花冠
「ハルシオン!」
「久しぶり!」
ハルシオンが目を開けると、そこには見慣れた女の子たちがいて、自分を覗き込んできていた。
頭には皆一様に花冠が乗せられていて、ふとした弾みにその花びらが小さく揺れる。彼女たちが着ている白いワンピースが、窓から差し込む陽光で淡く輝いている。
ハルシオンの視界の横を、ピンクの色が通る。目で追いかけると、それは水に浮かぶ花だった。
ハルシオンは ばしゃりと起き上がる。急に上がった水しぶきに、鍵番の乙女たちが驚いて目を閉じた。
――ここは。解放の土地じゃない?
ハルシオンは辺りを見回す。淡い虹色が浮かぶ白い壁。ルーチェという友人が前に座っていた、あの水の上にぶら下がるブランコ。ここは間違いなく、ハルシオンが今までいた塔、その生命の水の階だった。
――私、どうしてここに?
ハルシオンは自分の記憶を辿った。何故だかひどく記憶が曖昧で、ここしばらくのことが思い出せない。
「ハルシオン……?」
「どうしたの?」
とうとう、鍵番の乙女たちが何事かと聞いてきた。しかしハルシオンはそれに答えることはできず、質問に質問を返していた。
「私、いつの間にここに戻ってきてたの?」
乙女たちが顔を見合わせ、声を揃えて言う。
「今朝だよ!」
「ハルシオン、忘れちゃったの? 自分でここに戻ってきたいって言ってたんだよ。」
「体調崩しちゃったんだってね。ここで少しの間休めるって。」
――私が、自分でここに戻ってきたいなんて言ったの?
「ハルシオン……」
静かに呼ばれた声に、ハルシオンは振り向く。そこには、宝石のような黒い髪と、静謐な美しさを持つ少女がいた。
「ルーチェ……」
ハルシオンが彼女の名を呼ぶ。いつも淡く笑っていたルーチェの口元にはその笑顔が無い。
そして、彼女の頭に乗っかっているあるものにハルシオンの目がいく。
「あれ、ルーチェ。花冠つけてるなんて珍しいのね。いつもは付けないのに……」
言い終わる前に、ルーチェが抱きついてきた。さらりと、彼女の髪の一房がハルシオンの頬を撫でる。
「ど、どうしたのルーチェ。」
「ハルシオン。」
ハルシオンの声に被せるようにして、ルーチェが耳元で囁く。ハルシオンにしか聞こえないような小さな声で。
ハルシオンの耳元で吐息交じりの声がする。
「お願い。あとで二人で……話があるの。」
その神妙な声に、ハルシオンは静かに頷いていた。
塔でハルシオンが目覚めた日から、数日が経った。
ハルシオンは眩しいくらいの日差しが入り込む〈花の階〉で、静かに座っていた。
花の階は、単純に花を育てる階だった。鍵番の乙女たちの暇つぶしのため設けられた、遊びの階。
彼女の周りには、色鮮やかなたくさんの花が咲いている。陽光を受けて、作られた小川だけでなく、花まできらきらと輝いている。
そこでハルシオンは、花冠を編んでいた。
アザレア、かすみ草、クロッカス。
たくさんの花を無造作に選び、ただひたすら編み続ける。
大きな大きな花冠を何重にもして、ハルシオンは自分の周りを取り囲むようにそれらを置いていた。
聞こえるのは外からの鳥のさえずり。そして室内の、水が静かにせせらぐ音。
光すらきらきらと音を立てそうなほど、辺りの光は輝いていた。
ハルシオンは窓を見上げる。ミルクにバラを溶かしたような色のレンガの壁。
そしてそこに伝う、ブドウのつる。
ぱらぱらと、壁から砂のように小さな欠片がこぼれ落ちた。またほんの少し、壁が崩れたのだ。
つるが張っているのはこの階だけではなかった。生命の水の会で目覚めた時には気付かなかったものの、他の階も同様に、ブドウのつるが壁を侵食していた。
ハルシオンがここを発つ前は、こんなことはなかった。しかし今やつるは壁という壁を這い、塔のあちこち、レンガの隙間に穴を開けている。
他の乙女たちの話によれば、ヴェール・レースがハルシオンを連れて来た時、これを見て驚いていたらしい。そして、何らかの策を立てねば、とも言っていたそうだ。
それと同時に、ハルシオンはもう一つ聞いた話を思い出す。ハルシオンは男の子にお姫様抱っこをされて馬車から降りて来たよ、と言う話。
その男の子とはきっとメゾだ。ハルシオンは聞いた時、そう思った。
初めて男の子を見たという子がほとんどなこの塔は、その話になった時に色めき立っていた。「ぶっきらぼうな感じの男の子だったけど、ハルシオンのことすっごい丁寧に抱えててね。ガラス細工でも触るみたいに。でも女の子に囲まれた時無表情で照れてたから、ハルシオンと初めて会った時も照れたりしてたんじゃない?」
その話を聞いた時、ふとハルシオンは、自分のベットの隣に座れと言ったことを思い出した。
――もしかしたらあの時隣に座らなかったのは、嫌がってたとかじゃなくて、照れてた……?
しかし、すぐにまさかね、と思い直す。
その間も花冠を編む手は止まらない。無意識に編んでいたらしく、先ほどハルシオンが見た時よりも幾分か進んでいた。
メゾとの思い出がぽろぽろと出てくる。
――メゾは私の知らないことを何でも教えてくれた。外の世界の話、今までの護衛の話。
そういえば、ひとつだけ教えてあげられたことがあったっけ。と、ふとかつての会話を思い出す。
――あれは確か、ブドウの種のこと。
『……あの、今更なんだけどさ。ハルシオン、ブドウの種を食べたって言ってたよな。種って、なんだ?』
『メゾでも知らないんだ……。私も、今回のことが起きるまで、種なんて存在自体知らなかった。……アメトリンのしずくが特別なんじゃないんだね。』
『なんか、昔はあったとかって聞いたことはあるような気はするんだけど……』
『種っていうのは、その、設計図みたいなものなんだって。そこに組み立て方が全部載っていて、栄養とか温度とか、条件を満たせば勝手に作り上げてくれる、みたいな……。』
『そんなすごいものがあるのか!?』
『それを、学者の人は遺伝子って言ったりもするみたい。』
『よく知ってるな』
『調べたから』
最後に得意げに言ったのは蛇足だったかも、とハルシオンはかつての会話にくすりと笑った。
――メゾに何かを教えられるのが嬉しかったっけなあ。恥ずかしいくらい誇らしげに話しちゃったっけ。
胸に一抹の照れくささがよぎるも、胸を満たすのは幸せなぬくもり。
――メゾに会いたいな……。
目を瞑り、きゅっと花冠を握る。花を潰さないように優しく。
――メゾが側にいないだけで、こんなに心細いなんて。
――早くメゾのところに戻りたい。
――でも、私はまだ帰れない。だって、”彼”に会って話を付けなきゃ、何も変わらないから。
ルーチェとの話が脳裏に蘇る。ハルシオンは再度花冠を ぎゅっと握った。今度は力強く。
ハルシオンは瞑っていた目を開けた。目に力を込めて、空を睨むようにして。
そしてまた、花冠を編み始めた。
「精が出るね」
唐突に、頭の上から声が降り注いで来た。
女の子より低いその声は、ハルシオンがある意味ずっと待ち焦がれていたもの。
花冠の端と端を繋げて一つの輪っかにして、ハルシオンは今完成させた花冠を置いた。そして彼のことを見上げる。
「久しぶり。亡霊さん。」
「やあ、ハルシオン。お帰り。」
そこにいたのは亡霊を名乗る少年だった。
あの時と変わらない笑顔で、花冠の輪の外に立っていた。
ハルシオンはまた新しく花冠を編み始める。
高ぶった感情は指先に現れ、編む手を震えさせそうになる。
亡霊の少年に気付かれそうに無い程度に、ハルシオンは深呼吸をする。
花畑で花冠を編む少女。それを見ている少年。
はたから見ればこの光景は、どれだけ牧歌的に見えるだろうか。ハルシオンはそう思わずにいられなかった。
その表面的な空気を壊すだろう言葉。ハルシオンはそれをゆっくりと告げた。
「私、ここに帰って来る直前、妙なことを口走っていたらしいわね。この塔に帰りたい、帰りたいって。」
当然私にその記憶はないけれど。ハルシオンは心の中で付け足した。
「そしてもっと前……この塔を去ってからの私は、とにかく具合が悪かった。眠る時間が増えて、起き上がってられないほどに。」
ハルシオンは切り花が入ったバスケットに手を伸ばした。次はどの花にするか、空中で指をさ迷わせる。
「亡霊さん、あなたの仕業でしょう?」
ふふっ、と、亡霊の少年が笑う。
「さあ、どうだろうね。どうしてそう思うんだい?」
ハルシオンはクロッカスの花を手に取る。そして、花冠にその花を押し当て、茎をくるりと巻きつけて、花冠にクロッカスを結わえる。
「友達が教えてくれたの。あなたが私に取り憑いて、私の生命力を奪ってたって。その様は、まるで悪霊みたいだったらしいわね。」
ルーチェがあの時、ハルシオンに教えてくれたうちの一つのこと。
亡霊の少年が小首を傾げてみせ、呟く。
「相変わらず、亡霊だってことは信じてくれるんだね。」
「厳密にはそうとは言えないかもしれないけどね。……ねえ。私が塔に帰りたいなんて言うと思えないの。こんな生命の水の問題が中途半端な状態で……。あなたが、私にそう言わせたんじゃないの。」
「だとしたら、どうしてすぐにお城に帰らなかったんだい。塔に帰りたいと思ってなかったんならさ。」
「それはあなたと、決着をつけるため」
ハルシオンは編んでいた花冠を膝の上に置いた。そして亡霊の少年をひたと見据え、その名を呼ぶ。
「今回のことで、あなたと話す決心がついたの。”ミゲル”。生命の水じゃなくて、ブドウに姿を変えられてしまった罪人さん。」
亡霊の少年、ミゲルが静かにはにかむ。
「……知ってたの」
「生命の水にされた人のリストが載った本を調べていったからね。そうして、あなたを見つけた。」
また、ハルシオンは花冠に手を伸ばす。
「鍵番の乙女、殺人未遂と書かれたあなたを。」
ミゲルは淡く笑った。朝に差し込む、消えそうな陽だまりのように柔らかく。
ハルシオンは、指を休めないまま、また口を動かした。
「あなたが見えるようになったのも、ブドウを食べてからだものね。」
「だからそうして、花冠を編み続けて来たのかい。」
「ええ。」
前までまでは意味の分からなかっただろう質問。しかし今はその意味がわかった。
これが、ルーチェの教えてくれたもう一つのことだったから。
この塔にはたくさんの亡霊がいる。花冠はここの霊、特に悪霊を退けるものだと彼女は言っていた。だから鍵番の乙女は皆きっと、花冠をしているのだと。
彼女は少し人より霊感があったらしい。最近になってこの塔に表れた異変を彼女は感じ取り、ハルシオンに教えてくれた。
彼女は、自身がこれまで花冠をしなかった理由も教えてくれた。ここにいるのは悪い魂だけでは無い。苦しみ助けを求める魂もある。そんな魂が近付いて来た時、花冠をしていればはねのけてしまう。それが可哀想でできなかった、と。
だから彼女は人より体力が無かったのか。ハルシオンは、そう思わずにはいられなかった。
このイヤリングは花冠よりは弱いお守りで、せめてこれくらいは付けてくれってヴェール・レースに言われたの、と言い、ルーチェは耳につけていたブルームーンストーンのイヤリングを見せてくれた。
『今までは花冠をつけてこなかったけれども、今この塔にはびこっている魂は危険すぎる。そしてそれは、ハルシオンの名を呼んでいる。だからハルシオン。気をつけて……。』
ルーチェは今まで、自分の霊感を隠していた。それを明らかにしてまで、彼女は自分に迫る危機を教えてくれた。ハルシオンはそう思った。
そして……。
「何故、霊がこんなにいるのかというと。」
ハルシオンの考えていることに呼応するかのように、ミゲルが言葉を発する。
ぱっとハルシオンは顔を上げる。ミゲルは、目を細めて笑っていた。
そして、その続きを口にする。
「生命の水に変えられた人は、体を無くしても魂だけはそこに残っているから。それはまるで、亡霊のように。」
それは初めて聞いた時、ハルシオンにとってあまりにショックな事実だった。
彼ら彼女らは死してなお、自由になれず苦しめられているのか。そのショックはハルシオンを、ひとつの決意に繋げた。
――やっぱり生命の水は、人間から作ってはいけない。真正の鍵番として無から作れるようになるか、それか。
――生命の水は廃止するか。
その話をしてくれたルーチェは、生命の水について知っているわけでは無さそうだった。ただ、体のない魂たちと生命の水の関係性を、なんとなく肌で感じ取っているといった具合だった。
「ハルシオン。」
ミゲルが名前を呼んでくる。なぁに、と返事をする。
「花冠の側じゃ、僕、居心地悪いよ。ね、出て来て?」
にこりと笑ってそう言うミゲルの顔は、とても無邪気に笑って見せているように、見えた。