序章1
アルトロモンド
昔は、主人公が好きだった。
でも今は、敵役に思いを寄せている。
これは社会への反発であり、抑圧ゆえの反動だ――。
主人公というのは、大衆を引受ける人心の受け皿として機能せざる負えない立場にある。感情を移入させるための器でなければならず、故に大多数にとってなじみ深い、手触りの良い大器でなければならない。しかしそれというのは、主人公は『こうあらねばならない』という多くのしがらみ、『掟』に拘束されていることの証左ではないだろうか。だがその制限下で勝利や栄光を掴み取るのだからこそ、万雷の喝采を受けるに相応しい役所であるとも言える。
ところが、自分にとってはその拘束が我慢ならない。
とは言えあらゆる制約をぶっちぎり、悪行三昧の覇道を歩み、札束の浴槽で沐浴に興じて私利私欲の限りを尽くしたい――というのでも無い。共同体に生きているのだから、それなりの常識は大事だと思うし、自ら進んで人に嫌われる事をする気にもならない。そんな事をすれば居場所を追われてしまうのは必定で、自分はそんな愚か者ではないのだ。
極悪人というほどでは無いけれど、決して英雄のように格好良く決まらない。
聖人ほども善人では無いけれど、道義を全てかなぐり捨てることも出来ない。
欲望のままに社会の規律を蹂躙するつもりも無いけれど、ズルをすることは偶にある。
悪い事だと自覚があっても、『自分ルール』でちょっと自分を甘やかす。
免罪符にはならないけれど、締めるところで締めればそれで良い――そう言って、もうちょっと自分を甘やかす。
素直になれない敵役。
私の人生が辿る足跡の先は『シンクレア』がいる。主役のバーニィではない。
好き勝手の報いはその都度あるけれど、世俗に迎合せず、自分の道義に従い生きていく。自分の心に耳を傾け、生きていく――そういう彼女の姿に憬れて、この星に魂の芯を突き立てる彼女に憧れて、私の腹の虫はそれを好いたのである。
ものの数分で殴り書きした紙をヒラリと取り上げ、仕事中のケメットに見せつける。
「雑誌に寄稿するんだけどこんなもんでどう? あたしの人生観、哲学を表わしているわ」
「――つまり大佐は……小悪党ですニャ?」
「チャーミングな敵役! 言い方があるでしょ!」
まったく、このシンクレアに向って失礼千万な獣伍長である。
序章
1
東の山々から太陽が顔を出したばかりの早朝。
身も心も引き締まるようなひんやりとした空気に、大地が覚醒する事を拒んむかのように身じろいでいた。山麓に溜った靄は、朝の到来に気付いてそろそろと歩き始める。
夜露に濡れた草木がひっそりと目を覚まし、民家の庭先にあるブナの枝葉に小鳥が留り、滴が散り落ちる。囀りがして、パラパラと水が葉を打つ。裏手からは小川からのせせらぎ。草原の奥に広がる森の木々たちも大きく伸びをして、ゆっくりとした胎動をみせている。
朝日に包み込まれて世界が動き出そうとしていた。だがまだ世界が目覚めきっていないその時間だけ、生命の息吹を感じられるという話。命の形を誰でも見ることが出来ると。
新たな一日を始めるため、活力を解き放つ数瞬前の静謐。
闇夜の「静」もなく、陽光の「活」もない。「穏」が世界に行き渡るとき――古き良き魔術師たちの言葉を借りるならば、それは『空白の時間』というらしい。
クルヨ… クルヨ… クルヨ…
精霊の残滓が活動の気を察知して囁きあっていた。
ドーレスピーニャの町外れ。丘の街道沿いにある一軒家からトン、トトトッ、と元気に飛び跳ねる小気味良い足音が響いた直後、民家の扉が大きな音を立てて開け放たれる。
「見えたニャ!」
蹴破らん勢いで扉を開いたのはこの家の従者であるケメットだった。彼女は大きな猫の様な耳を頭に立て、これまた猫のような尻尾を臀部の少し上から生やした半獣人。女主人から宛がわれた少年のような中性的なお仕着せに身を包む彼女は、大きな空色の瞳を見開いて目の前に広がる何でもない庭先を凝視していた。
今の今までそこにあった筈の生命の気配は突如として消え去ってしまったが、扉を開けた瞬間に見えたような気がした。宙空へ溶けるように消え去った虫のような、魚のような、鳥? と見せかけてもしかするとアザラシのようだった何か。その得たいの知れない生き物が宙に沢山浮いている光景。彼女は「見えたニャ?」と確信を揺るがされながら唸り、「やはりアレは『トンボ』だニャ」という百人中百人が否定する解答に辿り着く。
あれが生命の形。精霊から生み出されたマナが光を通じて見せる姿。
「今日はこの位で勘弁してやる。また明日だニャ」
この刹那の時間に行なわれる隠れんぼは、今のところケメットの勝ち越しであったが、やはりよく見えないので終わりも見えない。だからその都度マナの形は勝負を申し込まれ続けている。彼女にとっては、最近の密かな楽しみでもあった。
白い息を立たせてしばらく庭の前で立っていると、東の街道から荷馬車がやってくる。荷を牽く荷馬車がカランカランと鈴を鳴らし、沢山の積荷と二人の男を載せていた。積荷は町に卸す絞りたての牛乳だ。ブリキ製の牛乳缶が幾つも荷台に並んでいる。彼らはこの街道沿いにある牧場の下男。人間で若者のカインと、もう一人は妖精種でゴブリンのコルボットと言う。一月前にここへ越して以来、毎朝顔を合わせている顔なじみの連中だった。
「やあケメット、今日も早いな。勝負には勝ったのかい?」家の前で馬車を止めてカインが視線を彷徨わせながらも、努めて気さくに声を掛けてきた。
「当たり前だニャ。ウチがトンボなんかに遅れを取るわけがない」
「毎度のことだが、トンボだなんだと何の話なんだか。ほらよ、今日の分」
興味がない風を醸しながら、人間の腰ほどしかない背丈のコルボットが牛乳缶の上に載せられている籠を引き寄せ、コルク栓がされた牛乳瓶を取り出して放ってきた。
牛乳を落っことさないようにバランスを崩しながら受け取ると、こちらも意趣返しとばかりに硬貨を放り投げてやる。
「もっと丁寧に渡したらどうニャ! ウチはお得意様ですのに!」
憤慨を露わに声を上げるも、二人は意に介した様子もなく二、三軽口を叩いて町の方へと向って行った。ムッツリと不満を胃の中で撹拌しながら二人の背中を見据え、文字通りの聞き耳を立ててやった。軽く三〇リームは離れた彼らの会話が微かに聞こえてきた。
『はぁ、なぁコル見たか? 癖毛だけどあの太陽みたいにキラキラした金髪。パッチリした青い眼。それに野性的な腰つきとしなやかな脚。ありゃあいけない。もうたまんないね』
『毎朝見てるだろ。そんなに気になるならさっさとデートにでも誘ったらいいんだ』
『ばっか。出来るかよ。あの家の主人はシンクレアだぞ。畏れ多いってもんさ』
『ケメットは半獣人じゃないか。ただの愛玩動物だ。半獣人の雌なんか娼館にいくらでも居るし、あのレベルだってザラに居る。毎日毎日会う度そんな風になるんなら、別の女の尻を追っかけた方が楽だろ。それに俺には理解出来ないね。サシャの方が何倍も美人さ』
『サシャってアレか……女ゴブリンの? ああ――それこそ理解出来ない』
好き放題言ってくれた上になんとまあ朝から下品な会話だろう。
「ふんッ」雄は馬鹿ばかりだ、冷ややかな視線を送りつけてから鼻息荒く踵を返した。
するといつの間にか煙突から煙が上がっているのに気付いて、家主が起きた事を知る。朝食の支度を始めなければと思いつつ、再び足を止めてしまった。
朝の青々とした空に黒い影が散らばっていたからだ。
《ナーニー……》
奇っ怪な鳴き声が地上に降り注ぐ。大きく間延びしたその声は、空に浮かぶ大きな影からもたらされている。アザラシの身体をそのまま巨大化させたような容姿。鯨の胸びれやアザラシの前足の位置には、それらを遙かに凌ぐヒレのような翼。顔はワニのように突き出た形で、くりくりと愛らしい瞳の黒点が収まっている。そして、巨大生物の腹部には人工物である鋼鉄の船体が取り付けられていた。
大型飛竜種のゼレベントだ。
船体に描かれた赤竜の紋章がアルビオン王国の物である事を示し、後方でなびく旗には剣と盾を持った赤兎竜が描かれている。これはアルビオン軍に所属している軍用ゼレベントだ。二〇騎近い大型飛竜の大編隊が暁の空を覆い、大海原を行くクジラたちのように東の方角へと飛び去っていく。
「また戦争が始まる」
まるで未亡人のような雰囲気をだして呟くと、再びあの間抜けな声が大気を震わせる。
《ナーニー……》
「ナニじゃないニャ。お国のためにしっかり働いてくるニャ」
ウチは忙しい、とケメットは特に彼らの目的に拘泥することなく小走りで家の中へと駆け込んでいった。
アルビオンにあっては、戦争なぞいつものことであった。