鍵番の乙女
ミゲルの途方も無い悪意に、ハルシオンは全身の皮膚が泡立つのを感じた。
体が冷たくなる。
そして びしり、とどこからか大きな音がした。
音の出所はすぐに分かった。目の前の壁に光の線が入り、ぼろり、と壁が大きく崩れたから。
暗い部屋に外の光が入ってくる。金色と灰色に輝く雲が空いっぱいに広がる、異様に荘厳な空があらわになった。
壁にはめられていたステンドグラスがひび割れながら崩れていく。落ちていく硝子たちは、外から入ってくる金色の光を身にまとい、きらきらと輝いていた。
壁の穴から光とともに風が びゅう、と吹く。
ハルシオンの白金色の髪が風に弄ばれる。白いスカートが金色の光を浴び、千切れんばかりにはためく。
風に乗り、ステンドグラスの破片がきらきらと辺りに舞っていた。
その中でハルシオンは、懸命に叫んだ。
「ミゲル、ミゲルお願いやめて!」
逆光の中で立つ彼は、表情すら見えにくかった。それなのに髪や服は一切風に揺れず、彼が本当に生身の人間ではないのだと、今更ながらハルシオンは実感した。
地面が揺れる。ずごごご、と大地が崩れるような音がする。
ミゲルが逆光の中微笑んだ。地鳴りも風もものともせず、静かに言葉を紡ぐ。
「これは、人間を生命の水やブドウに変えるという、悪魔のような行いをした鍵番の乙女たちに、与えられて当然の罰だ。鍵番の乙女の死は、生命の水にされて恨んでいる魂たちの総意……」
床がぐらりと傾いた。ハルシオンはたまらず、床に手をつきその場に座り込む形になった。手をついた先、床にまでひびが入っているのが見えた。
「僕はその、代行者だ!!」
ミゲルが叫んだ。風はやんだはずなのに、ミゲルの髪や服が、まるで風に吹かれているかのようになびき出す。
激昂する彼を見て、その言葉を聞いて。ハルシオンは強く思った。
――きっと彼は生命の水となり、他の魂ともう"混ざってしまった"のだ。
どうすればいい、どうすればいい。
塔はどんどん崩れていく。彼を止めなければ、いいや、彼を止めても塔の崩壊は止まらないかもしれない、そう彼女は思う。
――このまま皆死ぬの? 何も知らない皆まで?
ステンドグラスがまたひとつ落ちる。辺りにまた、破片がきらきらと舞う。
金色と灰色の雲が、空を流れていく。
雲間から、無数の光が差している。
ハルシオンは涙が出そうになった。
死に際に見る終わりの光景が、崩れゆく塔というこの瞬間が、あまりにも恐ろしく美しかったから。
――ああ、もう本当に終わりなんだ。
彼女は、そう思った。
その時。
「ハルシオン!」
誰かが、彼女の名を呼んだ。
うそ、そんなはずない、彼女は心の中で呟く。
それでも彼女の目は声のした方向、階段の方に向かっていた。
カンカンカン……と階段を登る音がする。
高く澄んだその音が響き渡り、近付くたびに、ハルシオンの期待は高まっていった。
――期待なんてしていなかったのに。
――どうしてあなたが?
そして一人の少年が現れた。
汗だくで、息を切らせて。
ハルシオンの口から、彼の名がこぼれた。
「メゾ……」
「ハルシオン!」
もう一度メゾが彼女の名を呼ぶ。駆け寄り、彼女の両腕を掴む。
外からの白金色の光に照らされた彼の顔が、強く、優しく微笑む。
「もう……大丈夫だから。」
その言葉に、ハルシオンはとうとう涙が溢れた。
そして思わず彼女は、彼にしがみついた。
彼にしか聞こえないような小さな声で、怖かった、怖かったと囁きながら。
メゾは驚いた様子だったが、すぐにハルシオンの肩にそっと手を置いてくれた。
そしてもう一度。もう大丈夫、と力強い声で言った。
メゾはハルシオンの肩を抱いたまま彼女を立たせた。その時ようやく彼女は自分の足が震えている、と自覚した。
「メゾ……どうしてここに」
「ハルシオン、どうやってかは分からないが、この塔に来てからヴェール・レースに連絡とっただろ?」
ミゲルに気付かれないように触れたあの透明な石。
あの時ハルシオンは、石に向かって言葉を投げていた。
――助けて。
その言葉は石を通して、ちゃんとヴェール・レースに届いていた。
メゾは続ける。
「ヴェール・レースすごい驚いててさ。どうやって私たちの石を、とか言ってて、それでハルシオンが助けを求めてるって分かったんだ」
「だから……来てくれたの?」
「そう。何人かで馬車を使って大急ぎで来たんだけど、どうしてか馬がこのあたりに来てから塔に近付くのを嫌がってさ」
――それはきっと……
ハルシオンはミゲルの方をちらりと見た。
動物は人間よりも勘が鋭いとハルシオンは本で読んだことがあった。恐らく、亡霊として猛威を振るう彼を勘付き、恐れたのだろう。そう思った。
「それで俺だけ走って先に来て……。あぁ、あとどういう状況か分からなかったけど、ほら。これ……」
そう言ってメゾは懐から何かを取り出した。
金色の輝きがハルシオンの目に飛び込む。
不思議な光沢を持つ、金色の鍵。
「これ……!」
「そう、森羅万象の鍵をさ、くすねてきた。」
そう言って、メゾは珍しく、いたずらっぽく笑った。
その顔にまた、ハルシオンは涙が出そうになった。喋れば、声が震える。
「そんなことしたら、メゾがどうなるか……」
「いいんだよ。必要ないなら必要ないで。そうだ、他の鍵番の乙女たちももう外に出てるぞ。俺が外から鍵を壊したからな。さあハルシオン、歩けるか? 逃げるぞ」
ハルシオンは ハッとして、壁の方へ目を向ける。そこには逆光の中立つ、まるで黒い影そのもののような亡霊の少年が変わらず立っていた。
彼は憎々しげにつぶやく。
「王子様の登場ってわけか。とんだ邪魔が入った」
壁に大きな穴の空いた場所を見つめるハルシオンに、メゾが不思議そうに尋ねる。
「ハルシオン、どうした……? 何を見てるんだ?」
「見えないの?」
こくりと、メゾが頷く。ハルシオンはメゾに体重を預けたまま、ミゲルの方を見据えた。
「メゾ……説明は後でするから、私の首に森羅万象の鍵を。私を……"鍵番の乙女"にして」
メゾは何も聞かず、分かった、と呟いた。
壁の破片が近くに落ちてくる。メゾはハルシオンの髪をかき分け、あらわになったうなじに鍵を差し込んだ。
ハルシオンは目を瞑る。
そして音もなく、鍵は回された。
全ての知識、全ての出来事と繋がる感覚。
これがミゲルの言う無意識の世界、または神の意識と繋がったと言うのなら。
だとすれば人は、なんてものを作り上げてしまったのかしら。
ハルシオンは、そう思った。
彼女が再び目を開けた時、彼女はもう鍵番の乙女だった。
鍵番の乙女の赤い目が、亡霊の少年を静かに見据えている。
瓦礫が落ちる中、ミゲルが笑っているかのように話す。
「そんなことしてどうするの。自然現象を起こしたり、人間の姿を変えたりするしかできないのに。どうやって僕に危害を加えようっての?」
「そうね。ミゲル……。私たちのできることはそれくらい。でも、人間を別の姿に変えることができるのなら私は戻すこともできる」
ミゲルの顔から さっと表情が消えた。
――そう、これは鍵がなければできなかったこと。
――これが、鍵の力で起きたことだというのなら、お終いを飾るのも鍵の力で、いいえ。
――鍵番の乙女がするべきだわ。
ハルシオンが手をかざす。
「他を傷付けた者よ、自ら命を絶つことを選んだ者よ、その罪は罰するに値する」
「やめっ……!」
ミゲルが足を前に出す。ハルシオンに向かって、走ってくる。
「しかしその罪は、私、鍵番の乙女の命令により無きものとする」
「やめろおおおおお!」
そう叫ぶ、彼の形相は凄まじかった。それこそ、悪霊と呼ぶに相応しいほどに。
彼の手が、顔が、霧のような姿に変わっていく。その中でかろうじて残る彼の輪郭が、ハルシオンとメゾめがけて迫ってくる。
まるで救いのような響きを持った、彼にとっては絶望の言葉。
最後の一言を、ハルシオンは口にする。
「あなたの罪は、許されました。」
瞬間、ミゲルの姿が大きく揺らいだ。
「あああ……あああ!」
ミゲルが頭を抱え、叫び出す。塔の壁に張られていたブドウのつるが、まるで糸のように細くなっていく。
「ああああ!」
彼の声に呼応するかのように、がこん、と音を立てて、彼の後ろのひび割れた壁が崩れた。ブドウのつるに侵食されて壁にできた穴が、つるがやせ細っていくことで露わになる。
がらがらと、壁が崩れていく。空いた穴から白い光が差し込んでくる。
壁の向こう側に見える空は、どこまでも金と白に光り輝く雲に覆われていて、塔が崩れ去る音の中、その神々しさにハルシオンは思わず心奪われた。
そして目の前にいたはずの彼は、音もなく、霧散した。
――あなたの罪は、許されました。
鍵番の乙女が唱えた最後の言葉が、彼女の頭の中を木霊するかのように何度も響いていた。
あなたの罪は、許されました。