ブドウの種
鍵番の乙女よ。
鍵番の乙女よ。
我らにその恩恵を。
塔の中には、部屋全体に水が張られた場所がある。
その階までは床も壁も焼き菓子のような、バラのような色のレンガでできていたのに。その階からはまるで世界が変わったかのように、全てすべすべした白い石でできていた。
白い石の表面には、オパールのような淡い虹色の光沢が滑る。
どこかの神殿のような静謐な空気が、辺りに漂っていた。
ハルシオンは、その水の上で目を覚ました。
顔の横を、淡い桃色の花が通る。
自分が水に浮かんでいる。ハルシオンは気がついた。
仰向けになった視界には、薄暗い天井と、天井を撫でるように踊る水光が映っている。
――体が、重たい……。
ハルシオンは水の上で、花と共にしばらく浮かんでいた。
下の方の階で、皆の気配がする。
視界の端では、窓から差し込む光が輝いていた。
「ハルシオン、起きたんだね。」
竪琴を引き鳴らすかのような美しい声が、ハルシオンの耳に届いた。
見るとそこには、見慣れた女の子が立っていた。
宝石のように黒い髪。長いまつ毛に青い目。まるで精霊のようにきれいな女の子。
「ルーチェ……」
ハルシオンは、細い声で彼女を呼んだ。
キャミソールワンピースをなびかせながら、ルーチェは水際にかけよって、水の上に吊るされる、蔦でできたブランコに腰をかけた。
ルーチェの爪先が水に触れ、足を動かすたびに、そこから波紋が広がる。
「鍵番、お疲れ様。一ヶ月も大変だったでしょう。って、覚えてないか。」
ルーチェは、ブランコをゆらゆら揺らしながら、ハルシオンに語りかけた。
ハルシオンはルーチェの方に首を動かした。桜色の唇が、たどたどしく動く。
「一ヶ、月……?」
――私が知る限りでは、鍵番はせいぜい一週間から二週間だ。
ハルシオンは心の中でそう呟いた。
「あっ、ごめんね。ハルシオン、知らなかったんだ。そう、ハルシオンは皆よりも鍵番がどうしてか長いの。鍵番から帰ってきた時は本当に顔色が悪くて、皆で急いでこの水の上に浮かせたんだよ。」
「この水の……」
ハルシオンは、自分の手で器を作り水をすくった。
まだ体は重いものの、この水のおかげでだいぶ体は元に戻ったらしい。
この水の部屋は、鍵番になった後の乙女が決まって運ばれる場所だった。
鍵番になった後、乙女は何日も死んだように眠る。その間乙女は、この水に浮かべられている。
だからハルシオンが目覚める場所も、決まってこの水の上だった。目覚めた後も、体は ずんと重い。この水の中であれば、その重さからは解放された。
この水の上に浮かべられている花たちは枯れない。
生命の水と呼ばれる、不思議な水でできている。
ハルシオンは、水の中から起き上がった。絹のような髪から、雫が滴っている。
「ハルシオン、まだ起きちゃ……。」
ルーチェがブランコの上から声をかけた。ハルシオンの目に、ルーチェの姿が入る。
ルーチェの黒い髪と、青い目。
ハルシオンの白い髪と、赤い目。
まるで対みたいね、とハルシオンは心の中だけで呟いた。
自分を見つめてくるハルシオンに、ルーチェは不思議そうに首を傾げた。宝石のような黒髪が彼女の白い肩にかかり、さらりと揺れる。
その弾みで彼女の耳にぶら下がる、ブルームーンストーンの宝石が きらりと光った。
半透明のその石の上を、オーロラのような青と淡い虹色がすべっている。
派手すぎない、静かでありながらも確かな美しさを携えているそれは、ルーチェにぴったりだとハルシオンは思った。
ルーチェはどうしてか、花冠をしない。彼女の花冠は、白く小ぶりの花が可憐に編まれた花冠だった。ルーチェがその花冠をつけているところを、ハルシオンは見たことがなかった。代わりに一度だけ彼女にだけ入っていた耳飾り。それだけはルーチェも付けている。
ハルシオンも不思議に思っていたものの、聞くことは無かった。
ルーチェがハルシオンに、竪琴のような音の声で話しかける。
「お腹すいた? ご飯、持ってきてあげようか。それとも食べに行く?」
「……食べに行く。」
〈食事の間〉まで行くには、螺旋階段を降り続けなければならない。この塔の部屋と部屋は、螺旋階段によって繋がっているのだ。ハルシオンは強張った体に鞭打って、食事の間まで歩き通した。
他のどの階よりも、外からの光が燦然と降り注ぐ広間。
それが、鍵番の乙女たちの〈食事の間〉だった。
そこの床や壁は他の階と同じように、ミルクにバラ色をさしたような色のレンガで出来ていたものの、どうしてかその階は、その上から大理石のタイルを貼っていた。一見すると白いその広間。その真ん中の、窓からの光が最も集まる場所。
そこに鍵番の乙女たちの食べ物が成っていた。
たわわに実る、大粒のブドウ。
まるでシトリンの黄とアメジストの紫の溶け合う、アメトリンという宝石のようにつややかな実。このブドウの品種名は、”アメトリンの雫”。
それを摘み取っては口へと運び、乙女たちは美味しそうにそれを食む。
鍵番の乙女たちは、ここに実るブドウ以外を口にしたことがない。それ以外、食べ物を知らない。
このブドウは一晩で成る上、途切れたことがない。食べ物に不自由することは無かった。
ひた、ひた。という足音とともに、ハルシオンがやってきた。
〈食事の間〉の眩い光に照らされて、ハルシオンの白い肌や髪が光に反射する。それはまるで光の使者でも現れたかのように神々しく、眩かった。
この世のものとは思えない白さ。
華奢で儚げな、光に透けていきそうなほど現実感の無い姿。
整った顔はお人形のよう。彼女の無表情さも相まって、お人形らしさは増していた。
鍵番の乙女のうちの一人が声をかける。
「ハルシオン! 良かった、目が覚めたんだね。」
その言葉に、ハルシオンは ええ、どうも。とだけ返す。
笑いもしなければ、立ち止まって返事をすることもない。
声をかけたアリソンという少女は、そんなハルシオンに対して、良かった、元気そうで、と笑って返した。
ハルシオンはブドウの元へ歩みを寄せる。ひたひた、から、ちゃぷん、ちゃぷんと。ブドウのために、薄く水の張られた床に辿り着くことで、ハルシオンの足音が変わった。
やや遅れて、〈食事の間〉にルーチェが現れた。ルーチェは人より、力も体力もない。
ハルシオンは階段の途中で、先に行っててとルーチェに言われ、大人しく先に行くことにしていた。
ルーチェが姿を現しても、美しさに周りの空気はハッとする。
鍵番の乙女は皆美しい。美しい少女だけが選ばれる。
その中でもハルシオンの稀有で美しい、白い姿は目立つ。ルーチェの正統な美しさも目立ち、「支持」を受けていた。
鍵番の乙女たちは、知る由も無い。
「ブドウ、美味しいね。」
ルーチェの言葉に、ハルシオンは振り向いた。
しかしその独り言はハルシオンが反応するよりも早く、他の少女に受け止められた。
仲良さげに話す二人。ああ、やっぱりあの二人仲が良い、と、ハルシオンは内心面白くない気持ちで、顔を背けた。
つるに実るブドウの粒を指でもぐ。
そしてブドウはハルシオンの桜色の唇に触れ、口の中へと入っていく。
がりっ。
ブドウを噛んだ途端、ハルシオンの歯に何か硬いものが思い切り当たった。ハルシオンは衝撃に驚き身を竦ませた。
――ブドウの中に、何か入っている。
このブドウに種は無い。それが、ハルシオンの手にしたブドウには、種が入っていた。
『一度手にしたブドウは、絶対に食べきること。例えそれが苦くとも、硬くとも。』
ヴェール・レースの声が蘇る。
ハルシオンは種を知らない。鍵番の乙女たちも知らない。
ハルシオンはブドウの中に入っていた異物を嫌だと思いながらも、思い出したヴェール・レースの言葉に従い、飲みくだした。
喉にそれが通り、通り過ぎて。
ハルシオンは、はぁ、と息をついた。
そこでハルシオンは、ブドウが苦くても硬くても、とは言われたけれども、中に変なものが入ってたことなんてヴェール・レースは言っていなかった。もしかしたらこれは食べなくても、良かったんじゃないのかな、と、ハルシオンは飲んだ後に考えた。あれが何だったのか、ハルシオンはあの異物を不気味に思った。
――大体、苦い硬いって言ったって、そんなブドウ存在するの? みんな爽やかに甘くて、歯切れの良いものしかないじゃない。
ハルシオンはぶつぶつとそんなことを考えていた。変なものを食べてしまったこと、早く忘れられるように。
種はハルシオンの体の中に入っていった。