第一章 シンクレア戦記 1
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「もう少し、もう少しだけ時間が欲しい。あと少しで新たな術式が形になるんです。そうすれば、賢天評議会も枢密院も納得してくれる」
市内の一等地に建つ豪邸で、モリスは電話の応対をしていた。相手は同市内にあるアルビオン領事館の領事であるが、彼はひどく狼狽した様子で釈明していた。
『ですがね、エルドラン卿……私も伝えて欲しいと言われているだけでして。あなたが召喚状にも応じないものだから、こうしてご連絡を差し上げた次第です。評議会はとにかく一度帰国せよとのこと。なに、危惧されているような事にはなりませんよ。あなたの魔術はアルビオンにとって有益なものだ。みんな理解していますよ』
見え透いた嘘だ。自分には関係ないと思って口先ばかりの世辞で濁そうとしている。
「それは……いや、待ってください。必ずや今年、いや半年です。半年くだされば、私の賢天の秘奥は次のステップに進める。あと半年。本国にそうお伝えください」
『……まあ私は構いませんがね。ただ、本国の催促に辟易しているくらいです。それでは』
電話が切られると、どっと疲れが押し寄せてきた。受話器を戻して大きなため息をつく。
鬱屈とした顔を擡げ、重い足取りで自室に向おうとすると、ちょうど妻のミコットとすれ違った。彼女はよそ行きのドレスに、自分が見たことのない豪奢な毛皮の外套を羽織り、えらく粧し込んでいた。
「ミコット、どこへ行くんだい?」
「街へいくの」
「ここのところ毎日じゃないか。またリースのことを放って――」
「わたしは子育て機械じゃない。たまにはあなたが面倒をみたらどうなの? いつも家に居るくせに魔術ばかりでろくに相手をしないじゃない。まあいいわ。夕食までには戻るつもりです。でも遅れるようなら先に済ませてしまって構いません」
やけに険のあるある口調で捲し立てると、彼女は冷めた態度で出て行ってしまう。妻の突き放すような冷淡さに、心臓に棘が刺さったかのような痛みを覚える。何故こんなにも夫婦間が冷え込んでしまったのか。いつから彼女は、自分の名前を呼ばなくなったのか。今ではもうわからない。
気苦労に歪む顔の皺を揉み解し、胡乱な目をしたまま廊下を歩いていると、角から女給たちの声が聞こえて足を止める。彼女たちは立ち話に興じているようだ。
「ねぇ知ってる? 旦那さま、賢天から降ろされそうなんですって。この間ね、アルビオンまで仕事で出向いていた彼から聞いたの」
「えッ? それ本当だったの?」
「ええ、アルビオンの新聞に出てたそうよ。賢天の魔術師は元々一二枠しか用意されてないらしいの。でも二年前に賢天になられたシンクレアさまで一三人目だったの。だから一人削らなくちゃならないんですって」
「一人くらい余分に抱えたからなんだってのよ。別に良いじゃないけち臭い」
「なんでも、賢天に相当なお金が掛かってるらしいわ。ほら、ここお給料良いでしょ? でもそのせいで万年戦争している政府が金策に走ったんですって。それで標的にされてるのが旦那さまってわけ」
「だから最近機嫌が悪かったのね。そりゃ奥様も家に居たくないはずよ」
「そうそう。だからね、次の勤め先は早く捜しておいた方が良いわよ」
「なによその他人事みたいな言い方」
「だってわたしはほら、もう永久就職決まってるから」
「うわぁ、嫌味ぃ」
弾けるように哄笑を響かせた二人が通り過ぎ、モリスは物陰に隠れてやり過ごした。
なぜ家長たる自分が、主人であるはずの自分がこんな真似をしている。なぜ使用人風情に気を使わなくてはならない。揶揄されたことに怒り、張り倒した上で叱責してやればいいじゃないか。いますぐにでも望みどおり解雇してやれ。自分はそれが出来る立場だ。
だというのに、怒りよりも先に胸の痛みに襲われた。激しい動悸のせいで息が出来ない。
急き立てられるように自室へと駆け込み、机にしだれかかった。
「くそッ……くそ――」胸元を握り締めて歯を喰いしばり、苦しみに耐える。
妻や使用人、そして本国の政府が自分を責めてているような錯覚に囚われる。輪をかけて辛いのは、その責め苦に抗えないことだ。脳が焼け焦げてしまいそうなほど悔しくて、手元にあった書きかけの術式理論を握りつぶし、乱雑に破り捨てた。
すると扉がノックされ「旦那様、お客様がお見えになりました」執事のゴルドーだ。
すぐには答えず、深呼吸をして息を整えてから平静を装い「誰だ」と尋ねた。
「オボロ様です」
その名を聞いた途端に胸の痛みが引いていく。
すぐに通すようゴルドーに言いつけると、間もなくオボロが姿を現した。彼がやって来てくれたことが嬉しくて、凝り固まった顔の筋肉も弛緩し、自然と笑みが浮かぶ。
オボロはいつもと変わらない身なりだった。漆黒のローブを纏いフードを目深に被った怪しげな風貌は、古典的な魔術師像そのものだ。彼の青白い口元が、今週分の薬が調合できたことを告げてくるが、そんな事は重要ではない。
「さあ入ってくれ」と招き入れた。
オボロは自分の担当医でもあるこの町の魔術師だった。心労が絶えず体調を崩していた自分の為に霊薬を調合してくれているが、同時に相談に乗ってくれる良き友人でもある。
この世界の全てが自分を蔑んでいるかのような錯覚に見舞われる日々にあって、彼にだけは心を開くことが出来た。一向に進まない研究のことを打ち明け、今日も催促の電話が掛かってきたことを打ち明ける。
「このままでは何れ賢天の座を追われることになる。そうなればもうおしまいだ。全てを失ってしまう。使用人にすら陰口を叩かれているんだ。もしこれが本国であれば、新聞や学会の声を四六時中聞かされて……私はもう、耐え切れなかっただろう……」
「私は君の魔術を評価しているよ。評議会の見る目が無いだけさ」
オボロからの励ましの言葉を嬉しく思う一方、それが気休めにしかならない事実が覆いかぶさる。その重みで腰が曲がり、鬱屈と歳を重ねる思いだ。この苦しみから逃れたくて、さっそくオボロから渡された薬を服用した。
「あまり霊薬に頼ってはいけない」彼は窘めるが、ここは明確に拒絶しておく。
「学会では、私の魔術は先のない魔術だと囁かれている。今のままでは国際魔術師条約に抵触する方策しか思いつかない。そうなれば結局、賢天を追われることになる。もうどうしたらいいのか……時間ばかりが過ぎていってしまうんだ」
「高みを目指しながら深淵を求める――というのが、国に仕える大魔術師のあり方です。地位が無ければ真理を探る環境が手に入らず、深淵を探れば地位が崩れる。この矛盾の中で生きていくのは大変な苦労だ」
「ああ、ああ」そんな風に言ってくれるのは君だけだ、と心遣いに感謝して目を伏せる。霊薬のお陰か、いくらか心に平穏が訪れていた。
「大丈夫、うまくいくさ。君の実力は私が一番よく理解している。だが――わが友の窮地だ。助力は惜しまんよ」
そう言うとオボロは持参していた鞄から大判の封筒と、古めかしい羊皮紙の束を取り出してこちらに寄越した。
「わが祖父の研究だ。完成を間近にこの世を去り、父もこれを引き継いだが複雑すぎて断念してしまった。私も目を通したが、難解な暗号が散りばめられていてろくに読むことすら出来ない。だが君ならば――『賢天の魔術師』ならば、何であるのかわかるはず。祖父の話が本当ならば、賢天の秘奥に近づくほどの秘儀とはならないだろう。だが、すこしでも君にとって刺激になれば幸いだ。試してみる価値はあると思う」
そのように意味深に告げられては、嫌でも目の前の資料に興味が湧いてくる。
藁にも縋りたいという実情も確かにある。もしかするとこれが起爆剤になりうるのではないか。海の物とも山の物ともつかないが、閉塞感に見舞われた現状の打破するための突破口を見つけ出せるかもしれない。
なによりも、かけがえのない友人からの提案だ。
モリスは淡い期待を胸に抱いて、古い文献を紐解いていった――。