ミゲル
どれだけ眠っていたのか。
窓の無い小部屋では、外の明るさが分からない。
ハルシオンは腕をつっぱり体を起こそうとするが、体がひどく重たく感じてなかなか思う通りに動けなかった。
やっとの思いでその場に座り込む。生命の水を使わなければ、こんなにも体は回復しきらないのかと改めて思う。
――生命の水を使ってさえ、最近の私はかなり長い間眠っていたそうね。それなら、一日以上眠っていたこともあり得るかもしれない。
目の端で、金色の光が きらっと光った。その先には、自分を鍵番の乙女たらしめる、森羅万象の鍵の原石。
「あ……」
その時、ようやくハルシオンは思い出した。
何故自分がここにいるのか。
何故自分が倒れていたのか。
そして、倒れる直前にミゲルが言った言葉を。
――ステンドグラスの階で……決着をつけよう
決着。
待ち望んでいたはずなのに、その言葉の響きが、ハルシオンは何よりも恐ろしかった。
暗闇に浮かぶように光るステンドグラス。
その下で佇む彼もまた、暗闇に浮かび上がるかのように、やけにはっきりと見えた。
ハルシオンは一歩、また一歩と彼に近付く。
物音に気付いたのか、元から気付いていたのか。ミゲルはふわりと振り向き、いつも通りの静かな笑顔を向けてくる。
「やあ、お姫様。ようやく眠りから覚めたんだね。待ちくたびれたよ」
「……どうも」
普段だったら顔をしかめるような台詞も、今はそれ以上の反応ができなかった。喉の奥がつっかえて、頭がうまく働かない。
「そんな緊張しないで。らしくないよ」
見抜かれたことに、ハルシオンは顔が かっと熱くなった。そこからは腕を組み、睨むような目で 別に、とだけ答えた。
「……ふふ。いつもの調子が戻ったみたいで良かった」
そう言う彼の目は笑っていない。いや、そのことすらも"いつも通り"。
「いいから、本題に入って」
こんな問答に意味なんて無い。そう考えた彼女は先を促す。
「……仰せのままに」
ミゲルが伏し目がちにため息をついて、そう呟いた。
そしてもう一度ハルシオンを見た時、彼の目は鋭く、暗いものへと変わっていた。
「ハルシオン。本当に死が近くて生命の水にされた人が納得しているなんて思っているのかい? その家族が全員、心からそれを望んでいると思っているのかい?」
こつこつと、歩き回りながらミゲルは話す。
「僕の父親は病気でもう手遅れだった。うちは貧乏でね。治療費さえもう出せなかった。そしたら君たち側の人が来て言ったんだ。”死ぬんなら、生命の水になるのはどうか”って」
ぴたりと、歩く足を止める。そして、ゆらりとハルシオンの方に向き直った。
「どれほど屈辱だったか分かるかい? ……ハルシオン」
彼の声は、なるべく押し殺してはいるものの、感情によって高ぶっていた。
少しの沈黙の後、彼は続ける。
「それも君たちは、お金をちらつかせながら言ったんだ。親は散々考え、生命の水になることを認めたよ。それでも僕は認めなかった。知ってるかい、生命の水にはね、家族の一人でも反対すればなれないんだ。なのにお前たちは、僕が子供だっていう理由でそれを無視した! 決まりなんてお飾りさ。それがよく分かったよ!」
とうとう荒ぶり出した彼の声。暗い瞳で、口元は笑っているように歪んでいた。
「ミゲル……」
「お前が、僕の両親の付けた名前で呼ぶなぁっ!」
彼の声に呼応するように、壁にひびが入った。がらっと音を立て、一欠片の瓦礫と砂塵が床に落ちた。
空いた穴から、外の白い光が差し込んでくる。
「僕は君を通してそっちの様子を見ていたよ。君、あの時ヴェール・レースに見せられた、生命の水になる人、生命の水をもらう人が全てだと、本当に思ったのかい。用意された人物だと思わなかったのかい」
彼の口角がさらに釣り上がる。彼の笑みは、恐ろしいほどにどす黒いものだった。
「犯罪者の中でもより犯罪者らしい犯罪者を、病人の中でもよりきれいに納得したお手本のような病人をって! 僕はね、何も知らない君に、本当にイライラしたし、殺してやりたいとすら思った。でもそれは叶わない。僕は君たちの手によって、ブドウなんかにされたからね!」
「……生きてた時、鍵番の乙女を殺そうと思ったのも同じ理由?」
「そうだよ。のうのうと生きていたって点ではね。」
「そう……」
何の音もしなかった。先程から頻繁に聞こえていた壁が崩れる音も、それどころか外からの風や鳥の鳴き声さえも。
ハルシオンは静かに、目を伏せていた。
「あなたが本当のことを言ってくれればよかったのに」
そう言って、彼女は目を開けた。ミゲルの目をしっかりと見据えて。
「ミゲル・ハープ。十五歳の時に鍵番の乙女殺人未遂で、処刑。あなたは幼い頃から少年たちと集団で、通りすがりの人に暴行を加えることを続けていた。そういった盗みや暴力を続けていながらも、表向きは「良い子」だった。そして、幼い頃から両親による虐待を受けていた。そんなあなたは、ある日家の料理に毒を盛る。両親は一命を取り留めるも、父親は意識不明に。その後、父親は生命の水の提供者に。鍵番の乙女殺人未遂の一件からそれらの罪が明るみに出て、これまで積み重ねた罪により、処刑が決まった」
ハルシオンは一気に言い切った。ひとつ息を吸って、また喋る。
「あなたについて書いていた書類の内容よ。何か反論は?」
ミゲルは何も言わなかった。ただその顔からは、あの暗い笑みは消えていた。
ぴしりと、また壁にひびが入った。
「ミゲル。あなたは、自分の罪をごまかすために人に罪を押し付けてばかりね。あなたが生きてきた環境は、罪を犯す動機にはなったかもしれない。生命の水にされたご両親についても、対応に問題はあったのでしょう。けれど」
ハルシオンが一歩、前に歩み出る。
「それがあなたの罪の、免罪符になりはしない」
ハルシオンの白金色の髪が揺れる、きらりと、輝く。
「私はあなたを同情したりしない。いくらあなたが生前もしてたように、いかに自分が可哀想な人間に仕立て上げたような話をされてもね」
――この人は、
――ただ人を悪者扱いして、自分を被害者にして。そうやって誰かを責め立てたいだけ。
――そして誰かを言い負かし、誰かが傷つくのを見たいだけ。
ミゲルが言葉に詰まったのを、ハルシオンは確かに感じた。しかしその一瞬などなかったかのように、ミゲルはつらつらと言葉を並べ出す。
「……ひどい言い草だね。僕が話を仕立て上げたって証拠は無いし、だいたいどうして君にそんなこと言われなきゃならないわけ?」
ハルシオンは盛大にため息をついた。
「……ああ、私はあなたと喧嘩がしたかったわけじゃないの。ごめんなさいね。私が話したかったのは、もう私にかまわないでってことなの」
「かまうって、何?」
「とぼけないでよ。さっきも言ったでしょう。私の体調を悪くしてたのも、あなたでしょ。取り憑いて悪さをしてたんじゃないの」
「思い込みじゃないのかい」
「じゃああなたはどうして花冠の中に入って来れなかったの?」
ミゲルの目が、かすかに揺れる。
「私に対して悪意がなければきっと入れるはず。だって、花冠は害ある存在を弾くものだもの。あなたはそれには入れなかった……。お願い、良い加減認めて」
――これ以上不毛なやりとりを続けさせないで。
ハルシオンはその本音を、心の中だけにとどめた。
ミゲルは黙っていた。ただ、今まで見たことないほどに暗い瞳でハルシオンを睨んでいた。
ハルシオンには、それがこれ以上ないほど雄弁な、自分の所業を認める返事に見えた。
ミゲルは、また口元に笑みを浮かべた。今度はいやらしく、見下すような笑みを。
「そうだね。ブドウのつるをこんなに伸ばせたのも、君から生命力を吸い取ってたから、かな? 君の心は生命の水のショックでガラ空きだったからね。簡単に攻め込めた」
とうとう彼は、見ていて哀れになるような稚拙なごまかしをやめてくれた、そうハルシオンは思った。これでやっと有意義な話ができる、と。
ミゲルはその胸中を知ってから知らずか、ふと違う話を始めた。
「初めて会った時、僕が君をこの塔に引き止めたこと、覚えているかい」
ハルシオンは小さく頷いた。
「それはね、この塔には、さっき言ったようにたくさんの生命の水にされた魂がはびこってるからね。言ってしまえば、怨霊の溜まり場さ。同じように君を恨んでる連中が君に取り憑き、そうすることで僕も憑きやすくなる。でも僕たちは地縛霊みたいなものだから……。君が外に出てしまえば、間接的な手出ししかできなくなる。何が言いたいって、この塔には僕と同じように、君を嫌い、貶めたがっている連中がたくさんいるんだよ」
ハルシオンは、なるべく冷たい視線を寄越した。彼は私を怖がらせようとしている、思惑通りになんてなってやりたくない。その一心で。
それと同時に、さっきから心の隅に引っかかっていた疑問。それがふいに口をついて出た。
「それで、あなたは私にどうして欲しいの?」
ミゲルの表情が、一瞬にしてきょとんとしたものに変わった。
「どう、って……」
「供養をするなり、無念を誰かに伝えるなりしてほしいの? それとも、ただ私に不幸になってほしいの?」
ミゲルの言葉が止まった。目がどこかへ彷徨い、何かを小さな声で呟いている。
「それとも……」
――私たちからの謝罪?
それをハルシオンが口にするより早く、ミゲルが「あー、」と声を漏らした。
どこも見てないような目。無感情に乾いた声をミゲルは漏らした。
「もういいか。いいよ、君が知りたがってた君をここに呼んだ理由、そして僕の目的、教えてあげる」
ブドウのつるによって、またひとつ、塔の壁がひび割れる。
「僕はこの塔ごと壊して、鍵番の乙女を世界への見せしめに全員殺してやりたいだけ」
彼は柔らかく笑った。
それはまるで、春の木漏れ日のように。