塔の亡霊
どこか高いところ。
下に、たくさんの人間達がうごめいている。
言葉が流れ込んでくる。
私の中には原子を作る方法も、風を生み出すにはどのような材料がいるのかの情報も全て入っている。そして世界に存在していない事象や原子のことも。生まれなかったはずのそれらを私は見ている。
そのひとは、森羅万象の全てを知っていた。
白い白い、記憶。
「ん……。」
目が、覚めた。
しかしハルシオンはまたすぐに、まだ残るとろけるような眠気に沈まされそうになる。
窓からそよ風が吹いて、ハルシオンの絹糸のような髪を揺らす。
その風で、ハルシオンはようやくはっきりと目を覚ます。掛け布団から出て、その窓辺へと向かった。
美しい朝焼けを、ひんやりとしたそよ風が撫でていく。
見事な金色が空いっぱいに輝いて、大地の草木や水を金色に変える。
金色に満ち溢れる世界は、厳かで、きれいだった。
――静か。
ハルシオンは静寂の中、耳をすませた。すると、隣の窓辺から誰かの気配がした。
そっちを見ると、同じように窓辺でそよ風にあたっていた女の子と ばちっと目があった。
華やかな顔立ちに、人懐っこそうな明るい雰囲気。
「ベラ。」
ハルシオンは呟いた。彼女は前々回の鍵番の乙女、ベラ。
あの時の彼女は魂が抜けたかのようになっていたものの、少し経てば彼女は元どおり、いつものように非常に活力的な、エネルギーに満ちた少女に戻っていた。
「ハルシオン!」
ベラの頬にバラ色がさす。ベラのつややかで、くるくるした髪がその弾みで揺れる。花冠には、色とりどりで種類も豊富な花があしらわれていた。ハルシオンの持つ「儚さ」とはまったく真逆の魅力を持つ彼女。明るい花冠も、まるでそれを象徴するかのようだった。
ベラはにこにこと笑いながら、ハルシオンに駆け寄った。挨拶以上の会話が始まりそうな空気に、ハルシオンはほんのわずかに顔を強張らせた。せめて他の子がいればそっちに行くかも、と思ったものの、周りを見ても起きてきそうな気配の子はいない。
ベラが嫌いなわけではないけれど、そんな言葉をハルシオンは心の中でこぼした。
――お喋りは、面倒。気を遣うから。
ベラはハルシオンの胸中を知ってか知らずか、花のような笑顔と声で話し始めた。
「ハルシオン。昨日目が覚めたばかりなんだから、安静にして。一ヶ月も……。ハルシオン帰ってきた時、本当に顔色が悪かったんだから。」
「帰ってきた時……」
ハルシオンは無表情のまま、赤みがかった青い瞳を彷徨わせた。
ハルシオンの頭には何も浮かばない。鍵番の乙女であった一ヶ月間の時のこと、帰ってきた時のこと、そして何より、自分が塔から出る時のこと……。
「ねえ、ベラ。」
ハルシオンは、自分から何か話すなんて珍しい、と自分で思いながらも。どうしても気になることがあって、あることを問いかけた。
「ベラは”鍵番の乙女"の時のこと、覚えてる? 鍵番の乙女が何なのか、分かる?」
ベラは大きな目を瞬かせた。そして、静かに首を横に振る。
だよね、と思いながら、ハルシオンは肩を落とした。そこで、でも、とベラが付け足した。
「夢を……見るの。自分が鍵番の乙女になってる時の夢。ただの夢で、私の想像なのかもしれないけど……。」
ベラは静かに、その夢の内容を話した。
どこか高いところから、たくさんの人々を見下ろしていること。
自分は何故だか、その夢の中では森羅万象が分かり、それを作り出す方法も知っていること。
不思議な万能感に満ち溢れていること。
「この夢は、鍵番の乙女になった辺りでよく見ている気がするんだけど……」
ベルの弱々しい声に、ハルシオンが目を丸くしていた。
「うそ……」
そよ風が、ハルシオンの白金の髪を撫でた。
「私が見た夢と、同じ内容……」
やがて乙女たちは目を覚まし、さわさわ、さわさわとした乙女のお喋りと笑い声が塔を包みだす。
ハルシオンは窓辺に座り、外壁の蔦に足の指を絡ませながら、空を見ていた。
――どうして、同じ夢を?
葉っぱや蔦に潜む小さな花に、ハルシオンの足の指が触れる。
――やっぱり、あれは夢じゃなくて、"鍵番の乙女"の時の記憶……?
ハルシオンは、桜色の唇から ふぅ、とため息を漏らした。
だめ。こんなことを考えても、この塔で胸の中で常につきまとう、いつもの不満は全然解消しない、と思いながら。
少しはどうにかなると思っていたのにと、ハルシオンはまた胸をもたげるそれにうんざりした。
そして見上げた空にある、太陽に透けて光る雲を見つめ、心の中でその不満を思い切り叫んだ。
――退屈!
ハルシオンは ばっと腰掛けていた窓辺から降り、走りだすようにして塔の階段を目指し、登っていった。
――退屈。
ミルクにバラ色を混ぜたような、焼き菓子のような色の階段をハルシオンは駆け上がる。
――退屈、退屈!
上へ上へ、息が切れ、四つん這いになりかけながらも駆け上がる。
――20になるまで、どうやって時間を潰せばいいの。私はまだ15なのに!
ハルシオンがここに来たのは13の時。それ以前のことは覚えていない。ただ、たった二年間でこんなにも苛立ちに近い退屈を感じるのに、ここから三年にも四年にもなってしまったら、私は一体どうなってしまうんだろう、ハルシオンはそう思わずにいられなかった。
通りすぎたどの階も、もう飽きてしまった。食事の間、本の階、花を育てる階。目新しいものは何も無い。
「ああ……」
ハルシオンは階段の途中で、へたりとくずおれてしまった。
ほんのり色付く唇から吐息がこぼれる。
「外に出たい……」
手を床につきながら、ハルシオンは声を漏らしていた。
「塔の中じゃ駄目かい?」
唐突に、声が降ってきた。
ハルシオンが びくりと瞳を揺らす。
馴染みのない声。それも何だか低くて、変な声。
ハルシオンは、恐る恐る顔を上げた。
階段の上には、黒く、短い髪をした子が立っていた。その子が笑いかけてくる。
「やあ。」
ハルシオンは、その切れ長の目に見覚えは無い。それどころか見たことの無い形の服を着ていて、服に色が付いている。
ハルシオンが初めて見た、「男」という存在。
声を震わせながら、ハルシオンは彼に向かって問いかけた。
「あ、あなた、誰? もしかして、私が眠っている間に新しく来た子……とか? 新しい鍵番の乙女?」
彼はその問いかけに、ん? と頭をひねった。そしてややあって、からからと笑い出した。
「参ったな。そっか、男を知らないのか。僕は鍵番の乙女じゃ無いよ、ハルシオン。」
――どうして、私の名前。
ハルシオンはそれも気になったものの、その質問はぐっと堪え、後に回した。
「じゃあ貴方、何? 鍵番の乙女じゃないなら、ヴェール・レース? それとも、他の新しい何か?」
その言葉に、少年は苦笑した。
「……新しい何かって。君たちが知らないだけで、この塔にはもっと色んなものが居るんだよ。……まあ、最後のでいいか。そうだよ、僕は鍵番の乙女でもヴェール・レースでもない。言うならこの塔の亡霊だね。」
その言葉に、ハルシオンは一瞬だけ眉間にシワをよせた。ハルシオンが返事をする。
「……そう。じゃあ亡霊さん。貴方、この塔のこと色々知っているの?」
ハルシオンの言葉に、少年は目をぱちくりさせた。
「信じるの?」
その、自分が亡霊だということを信じるのか、という問いかけに対して、ハルシオンはこくこく、と何度か乱雑に頷いた。
――戯言の相手をするのが面倒くさいから流したのに。
わざわざ掘り返すなんて、とハルシオンは内心ため息をついた。
目の前の少年は、そっかあ、でも、とぶつぶつ何か言っている。
ややあって、少年は にかっと笑って答えた。
「そうそう、この塔について詳しいのかだよね。そうだよ、ハルシオン。僕はこの塔の一部だからね。君たちが行けない隠し通路のことも色々知ってるよ。」
その言葉に、ハルシオンが ばっと立ち上がった。
ずかずかと階段を登ってくるハルシオン。その剣幕に、少しだけその少年は怖気付いた。
「本当に?」
距離を詰めたハルシオンが聞いてくる。少年は、こくりと頷いた。
「じゃあ私を、塔の中案内してよ。」
語気を強めて、ハルシオンは「お願い」した。
睨むような目で見てくるハルシオンに、少年は片唇を吊り上げて、いいよ、と言った。
その言葉に、ハルシオンの目が輝いた。
心の中で呟く。
――これで、少しは退屈が紛れる!
ハルシオンが白いスカートを翻らせ、さあ行こうとした矢先。少年は小さく 待って、と呟いた。
「だから、外に出たいとか言うのは無し。いい?」
ハルシオンが振り向くと、そこにいた少年は、切れ長の目に暗い光を宿していた。
その目つきにハルシオンは、少しだけ背筋がぞっとした。
「どうし、」
どうして。
その言葉が出るより先に、少年の凄みを増した目に睨まれて、ハルシオンは言葉をなくした。
――この子、何か変。
ハルシオンが不振の色を目に浮かべたその時。少年は、ぱっと笑顔に戻った。
「ごめんごめん! そうだ、もう亡霊だって言ってるから、隠さなくてもいいんだね。あのね、僕は地縛霊みたいなものだから、この塔から出られないんだ。それでね、ハルシオン。君は僕がずっと待ってた、唯一僕のことが視える女の子なんだよ! ずっと話し相手が欲しかった……。だから、僕を置いていかないでほしいんだ。そういう理由。ごまかしたかったからって、威嚇して黙ってもらおうとするなんてして、ごめんね。」
少年のすらすらと流れ出る言葉。ハルシオンは、こう思わざるを得なかった。
――嘘……。
それを、嘘だと思った。
――や、まるきりの嘘じゃない。けれど、完全に本当でもない。どこかに嘘が混じってて、どこかに本当のことが混じってる。
少年の声音や雰囲気に、ハルシオンは何故だかそう確信していた。
――とにかく、この子を完全に信用してはいけない。
ハルシオンはそれだけ心に留め、話題を変えるためにも、このじれったいやりとりを早く終わらせるためにも、本題に移ることにした。
「分かった。とにかく、塔を案内してくれるってことでいいんだよね? 最初はどこへ連れて行ってくれるの?」
ハルシオンの言葉に、少年は にやっと笑った。
「そうだなあ、じゃあ、君たちの花冠についての階からにしようか。」
少年はひらりと身を翻して、階段を軽やかに上がって行った。
その重力を感じさせない動きに、ハルシオンは一瞬だけ、本当に肉体を持たない存在のように感じさせられた。