第十三話「魔狼の戯れ」
「魔狼!」
恐狼を遥かに超える巨躯は蒼火を纏い、顎門からは凍てつく冷気が吐かれ、獲物を見据える獣眼は血の如き緋色。闇夜に深紅の眼だけが浮きあがると、幾十もの飢狼が洞窟に向けて殺到する。
レギオンの左眼は、襲いくる狼の群れを紫色の光源として捉え、矢継ぎ早に矢筒を空けていく。闇夜に紛れて飛来するエルフ矢を躱すことなどできるはずもない。狼の群れは洞窟にたどり着くこともなく射ち退かれ、十七もの屍を野に晒す。
『おまえたち。下がりなさいな』
のっそりと闇から生まれ、焚き火の明かりに照らしだされる魔狼。巨大な体躯を揺さぶり息を吐くや刹那に草や木が凍りつく。
『今夜の獲物はなにかしら? あらあら、袋のねずみの人族ね。あたし、鹿とか熊とかもう飽き飽き。たまに渓谷から出て人でも食べないと毛並みが悪くなるのよ。でも、この前のはドワーフだったかしら?』
レギオンは首を傾げる魔狼の急所に、迷わず渾身の一矢を放つ。躱す素振りはなく、狙い違わず突き刺さったはずの矢は、冬の枯れ枝のように力なく落ちた。
『せっかちな殿方ね。淑女の戯言に付き合うのも紳士の嗜みよ。ふふっ、あたし好みの色男なのに残念ね。あら? そのお腰の得物。どこかで見たわ。そうそう! ドワーフを食べた時、食べ残した掌に握ってた剣ね。あたし、並みの武具じゃ怪我しないのよ。でもね、魔力を帯びたものには傷つけられるの。そのドワーフ、憎らしいことに、あたしの美しい肌に傷をつけたのよ。だから、生きたまま引きちぎって、はらわたを引きずり出してあげたわ。どう? この気持ちわかって?』
(このおしゃべり魔狼。俺を嬲り殺す気だ)
レギオンは、魔狼にかまわず雷電を抜き放つ。魔狼というものはいないと思っていた。幼き頃、母親に添い寝してもらうときに聞かせてくれた昔語りに出てきて、早く寝ないと恐ろしい魔狼が食べに来ると、よく脅かされたものだ。まさか、本当に食べにくるとは思うまい。
『あらあら、あなたもそうなの? 勇敢なのね。大概の獲物は逃げ出すのに面白くないわ。必死に逃げ惑う姿を愛でながら、ちょっとづつ齧ってあげて、断末魔の苦しみを喰らうのがあたしの至福なの。ふふっ、あなたも良くって?』
魔狼の凄まじい殺気に気圧されながらも、なんとか耐えるレギオン。悠々と間合いを詰める魔狼の喉元に剣先を向けて、然の構え。喩えようもない緊張に五体からは冷汗が噴きだし流れ落ちる。
「レギオン。外はどうなっておるんじゃ?」
刹那のことだった。
髭戦士に気が逸れ、瞬く間に巨躯の魔狼が消え失せた。うなじが総毛立ち身に迫る危険を報せている。振り向く暇もなく魔剣を閃かせ飛び退るレギオン。眸の隅には頭上から、蒼火たなびき唸りをあげる鉤爪と、受け流す雷電が火花を散らす。
『あらら、やりますのね。左眼を潰したと思ったのに。あら、やだ! 爪が欠けちゃったじゃない。これだから魔力を帯びた刃はいやなのよ。生え揃うまでみっともないじゃない。どうしようかしら? あきらめる? ううん。もう少しだもの。あの男の逞しい胸板に牙を突きたて生温かい血潮を啜るの。うふふっ、あたし、あなたがこと切れるまで、優しく子守唄を聞かせてあげる。ねえ、素敵じゃなくって?』
レギオンは苦痛に顔をしかめると、砕かれた長弓を手放す。魔狼の掌はひとつだけではない。軽く撫でられた革鎧は易々と切り裂かれ、胸と腹には幾筋の裂傷が刻まれ血が零れる。驚くことに、右篭手のクロム鋼すら裂けているのだ。
絶望的な力の差に慄然とするレギオン。
未だ勝機が見えない。
魔狼は舌なめずりすると凍てつく息が漏れ、点々と地を凍らせる。緋色の獣眼がレギオンに粘く絡みつき逃すことはなく、愉悦に歪む顎門からは湧きでる涎が惨忍な牙につたい糸をひいた。
絶体絶命。
魔剣を地に構えると最後のときを待つ。
(刺し違えるしかない)
覚悟を決めたレギオンに、遠くから福音がこだまする。
それは狼らしき遠吠えだ。
『あん、もうっ。いいところなのに。どうしようかしら? あきらめる? そう、あの子が呼んでいるもの。でも、もったいないわね。少しくらい齧っても良いかしら? だめよ急がないと。仕方ないわ』
くるりと尾を振り、名残惜しそうに流し目をおくると、魔狼は生き残りの手勢を引き連れ闇夜に溶け込んでいった。その場に崩れるレギオン。緊張の糸が断たれ両膝を地につける。
「レギオンさ~ん」
「おぬし無事か? ぬう、狼どもが去っていくわい」
「にっ、荷馬車を出すんだ! ここを一刻も早く立ち去らないと」
怯える雑貨商と駄馬の尻を叩くと、血を滴らせ闇雲に突き進む。幸いにもドワーフは星ひとつない闇夜でも夜目が利く。レギオンは必死だった。再び追い縋られたら助かる術はない。
駄馬の口から泡が飛ぶが、かまわず鞭をくれて無理やりにでも走らせる。可哀相だが潰れたら捨て置くつもりだ。ベルタランには悪いが、駄馬や武防具は見捨てても、逃げ延びることができれば再起は叶う。
幾許の時を彷徨ったのであろう。黎明が近くなり山間を抜けてなだらかな草原にたどり着く。木々も疎らになり、遠く向こうに道らしきものも見受けられる。
朦朧とする意識を平手で打ち、はたと振り返るレギオン。ほうほうの体で脱け出した谷間に、巨躯の魔狼が静かに佇む。蒼白な面持ちのまま立ち竦むレギオン。各々、怪訝そうに振り返るが魔狼を見いだすとその場に凍りつく。獲物を取り逃がしたのが悔やまれるのか、名残惜しそうに遠吠えを漏らし地を鉤爪で毟ると、くるりと尾を振り木立ちに消えた。
「危なかった……少しでも気を緩めていたら、貪られていた」
「わしゃ、肝が冷えたわい。生きた心地がせなんだ」
「ぼくも! だって、今も膝が震えてるもん」
「よかった! 僕の財産が無事で。駄馬も持ちそうだし。おっ、魔狼の情報も売れるかも? レギオンさん、さっきの魔物のこと詳しく教えて下さい。魔物見聞録を書いて売りましょう」
雑貨商ベルタラン。
争いごとにはてんで駄目だが、災いを商いに転じるとは見上げた商人魂である。髭戦士と小粒わな師、そしてレギオンは顔を見合わせ握手を交わすと、生き延びれた喜びとお互いの健闘を讃え合うのであった。
半月形の堀を穏やかなラズナ河からの流水で満たし、大鬼の背を越すほどの防塁を設けた堅固な護りの商町イシュルマルド。幾つもの物見櫓が防塁に設けられ、警邏の兵が油断なく辺りの動向を探っている。この町から北と東に街道が延び、船着場から対岸に渡ると西にも街道が続いている。街道を行き交う人々や荷馬車は絶えることがなく、雑貨商一行はあまりに多い人々の流れに唖然とするばかりであった。
「とりあえず町に行きましょう。僕について来てください。関門を通らないと入れないんですよ」
「わかった」「は~い」「ふん」
レギオンの手傷は手当てすることもなく血は止まっていたが、引き裂かれた革鎧から覗く爪痕はさすがに目立つ。通りすがりに振り返る者もいれば、口に手を添え小さな悲鳴をあげるご婦人もいるので、手早く手続きなどは済ませたいところだ。
「ここへの用向きは? どこから来た? 連れは何人だ? 荷物はなんだ? この男はどうしたんだ?」
「商いです。連れ谷です。僕を含め四人です。売り物の武防具です。魔獣に襲われました」
「ようこそ、イシュルマルドへ」
淀みなく受け答えする雑貨商に番兵も不審がることもなく、荷馬車の武防具も禁制に触れないのだろう、すんなりと関門を抜けることができた。手傷に気遣いをするでもなく単なる好奇心だったのだろう、番兵たちは興味を失ったかのように、次の来訪者の対応に追われている。
「お疲れ様でした。護衛の依頼はひとまず終わりです。これから皆さんどうするおつもりですか?」
「わしゃ、屋台で一杯やっとくわい」
「ぼくは、何となく町が見たかっただけで~す。レギオンさんは換金に?」
「あぁ、金にしないとな。それと、これをどうにかしないと目立つ」
「じゃあ、僕は出店の手続きに行きますから。日が暮れたらそこの屋台に集まりましょう」
「わかった」
「は~い。それまでレギオンさんにくっついて行きます。オーインさんは飲んでばかりだし~」
雇い主のベルタランから幾枚か金貨を受け取ると、スープを伴に同職協会を訪ねて歩く。町は大きく三つの区に分かれており、町を貫く大通りが三叉する辺りにどうやら建っているらしい。大通りには多くの出店が並び、連れ谷の里とは比べものにならないほど品々が溢れている。レギオンもスープも物珍しくゆっくり見て回りたかったが、懐には僅かな金しかない。まずは魔晶石などを買い取ってもらい、みすぼらしくなった身なりを整えないといけない。
町ゆく人に教えられた通り訪ねると、狩猟者協会と看板が掲げられている。窓口には若く身なりのよい女性が座り、戦士風の人族となにやら話しこんでいるようだ。レギオンは列の後ろにつくと、前に待つ者たちが持ち込もうとしているものを見させてもらう。魔物のものと思われる角や牙、毛皮に鱗、甲羅や翼もあり、見たこともない狩猟物もあった。そして、彩り豊かな魔晶石の数々。
「今日が初めてですか? じゃあ、お隣の窓口で説明を受けてください。はい、次の人」
答える間もなく隣に追いやられると、さらに気位が高そうな女性が面倒臭そうに口を開く。おそらく、日が昇ってから翳るまで同じことの繰り返しなのだろう。抑揚なく重要でもない説明を延々と聞きながして、欠伸をかみ殺す。要は、必要なものはギルドの相場で買い取るが、要らないものや相場にけちをつけるなら買い取りませんと言うことらしい。
「以上。理解できました? 難しくありませんでしたか?」
「あぁ、わかった。じゃ、早速これを換金してくれ」
「えっ、私がですか?」
「君のような聡明で素敵な女性がしないのなら誰がするんだ?」
「そっ、そうですよね! 私しかいないと思います。少々お待ち下さい」
もう一度並ばされては堪らない。煽てつつ畳みかけると、魔法鞄から二百を優に超える魔晶石と剥ぎ取った毛皮の数々、中身がわからない幾つかの硝子瓶と、売り忘れた小鬼の武具類をどっかと買取台に積み重ねる。慌てる受付嬢には眼もくれず、目を丸くする小粒わな師に屈みこむ。
「これからなにをしたいんだスープ。猟師か?」
「う~ん。親もとを離れてみたけど途方に暮れてたんだ。あ~レギオンさんと一緒かなぁ」
「聞いてくれスープ。俺は魔物を狩り、金を稼ぎながら自分の居場所を捜すつもりだ。まあ、捜し回って見つけたのが、生まれ育った連れ谷だってこともあるが。唯、このつかの間の旅で痛感したことがある。ひとりで長旅は到底無理だ。俺の背を預けられる仲間が必要なんだ」
「戦士スープ。俺と供に戦う従者として来ないか? おまえが必要なんだ」
「うん! ぼくはレギオンさんの従者になるよ! 面白そうだもの!」
恭しく片膝をつくスープに、レギオンは手をさしのべ固く握手を交わす。これからの旅路に頼もしい仲間を加えることができた。腕を引き立たせると、周りからは疎らな拍手が降ってくる。
「お取り込み中すみません。査定が終わりましたので金額を確認して下さい。それから、硝子瓶の水薬と武具はここでは買取できません。悪しからず」
水を差された感じだが、気をとり直して受付嬢に向きなおる。硝子瓶と子鬼の武具を魔法鞄にしまい、ぎっしりと金貨が詰められた幾つもの皮袋を受けとるのであった。




