解放の土地
この土地に溢れるのは、色とりどりの建物。老若男女のたくさんの人。サファイアの埋め込まれたレンガ道。空で泳ぐ青と白の旗たち。あちこちにばらまかれている切り花。鍵をかたどった石膏像。
そこをヴェール・レースと一緒にせかせかと歩く。足には、ハルシオンにとって履いたことのない靴を履かされて。
そしてハルシオンはすみれ色のローブを被されて、道行く人の間を縫って歩いていた。
――皆、色のついた服を着ている。
――そっか。みんな違う格好だからヴェール・レースの格好も変じゃないんだ。かなり浮いている服なように見えたけど、きっとこの人たちにとっては許容範囲なんだ。
ハルシオンはそう思いながら、顔をヴェールで覆い隠し、きっちりした白いドレスを着るヴェール・レースたちを眺めていた。
解放の土地では、鍵番の乙女関係の仕事をするものの出入りが多い。
そのため、一部の制服であるヴェール・レースの服装は、普通ではなくとも見慣れたものとなっていた。
「さあ、我らのお城ですよ。鍵番の乙女よ。」
ヴェール・レースの、楽器を鳴らすような、軽やかな声が聞こえてきた。
ハルシオンは顔を上げる。
最初、目に入ったのは聞いていた通りの、「巨人でも通りそうな」ほどの大きな扉。
次に目に入ったのは、この建物の屋根の周りをゆるやかに流れる、蛍石色の帯――真昼のオーロラだった。
尖った屋根も建物の壁も、真っ白でありながら、不思議な透明感のある材質でできていた。しかし屋根の辺りだけは、オーロラの光に彩られ、ほんのりと色付いて見えた。
「あのオーロラを発生させたのも、鍵番の乙女ですわ。鍵番の乙女はあらゆる自然現象を引き起こせます。なので磁力や気圧を操ることなど、造作のないことですわ。原子を生む方法すらもご存知ですので。」
「……えっと……。」
「たくさんの装置を使って人々がやっと小さなオーロラを生み出せる中、あなた方は指一本すら動かさずに、あんな大きなものを作ってしまえるのです。」
どこか恍惚とした物言いで、ヴェール・レースは喋っていた。
そしてヴェール・レースの説明は、お城の不思議な材質へと移っていった。
「この建物は、水晶でできているのです。水晶を削り出して作ったのが、このお城なのですよ。そして不可能な量の水晶を用意することを可能にしたのが当然、あなた方、鍵番の乙女の力ですわ。」
ヴェール・レースはどこか誇らしげにそう話していた。
わずかばかり光に透ける白いお城、辺りをたゆたうオーロラ。
雪と氷の世界のお城があったら、こんな感じだろうか、そうハルシオンは思った。
「さあ、いらしてください。」
手を引かれ、ハルシオンはそのお城へと入っていった。
お城に入ると、慌ただしい雰囲気の中、その場にいた全員が道を開けて並んでいた。
頬を紅潮させて、息を切らしながら。
彼ら彼女らは一斉に唱和する。
「ようこそ、真正の鍵番の乙女よ。我々はあなた様を待ち焦がれておりました。」
そう言って、皆は一斉に腰を折った。
それを受けたハルシオンは、思わず周りを見回す。
――これは、誰に言っているのだろう。
――いや。私、でしょ。
――でも私、こんなにたくさんの人に、こんな大仰な挨拶してもらえるような人間じゃ……。
ヴェール・レースが、レース地の手袋をはめた手を差し出してくる。その手をそのまま、彼ら彼女らの方に向けた。
挨拶しろ、ということらしい。
――やっぱり、私に向けてなのね。
後押しをもらって、ハルシオンはようやく反応を返す勇気が出た。
ワンピースの裾を掴んで、軽く膝を曲げる。
そしてそこに、にこっという愛想笑いを浮かべて。
ハルシオンのその仕草に、会場中が大きな拍手で包まれた。
拍手の音を覆い尽くす勢いで、壮大なファンファーレが鳴り出す。天井から垂れる赤い旗の隙間から、きらきらと白く光る紙吹雪が撒かれ出す。
その夢のような光景に、ハルシオンは思わず見入っていた。
この人たちは、一体何にこんなにも喜んでいるのだろうという、これまでの疑問すらよそに。
ハルシオンは大広間を抜けた後、そのまま大きな部屋に連れて行かれた。
ここがこれからの、あなたのお部屋ですよ。今日は移動でお疲れでしょうから、あなた様のお披露目会など挨拶は明日にしましょう。今日はゆっくりお休みください。そうヴェール・レースは言い残した。
そしてもう一言。ただ、ひとつだけ先に決めてほしいことがあるのです。少々お待ちくださいませ、と。
ヴェール・レースが部屋から出ていって、数分がたつ。
ハルシオンは、万華鏡を空に透かしたようなようなベッドシーツに腰かけて、部屋を眺めながらヴェール・レースを待っていた。
この部屋の全体像は、どこかハルシオンの容姿と似ていた。ハルシオンもきれいな家具と一緒に、この部屋に溶け込んでしまいそうな、そんな光景だった。
コン、コンと、金で装飾された扉がノックされる。
はい、とハルシオンが答えると、かちゃりと静かに扉が開いた。
そこから入ってきたのは一体のヴェール・レース。そして三人の、ハルシオンと同じくらいの男の子。
男の子たちは入ると同時に会釈をして、扉の前できれいに並ぶ。
「ええと、これは……」
ハルシオンはヴェール・レースに問いかけた。顔が見えないのに、ヴェール・レースがにこりと微笑むのが分かった。
「今からあなた様には、お抱えの護衛を選んでいただきます。」
ハルシオンは反射的に聞き返す。
「誰の?」
「あなた様の護衛でございますよ。」
すると、扉からさらにたくさんのヴェール・レースがぞろぞろと出てきた。
――ヴェール・レースってこんなに居たのね。いつも印象が微妙に違ったのは、複数いたんだ。
三十はいるヴェール・レースが、護衛候補の後ろでドミノのように並んでいる。
ヴェール・レースが唱和する。
「こちらが、護衛候補の三名です。お好きな護衛をお選びください。」
ハルシオンの側にいた、一体のヴェール・レースが口を開く。
「今から、彼らに自己紹介をしてもらいます。決めてほしいとは言いましたが、今日すぐに決めなくてもいいですからね。後からの変更も可能です。」
いくつもの疑問がハルシオンの頭をせめぎ合う中、ようやく口にできたのは「どうして護衛が必要なの」だった。
「万が一にでも、あなた様に害を与える人間が出た時に、守ってもらうためですわ。」
「なら、私が選ばなくても……。そもそも、護衛なら何人もつけたほうがいいんじゃないの?」
「護衛は当然、他にもおります。今選んでもらうのは、そうですね。護衛だけというよりは、護衛兼召使いと言ったところでしょうか。あなた様の話し相手になったり、欲しいものを調達したり。なんでも申しつけください。」
「……それなら私、女の子の方がいい。」
「申し訳ありません。これは規則ですので。」
規則、と言われてハルシオンは ぐっと黙った。それを了解の意だと捉えたのか、それではどうぞ、というヴェール・レースたちの声によって、三人の自己紹介が始まった。
一人目は、一番右にいた赤毛の人。
「初めまして、ハルシオン様。メゾと言います。よろしくお願いします。腕っぷしにだけは自信があるので、守ることにかけては間違いないです。」
少し無骨な喋り方というか、あまり印象の無い人だなとハルシオンは思った。
彼はヴェール・レースによると、実際に様々な功績を挙げているらしい。小犯罪から暗殺者の撃退まで、その功績はハルシオンからしても素晴らしかった。
次は真ん中にいた、見事な金髪をした、長身の男の人だった。かなり整った顔に笑みを浮かべて、きらきらと輝きそうな様子で紹介を始める。
「お目にかかれまして光栄です、ハルシオン様。ライツと申します。何があろうとも、不埒な輩からハルシオン様を指一本触れさせやしません。あと、趣味は読書でして、ハルシオン様に面白い本をご紹介することもできると思います。」
ライツは最後に にこっと、最上級の笑顔を見せた。
ヴェール・レースが耳打ちする。
「彼が私共の最も勧める候補でございます。腕も確かで、見目麗しい者。そしてあなた様と少しだけ見た目の雰囲気が似ておりますゆえ、彼との組み合わせが民衆からの支持が最も得やすいかと……。」
――組み合わせって何?
ハルシオンがそれを言うより早く、ヴェール・レースが彼の業績について話し出した。
話をまとめると家柄も性格も良く、文句無しの護衛候補ということらしい。
――確かに、見ただけで分かる。この人は、なんだかすごく完璧な人だって。
ハルシオンは、きっとこの人はジョークのセンスもあるのだろう、とも思った。
最後は左の、黒い髪に青い目をした細身の男の子。ハルシオンと目が合って、柔らかくふわりと笑った。
その雰囲気に、ハルシオンは息を呑んだ。
「初めまして、ハルシオン様。ウィンと申します。拙い護衛になりますが、心を込めて、全力であなたを守りたいと思います。」
柔らかくて、静かな話し方。少しだけルーチェに似ているな、とハルシオンは思った。
ヴェール・レースによると、彼もなかなか有力な候補らしい。彼もひとしきりの条件は満たしており、何より不思議な魅力があるという。
――不思議な魅力、か。確かにね。
ハルシオンは今紹介をしたウィンという少年を じっと見つめた。ウィンは、照れ臭そうにはにかんだ。
ひとしきりの紹介を終え、全員の目がハルシオンに向く。
ハルシオンの隣にいたヴェール・レースは、本格的な決定ではなく、仮の決定をするとしたら、誰になさいます、と問いかけてきた。
ハルシオンはしばらく黙ってから、白い手で一人の少年を指差した。
ハルシオンに用意された、広い部屋。
もう選ばれなかった少年たちと、その後ろでぞろっと並んでいたヴェール・レースたちは退室していた。
唯一ハルシオンの隣にいたヴェール・レースが部屋に残り、少し間を開けて問いかけた。
「彼をお選びになった理由は?」
「彼が一番、護衛の力がありそうだったから。」
「他の者だって、護衛としては優秀で……。」
「顔とか魅力とかよりも、純粋に護衛の力がある人が一番だと思ったの。だって、選ぶのは護衛でしょう。性格や私との相性があまりにも悪いとかならともかく、そういう問題もなさそうだったから。私は一番、護衛として心強そうな人を選んだの。」
「……承知しました。あなた様が良いと思った者が、一番でございます。」
ヴェール・レースは頭を下げ、静々と部屋から出て行った。ゆっくりお休みくださいませ、と付け足して。
ハルシオンは、最初に紹介されたメゾという少年を選んだ。中肉中背、十人並み。ハルシオンからして、他の者よりかすんで見えていた彼。
「俺で良かったのか。」
後ろで控えていたメゾが、ハルシオンに話しかけた。腕を組んで、ぶっきらぼうに言い捨てて。
ハルシオンが答える。
「うん、言ったでしょう。」
メゾの黒い瞳と、ハルシオンの赤い目が交差する。表情がよく現れるメゾの目と違って、ハルシオンの目からは故意に出さなければ表情が現れにくい。
先に目をそらしたのはメゾだった。
ハルシオンが彼を選んだ理由は、他にもあった。
「それに私、人嫌いなの。自分で言うのもなんだけどね。でもあなたとは、話すのが億劫だとかイライラするとかが無かったから。」
――あとは、明らかに違う対応されている彼が可哀想だったのと、選ばれないのを確信して卑屈になっているのを見て。
ハルシオンの実際に口にした方の言葉を聞いて、ちらりとメゾが目線をよこした。ぎこちなく、唇を動かす。
「他の二人は。」
他の二人は話すのが億劫だったり、イライラしたのか、ということらしい。ハルシオンは少しだけ間を置いてから、こくりと頷いた。
「ふぅん……」
メゾは ぷい、と窓の方へ体ごと顔を逸らしてしまった。
――満足したらしいわね。
しばらく時計の針の音が部屋を流れた。ハルシオンが、ねえ、と話しかける。
「今日は休んでいていいって言われたけれど、私は明日……いえ、これから何をすればいいの?」
メゾが え、と間の抜けた声を出す。
「普通に、鍵番の乙女としてのいつもの仕事じゃないのか。」
「いつもの……」
ハルシオンはベットの上から、メゾを手招いた。
メゾが大股で歩いてくる。十分に近付いてきた後、ハルシオンは ぽんぽんとベットを叩いた。
隣に座れ、ということらしい。
「あの、私のこれまでの話をまず聞いて欲しいの。じゃないと色々食い違いそうで。少し長くなっちゃいそうだから、座って?」
メゾは少し目を泳がせた後、ベットには腰かけず、その場にしゃがんだ。
その様子に、ハルシオンは少し顔をしかめた。
――隣に座るのさえ嫌だってこと? そんなに私のことがもう嫌いなの?
まあいいか、とそのことは無理やり頭の奥に押し込めて、ハルシオンは あのね、と話し出した。
「私、鍵番の乙女のことだって、最近知ったばかりなの。」
そこから、ハルシオンのこれまでの話が始まった。
「は〜。」
話を聞き終え、メゾはため息に似た感嘆の声をもらした。
「なんというか、本当に別世界って感じの話だな。俺が今まで生きて来た世界とはもう、何から何まで違う。君ら、本当に人の理想を背負って生きて来てるんだな。」
その物言いに、ハルシオンは首を傾げた。しかしもっと気になることに興味がそれてしまった。
「メゾが知ってる世界と違うの? それは、どんな世界だったの?」
「ちょっと、話が逸れてるぞ。」
「……じゃあ、それは今度……。」
「おう、今度な。」
再び沈黙が訪れた。ええと、なんの話をしてたんだっけ、という空気がお互いの間を流れる。
先に口を開いたのはメゾだった。
「じゃあ、鍵番の乙女のこと、調べといてやるよ。って言っても発祥とか難しいことは勘弁な。とりあえず簡単に分かることだけ調べて、教えてやる。それでいいか?」
ハルシオンは、ぱっと顔を輝かせた。
花がほころぶように笑って、うん、と頷いた。
「それで、明日は結局、何をすればいいの?」
「え。あ? ああ、明日は……。」
そこでメゾの言葉が途切れた。苦い顔で、少しだけ俯いた。
「いや、知っても、多分……」
その反応に対して、ハルシオンは真面目な顔で、何も言わずにメゾを見つめた。自分から聞くよりも、黙って、沈黙の空気を押し付けた方が話を引き出すには効果的だと思ったから。
居心地の悪そうな様子で、とうとう沈黙に耐えられずメゾは口を開いた。
「明日は挨拶とかお披露目会だけど、多分それをやるのはハルシオンじゃなくて、その、さっきの話で言う、鍵番の状態のハルシオンだ。」
「……ということは、私が知ってても知らなくても関係ないね。」
ばつが悪そうに、メゾは頭をかいた。
「気にしなくていいよ。何か大変なことや難しいことをしなきゃならないのかなって心配だっただけだし。むしろ、私の知らない間に過ぎてくれるのなら、なんの心配もいらなくて良かった。」
少しの沈黙の後、ふわ、とハルシオンが小さなあくびをする。
「どうもありがとう。私、もう寝るね。おやすみなさい。」
メゾは、分かった、と言って退室した。明らかに後ろ髪を引かれる思いを抱いた顔で。
扉が閉まり、遠ざかる足音が過ぎていって、部屋に静寂が戻ってきた。ハルシオンは一人、変わらずベッドに腰掛けていた。
――ここまでしてもらって。あの人たちの期待を、ちゃんと私が応えられるのかなって心配したけれど。普段から鍵番をこなしている方の私がやるなら、きっと大丈夫。
ハルシオンは美しい柄のベットに寝転んだ。ベットシーツの模様が視界いっぱいに広がり、まるで、万華鏡の世界に迷い込んだかのような不思議な錯覚を覚える。
――それにしても、本当に巨人でも通すのかってくらいに大きい扉だった。
ハルシオンは解放の土地のシンボルである建物、その建物の象徴である大きな扉を思い浮かべ、目を瞑った。
そこで、ハルシオンは急に目を開けた。
横にしていた体を起こす。
少し乱れた白金色の髪を垂らしながら、ベットの上で手をついたまま固まっている。
「それ……」
唇から、吐息とともに声がこぼれた。
「誰が教えてくれたんだっけ……?」