハルシオンは、置いてあったティーカップを手にし、口へと運んだ。甘いミルクティーはまだほんのり温かい。
ティーカップをトレイの上に戻す。ベッドの上にあるので、こぼれないよう慎重に。
鍵番の時の話を教えてくれたメゾがこくりと頷いた。ベッドの端から、その動きが きしりと伝わってくる。
「やっぱり結構な負荷がかかってると思うんだ。だってハルシオン、鍵番が終わったあと、水の中で三日は眠ってたぞ。」
メゾがその時のことを説明する。花の浮かぶ水の中で、瞼を閉じて ぴくりとも動かない姿はまるで死んでいるみたいだったと。そして、息をしているかすら分からなかったとも。
ハルシオンの中で、かつて過ごした塔での光景が蘇る。水に浮かぶ、鍵番の乙女の姿。ハルシオンはそれがまるで神話の一部分のようで、気に入っていた。さすがにずっと見ていれば見飽きたものの、初めて見た時は美しいと思いこそすれ、そんなおぞましいものを語るかのような光景ではなかった。
一体自分はどんな姿をしていたのだろう、とハルシオンは妙に落ち着かない気分になった。
しかしメゾは、自分の気にするところと全く違うところを気にする。
「まだ体とか、重かったりするんじゃないのか。」
メゾが向こうを見たまま、ぼそっと呟いた。
だから、大丈夫、と返事をした。
それよりも、と鍵番の話に戻す。しかしメゾと話しているといつのまにか、あれはハルシオンの体に負荷がかかっているんじゃ、何日も気絶して、という話に戻っている。
ハルシオンが小さく口を尖らせる。
――さっきからメゾ、気絶してる時の話ばっかりする……。
――お互いのしたい話がばらばらで、全然進まない。
そこで、でもどうしてその話ばかりしたがるのだろう、という疑問が頭にもたげた。
――もしかして、メゾは気絶が珍しいのかな。
話に付き合ってもらっているんだし、私もメゾの好きな話に付き合ってあげた方がいいよね、とハルシオンが思ったその時。
唐突に、部屋にノックが鳴り響いた。
そして扉を開ける音とヴェール・レースの声が、二人の間を割り込んで来た。
「鍵番の乙女よ。臨時の仕事が入りました。」
臨時の仕事?
そう、メゾが呟いた。
鍵番の乙女の仕事は、世界統合、世界平和の象徴であること。
具体的に言うと、絶大な力があることを、ショーと銘打って誇示すること。
あとは、偉い人への挨拶。民衆を味方につけるための、人気取り。
若く美しい少女を鍵番に使うことの理由は、少女崇拝の時代だったからとかじゃなく、人気取りが大きいんじゃないかと、巷でもっぱら囁かれていた。
最後に。鍵番の乙女は世界の頂点として、全ての者が憧れ、崇拝する対象。
それが、メゾの知っている鍵番の乙女だった。
だから臨時の仕事、と聞けば人気取り関係のこと以外に思いつかなかった。
世間で売ってた、鍵番の乙女の肖像画やら私物やら名前の入った手ぬぐいやらが頭に浮かぶ。
絵描きの前でポーズでも決めさせられるのかな、なんて思っていた。
でも、鍵番の乙女は、そんな浅いものじゃなかったんだ。
ヴェール・レースが優雅な身のこなしでこっちを向く。
「メゾ、あなたは……」
穏やかで、歌うような話し方。
「これから行く部屋にいる人たちが暴れるかもしれないので、そうなったらしっかり押さえてくださいね。」
言っていることがすぐには頭に入ってこなかった。
世間話のような軽さで、それを言うから。
ヴェール・レースは慣れた手つきで鍵を取り出す。懐から現れた鍵が、ぎらりと凶悪な笑みをこぼすかのように光った。
ひた、ひたと廊下を歩く三人。
少し後ろで、ヴェール・レースはバレリーナのように優雅に歩く。
メゾは顔を強張らせ、恐らく仕事の顔になっていた。仕事の顔にしては、顔色もなく、少し様子がおかしかったけれど。
先頭を切って歩く私は、鍵番の乙女。
メゾが何かをヴェール・レースに聞こうとしている。ヴェール・レースは質問を許さなかった。仕事です、とだけ言って突っぱねる。
ぴた、と扉の前で私は足を止める。
後ろからヴェール・レースが すっと出てきて、ただの鍵を取り出し、扉を解錠してくれる。そして彼女は金色のドアノブに手をかけ、がちゃ、と扉を開けた。
そこを開けて最初に目に入ったのは、光。
室内であるはずなのに、まるで中庭のように草花が生い茂る、明るい部屋。
そして唯一草花が生えてない、白い石の道が目の前にあった。
道は広い広い部屋の、真ん中に続いている。
ひときわ光が差し込むそこに向かって、私は歩く。
道に沿って人が整列しているのを、私は視界の端で捉えていた。大体が疲れ果てた顔、泣きはらした顔で、恨めしそうにこっちを見ている。
そのうちの何人かは、静かな顔で部屋の真ん中を見ていた。その表情を私は知っている。何度も見てきている。
前者が怨恨、後者が諦観。
私は怨恨の視線を背負い、諦観の視線の集まる場所へと歩みを進めた。
部屋の真ん中には、白いベットがある。
光に照らされ、まるでベットそのものが光り輝いているみたい。
そしてその光の中、微かに上下する胸。
そこに横たわる、老いた人間。
男か女かは分からず、ただ分かるのはもう、ろくに生きる力がないことだけ。
私はその人の頭に手を当てる。
後ろで叫ぶような泣き声と、息を飲む音が聞こえる。それに混ざって聞こえる、おい、何が始まるんだよ、おい! という声は、きっとメゾのもの。
ぱしゃっ。
次の瞬間その人は水になった。
私が水にした。
悲鳴が上がる。
特別製のベットは水を弾いて、人だった水は足元の器に一滴残らず流れていく。
人を違う物質に変えるのは、時間こそ一瞬だけれども、体力的には大仕事だ。
水の名前は生命の水。
鍵番の乙女が復活する時、浸っている水って言ったら、分かりやすいのかな。
後ろから慟哭が聞こえる。あの老人は恐らくもう治らない病気だったか、家に治療費が無くて治療も延命もできないという窮地に立たされての決断の末、この最期を遂げたのだろう。つまり何が言いたいって、決めたのは今慟哭しているあの人たち。
後ろでヴェール・レースが、ビブラートで喋る声が聞こえた。きっと本人からすれば、声を震わせ、哀れっぽく喋っているつもりなのだろう。
「おお、偉大なる決断をあなた方はいたしました。この生命の水は然るべき施設に送ります。きっとたくさんの人が救われるでしょう。」
その言葉は、私には最後まで聞こえなかった。耳に届いていた鮮明なヴェール・レースの声が、まるでレースに包まれたかのように遠く、くぐもっていったから。
代わりに別の鮮明な声が、頭の中で響いた。
――然るべき施設ってどこ? まさか……。
違うよ。鍵番の乙女がいる塔にも送っているけど、大体は病院や介護施設に送ってるの。
――なんで、どうして今の人を生命の水で治さなかったの? 自分は使えなかったのに、たくさんの人のために生命の水になるってどういうこと?
生命の水は数に限りがあるの。使っていい材料が限られているから。
――材料って、どういうこと!?
さっきから、頭の中がおかしい、騒がしい。
かがり火のように、自分の奥で何かが爆ぜて、燃えている。
でも私は、この声がなんなのか、大体の目星はついていた。
これはきっとハルシオンの意識。
あれ、でも、私もハルシオンだよ。
――生命の水は、何なの!?
「……生命の水は、肉体の損傷や病気を治す奇跡の産物。そして、鍵番の乙女が今の地位を確立できている理由。生命の水があるから、世界中の権力者が鍵番の乙女を世界の頂点に置くことを許している。」
口が勝手に動いた。まるで何かに……いや、きっとオリジナルの私に操られて。
――今まで、何を生命の水にしてきたの?
「死刑囚……と、病気とかで死期の、近いひ、と……」
自由に喋れない。体が動かせない。
ぼたぼたっと、目からは雫がこぼれている。
ハルシオンが泣いている。
私もハルシオンなのに。鍵番の時じゃないハルシオンが泣いている。
口が、勝手に動いた。
「なんで、そんなことを! この人殺し、人殺し!」
足が崩れ落ちた。涙が止まらない。
後ろでざわざわという音が聞こえる。ハルシオン! と叫んで駆け寄ってきたのはメゾの声。
え、どうして、そんな、鍵番の乙女に何が、とひと際混乱した声を出していたのはヴェール・レース。
がし、と肩を掴まれる。見上げると、涙で光が滲む中、メゾが心配そうに顔を覗き込んでいた。
そうだ、心配だ。彼は気絶の話がしたかったというよりはそう、「心配」してくれてたんだ。
そんな場違いなことを、今更思う。
メゾが思いの外力強い腕で、私の体を抱き上げた。
「ハルシオンは具合が悪いみたいなので、部屋で休ませます!」
そうよく通る声で言ってから、彼は身を翻し、一目散に駆け出した。
ぐんぐんと、周りの景色が後ろに流れて行く。その速さは人一人抱えているとは思えないほど速く、息切れ一つしてなかった。
私の口は勝手に動く。
「メゾ……メゾ、メゾ。」
「どうした、ハルシオン!」
涙も勝手にこぼれてくる。
「鍵番の乙女の、本当の役目……知っちゃったよ。ううん、皆が本当に、鍵番に求めてたものが何だったのか、今、知っちゃった。」
メゾが眉を下げて、つっかえながら言葉を話す。
「この仕事、か?」
こくり、とハルシオンは頷く。涙の溢れる目を手で押さえながら、ハルシオンは最後の声を振り絞った。
「私たち……人殺しだよ。」
その言葉を境に、いつもよりもよほど早い最後が来た。
意識が遠のいていく。
今回の鍵番は、もう時間切れ。
深い深い眠りに落ちていった。




