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Trust  作者: 郡 晴翔
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―紫と恋心―

「これで、後は宜しくお願い致します」

ふと声をかけられてカーテンを元に戻すと、目の前にいる黒いスーツを着こなした男が、何とも言えない不気味な笑みを浮かべながら一枚の紙を差し出してきた。体も、目の形も細い。まるで狐と話をしているみたいだ。

この紙切れ一枚で、また人が消える。この男は、それを喜んでいるのか。

もう一度、厚いカーテンをそっと開けた。

もう使われていない廃墟同然のこの建物は、“廃墟”となってまだ日が浅いらしい。住むのに必要な家具や照明が残されていて、使わないのが勿体ないくらいだ。ただ、やはり照明はその機能を失っていて、この場所を使うには燃えそうなものを集めて最低限の光を作るしかなかった。

薄暗い部屋から外に目を向けると、欠けた月が周りの雲を照らしているのが見えた。さっきよりも随分高いところにある。胸ポケットにしまってあった懐中時計で時間を確認した。

ああ、もうこんな時間なのか。

外よりここは明るいけれど、外に広がる夜より暗く感じるのはどうしてだろう。

差し出された紙切れを受け取って上着のポケットに押し込むと、男がまた何かを差し出した。

「これが、招待状になります」

「わかった」

欲に取りつかれた下衆め。心の中でそう思いながら、同時に自分を激しく非難するのを忘れなかった。それに荷担している自分は、目の前のこいつよりも“悪”だと思うから。

時々思う。この男にとって俺はどう映っているんだろう、と。聞きたくはない。


“招待状”の内容を確認し、紙切れ同様、適当にポケットにしまった。

必要な情報は時間と場所だけ。



九月二十一日 午後九時 ホテル・アルダートン。

紙に書かれた奴が死ぬのは、その一時間後。

男は笑みを浮かべたまま、俺に軽く会釈して部屋を出て行った。

部屋のドアが閉まる音を聞いて、何故か少し落ち着いた。もう少しここにいよう。

別に、緊張とか、落ち着いてなかったわけじゃないけれど。


外の夜闇に目を向けた。

もう遅い時間だというのに、一般人は夜という時間を楽しんでいる。楽しそうな、嬉しそうな笑顔が、ちらちら目に入った。



そっか。

だから、暗く感じたんだ。



椅子の上で両足を抱え、額を膝に付けて小さくなった。

「嫌だ」

つい、口に出してしまった。

さっきの男、不気味に笑ったあの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。




—— 1 ——


眩しさを感じて、朝がきたとわかった。

窓から見える外の景色が、自室から見えるものとは違う。

体が重い。

いつもならすぐに起き上がるところだが、今日はそうはいかなかった。それで初めて、昨日の授業で怪我をしたことを思い出した。

昨日は講義ではなく訓練授業だった。現実の任務を想定しての戦闘訓練。ようは四、五人を相手に、いつまで戦っていられるか、たしかそういう持久力を試されるようなやつだった。

そこで俺はしくじったのだ。周りのやつばかりに集中しすぎて、狙撃にまで気が回らなかった。実際ならありうる話だ。おかげで右肩に弾が貫通した。そしてそのまま学内病院の集中治療室行き。そこまでは覚えている。途中で意識がぶっ飛んだのは、たぶん流血したまま狙撃をクリアするまで動いていたから、かな。つまり、貧血。我ながらカッコ悪い倒れ方だ。

足じゃなくて良かったと思ったのはいいが、利き手に上手く力が入らないのが痛い。

今日は…見学だな…。

体が重い上に気が進まない。

今日の授業も昨日の続きで、しかも同じ教員だ。何かと俺にかまってくる。どうもあの教員は苦手だ。きっと俺の肩を打ち抜けと狙撃に命じたのもあいつだろう。

いや、それよりも、どうやってあいつから逃れるかを考えなければ今日を乗り越えられない気がする。相手は一応教員だ。軽くあしらうわけにもいかない。

そんなことをつらつら考えながら、深く深呼吸してベッドから起き上がると、見慣れた顔が横から俺をじぃっと見ていた。

「ジーク…」

「…ウィル…おはよう。今日はずいぶんと早起きじゃないか」

こいつのことだ、きっと昨日の怪我を心配しているんだろう。

目線だけを窓の外に向けると雲一つない秋空が広がっていた。今日も良い天気だ。

「起きて大丈夫なのか?」

ああ、やっぱり。

窓を少し開けると程好く冷たい風が頬をなでて、やや細めの髪を宙に浮かせた。髪、少し伸びたから切らないと。

「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫だよ」

「今日は休め」

「見学させてもらうから大丈夫だって。それに今日休んだら来週のテストに響く」

そうだ、休むわけにはいかない。

色んな意味で、常に有利な立場を維持する為に、休むなんてできない。

しかし、このウィルことウィリアム・マッケンジーという少々心配症な友人をいかに安心させるかが、今日一日のスタートを切れるかどうかの分かれ道となっているらしい。

「お前はいつもそうやって無理ばかりする!成績は十分過ぎるほど良いじゃないか。今は怪我を治す方が先だろう?」

その通りだと思う。でも俺の中では成績維持が最優先なのは決まりきっている。

「確かに。怪我を治してからのほうが勉強も訓練もはかどるしね」

俺は入院患者用のベッドから降りてスリッパを履きながら、普段通りの自分を見せることで元気アピールをした。

「それがわかっているなら、今日は休むべきだ」

心配そうな顔をしたままのウィルを見ると、何だか申し訳ない気持ちになってくる。

「心配してくれるのは嬉しいんだけど、実はさ、…もう大丈夫って言われたんだ」

ごめん、ウィル。嘘ついたの許してくれ。

「嘘をつくな」

うわ。早速バレてる。

「嘘じゃないって。ウィルが来る前にドクターに言われたんだ」

ごめん。これも嘘。

ベッドメイキングを適当に済ませて、ベッド隣の机の上に置いてあった制服に着替えながら、俺は必死にいつもの俺を演出した。

「それに、この間開発された最先端技術で治療したらしくてさ、もう軽い運動ならできるんだよ」

たぶん、これは本当。完全じゃないけど、貫通したはずなのに傷口がもうふさがっている。

疑心暗鬼の顔をして、ウィルが俺の肩に優しく触れた。

「…ふさがっているな」

「これで安心したか?」

頼む。安心してくれ。

「しょうがない。その代り、無理はするなよ」

「わかってるよ」

よし、これで一日のスタートを切れる。

黒い生地に金の刺しゅうが施された制服に着替え終わると、ウィルが何かを差し出してきた。

「ほら、忘れているよ」

ウィルの掌に、黒く光る小さなものが乗っていた。階級別のバッジだ。中央にイーグルと二本の剣の絵が刻まれている。軽く礼を言って、俺はそれを受け取り襟元に付けた。これで準備は完璧だ。

「さて、いくか」

「ああ」

入院患者用の個室を出て、俺たちは一緒に訓練場へと歩き出した。

途中、ウィルが昨日の訓練内容を振り返っていた。あの教師の手段を選ばないやり方に腹が立つらしい。落ち着いて話をしているが、若干ピリピリしているのがわかる。それだけ今まで一緒にいた時間が長いんだと思った。訓練場に着くまではあと十分くらいだが、その時間内にウィルの気は済みそうにない。

会話を楽しみながら、俺は違うことを考えていた。さっき自分で言ったことが妙に引っかかっていた。“最先端技術で治療”…。

集中治療室に入ってから起きるまでの間、自分の意識がぶっ飛んでいたから、どんな治療を受けたのかは全くわからない。治療内容は後で聞くにしても、謎だ。いくら最先端技術を駆使したってここまで回復できるとは思えない。体に残っているのが痛みじゃなくただの疲労感だけなんて。どう考えても、普通じゃない。一体…

「おい、ジーク!」

突然ウィル以外から声をかけられて、俺の思考は思わず止まった。

「昨日の怪我は大丈夫なのか?」

いつの間にか訓練場に着いていて、クラスの友人たちが俺とウィルの周りを囲んでいた。

「ああ。見学だけどだな」

治療について考える時間はない、か。

見慣れた時計を見ると授業開始時刻五分前をきっていた。そろそろあいつが来る。昨日と同じ担当教員。

クラレンス・ミラー教授。



***



いつもの鐘が鳴った。授業開始の嫌な合図。別に勉強が嫌いとか、授業が面倒とか、そういうことじゃない。むしろ勉強は好きな方だし、面倒臭がり屋なわけでもない。ただ、

「やあ。ジークフリート君」

ただこの声を、意味ありげなこの声を聞くのが嫌なだけだ。

授業が始まってすぐ、昨日と同様の訓練が開始された。四、五人相手にいつまで戦っていられるか。というか、相手を倒すのに何分かかるのか、たぶんこの教師はそれを見ているんだろう。俺は見学だけど。

「昨日の大怪我は大丈夫かい?」

「はい。それで、今日の授業は念の為、見学させて頂きたいのですが」

見学だから嫌になるんだ。見学じゃなければこいつの相手をしなくて済む。

「今日は見学、か。昨日の今日だしね」

俺とミラー教授が話をしている横で、クラスの友人たちは日ごろの訓練の成果を発揮していた。必死になっている奴もいれば、余裕な顔で難なくクリアしている奴もいる。

ウィルは後者のようだ。戦いながらこっちをチラチラ見る余裕があるらしい。きっとミラー教授にまた無理難題を押し付けられているんじゃないかとか、考えているんだろうな。本当に心配症だ。

そんなウィルに気付いているのか、ミラー教授の口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。相変わらず、何を考えているのかがわからない。そもそも、こいつがこの学校に赴任してきたのは三週間くらい前だ。そのうち今日を含めて六日しか会っていないのだから、わからないのも仕方のないことなのだが。ただ何となく、きな臭い。見た目や話し方からして、歳は結構若いのだろう。たぶん二十代後半くらいだ。二十代後半で成績上位者の訓練授業担当なんて、普通はあり得ないんじゃないか。こいつに変わる前の担当教員だって、五十代の現役を引退した教師だった…。

「仕方ない。そのかわり、レポート課題をやってもらおうか」

……。

…………。

かなり不意を突かれて、返事のタイミングがずれた。

テーマは「本日の訓練内容について」。楽勝かと思いきや、三十人前後のクラスメイト全員分、それぞれの動きをレポートにしてまとめろということらしい。既に終わって休んでいる奴が四人。提出期限は授業終了後すぐに、だそうだ。この訓練場にパソコンのようなものは無さそうだ。つまり、手書き。虐められているとしか思えない。

俺は早速レポートに取りかかった。ルーズリーフの上に、猛スピードでペンを走らせる。ペンを持つ右手に力が入らないが、そんなことを言っている場合じゃない。

「そういえば、昨日の君の動き」

「はい」

過酷な課題を出しておいてその上邪魔までするのか、と思いながら無表情で返事をした。

「君の動きは、未だ訓練でしか通用しないマニュアル的なものだ。もっと感覚で敵を察知できるようにならなくては。まあ、このクラスでは一、二を争う程の実力なんだがね。まだまだ甘い。油断大敵だよ」

「はい。実践で通用するよう、さらに努力致します」

ミラー教授がにっこりと胡散臭い笑みを浮かべているのを見て、俺は今、心からレポートをやりたいと思った。

手書きでレポートを書くのは初めてだ。授業終わりに提出という課題をクリアするには、クラスメイト一人あたりに費やす時間は……。

「さて、ウィリアム君には何の不意打ちを与えようか」

俺の頭の中が必死になっているすぐ傍で、ミラー教授は余裕で訓練を終えようとしているウィルに目を向けていた。俺に対する狙撃もこんな感じだったのか。

ウィルは訓練メニューの三分の二を既に終えていた。最初は一対二から始まり、今はウィル一人に対して四人で戦っている。もうすぐ五人目に入るところだ。教授の不意打ち担当はたぶん最後の六人目だろう。

最初の二人は若干バテてるのに、ウィルは平気な顔をしている。無駄な体力消耗を避ける為に、動きながら計算しているのか。そういうところ、見習わないとな。今の倍は努力しないとそのうち追い抜かれそうな気がする。

5人目に入った。最初の二人はもう息が上がっていて、ウィルには相手にもされていないかんじだ。三人目は体力自慢の打たれ強いタイプ、四人目はウィルとほぼ互角。五人目は俺と同じレベルのデニスだ。デニスの方がパワーもスピードも勝っているのに、それに引けを取らないウィルは俺にとっては天才だ。

教授が不意打ちをするなら、弱点を狙うはず。ウィルの弱点…あいつに弱点なんかあるのか?

「そうそう、忘れていたよ」

猛スピードで走らせていたペンを止めて、俺は教授の方に体の向きを変えた。

教授は俺の方を向かず、ウィルの訓練を見ながら手で何かのサインを出している。待機している六人目に指示を出しているようだ。

「レポートの最後に君の意見を書いておくようにね。最後に関してはテーマを別にしよう。どんなものが出来上がるのか楽しみにしているよ」

ミラー教授はにこやかで本当に楽しそうだ。俺を振り返ることもなく、六人目に入ったウィルの訓練を見ている。

俺は虐められているのか、遊ばれているのか、段々複雑な気分になってきた。どっちにしても、課題は課題。今日が終われば、次にこの人に会うのは一週間後だ。そう思えば気分も少しは楽になるはず。

追加課題テーマは「狙撃に関する対応策について」。

クラスメイト一人あたりに費やす時間が半減した気がする。その上、右手は怪我で上手く力が入らない。唯一の救いは字数制限がないことだ。


虐められようが遊ばれようが、こんなことで減点をくらってたまるか。



***



「全治一カ月よ」

人気№1看護師のクリスティアナが、何かの書類を見ながら俺を横目に呆れた顔でそう言った。噂でしか聞いたことのない人気№1看護師。確かに美人でスタイルも良い。でも俺の好きなタイプじゃない。と言っても、男子学生しかいないこの学校でタイプ云々とかいうのも意味がないか。

全寮制であるこの学校には、学生専用にしては大きすぎる学内病院が設けられていて、クリスティアナはそこの看護師だ。施設が大きい分、看護師の人数もかなりのものだが、彼らに任される仕事は主に病院の見回りと事務らしい。病院内の人間がどう働いているか、あまりここに来る機会がない俺はクリスティアナの行動や言動から判断するしかなかった。

授業中はレポート課題に追われてそれどころじゃなかったが、朝から疑問に思っていた右肩の治療内容について聞こうと思っていた。それが、どうもこの目の前にいる看護師に聞いても欲しい回答は得られそうにない。

「一体どんな治療したのかしら。最近の技術ってすごいのね」

クリスティアナが俺と書類を交互に見ながら感心している。

「あの、その書類、カルテですか?カルテなら見せて頂きたいのですが」

教授に対するものと同じ口調で丁寧にお願いしてみた。

「これ?これはカルテとは違うわ」

メディカルチェックの為に横になっていた体を起した。

はい、と手渡された書類を受け取って内容を確認すると、俺が負傷している部分と、治療後のメディカルチェックにおけるチェック項目、処方する薬等が書かれているだけだった。看護師にも治療内容は教えないらしい。

「どの患者も、治療内容は公開していないんですか?」

「ええ。治療内容についてはいつもそうなのよ。よく聞かれるんだけど。それに、この病院でカルテを見たことはないの。もし気になるなら、直接ドクターに聞いてみるといいわ」

クリスティアナは俺の治療を担当したドクターの名前を紙に書いて、可愛らしい笑顔とともに渡してくれた。みんなこれにやられたんだな。

「ジーク!」

声のした方を見るとウィルが部屋の入り口付近に立っていた。

「メディカルチェックは終わったから、もう寮に帰って良いわよ」

友人がきて気を遣ってくれたのか、クリスティアナは脚のついた医療器具を移動させながらこの部屋を後にした。

「よかった。ちょうど良く終わっていて」

過酷なレポート課題が終わった後、俺は治療後のメディカルチェックを受けることになっていた。訓練授業の日は午前が授業時間に充てられ、午後はフリーになっている。ウィルは授業の後一旦寮に戻って、俺の検査が終わるのを見計らって来てくれたようだ。

「悪いな。気を遣わせて」

思えば、ウィルにはいつも気を遣ってもらってばかりのような気がする。いつか感謝の気持ちをしっかり伝えたい。

「気にするなよ。それに、この後の予定も一緒だろ?」

困ったような笑顔を見せながら、ちらっと部屋の掛け時計に目をやっている。

そうだった。あの胡散臭い教授に呼ばれていたんだった。

あの過酷なレポート課題を何とか終わらせたと思ったら、今度は研究室まで来るよう呼び出されていた。ウィルやデニスも呼ばれていたから、新たな課題じゃないだろう。何にしても、気が進まない。それはウィルも同じらしい。

俺達は病室を後にして、ミラー教授の研究室へと足を運ぶ。

「気が進まないな」

考えていることが思わず口に出てしまった。ウィルの隣にいると妙に安心できて、つい気が緩む。

「そういえば」

ウィルがまた困ったように笑った。

「授業終わった後、ミラー教授に注意を受けたよ」

「え?何か問題があったのか?」

ウィルの訓練は俺も見ていたからわかる。俺が見る限りは何も問題はなかったはずだ。最後の6人目もウィルは難なくクリアしていた。だから、俺のレポートにもウィルは高評価で書いた。

「タイムだってさ」

「?」

「時間制限を設けたわけじゃないから成績には響かないけど、実際の戦闘で時間がかかり過ぎるのが痛いことは僕にもわかる。確かに、6人全員を攻略するのに時間がかかり過ぎてた。“それが君の弱点だ”だってさ」

そんなところまで見ているのか、あの教授。ウィルに対して悪気があったわけじゃないが、レポートの点数が若干気になってしまった。



***



目的の研究室の前には十数人の学生が集まっていた。ふと後を振り返ると、デニスがあくびをしながらこっちに向かっていた。何故だかウィルとデニスの他に知っている奴がいない。何の呼び出しか益々わからなくなった。

「……僕ら以外、全員インターミディだ」

俺と同じ疑問を持ったのか、ウィルが早速分析しはじめた。確かに階級別のバッジが俺たちの色とは違う。金色だ。この学校での学生の階級は順に、ジュニア、インターミディ、アドバンスの三段階に分かれる。その区別はバッジの色で行っていて、ジュニアが銀、インターミディは金、アドバンスが黒だ。ここに集まっている奴らのバッジはベースが黒の制服には派手に見える。インターミディの奴らも俺達がアドバンスであることに気付いたのか、何人かとやたら目が合ってしまった。

「ウィル、これ、何だと思う?俺達何で呼ばれたんだ?」

研究室前にたどり着いていたデニスは相変わらずあくびしている。午前中あれだけ動いていたのに、本当に眠そうだ。

「さあ?あの教授のことは僕にもよくわからないよ」

溜息交じりで腕を組んだウィルの様子からして、やはり考えても仕方がないと理解することにした。

ここにいるインターミディの学生たちは落ち着かない奴が大半で、俺達と同じように呼ばれた理由が解らない様子だ。呼ばれた理由を考えている奴もいれば、俺達を見て噂話をしている奴もいる。考えてみれば、俺達三人は成績上位者としてつい最近学内で公開されたばかりだ。だから知っているのか。

「やあ。遅くなってすまない」

後から突然声をかけられた。一瞬で振り返るとそこには胡散臭い笑みを浮かべたミラー教授が、集まった学生たちを見まわしながら立っていた。

俺達アドバンスの三人の中で緊張した空気が流れた。インターミディの奴らは気がつかなかったのか、さっきと様子は変わらない。感覚の鋭いデニスは一瞬で眠気が吹っ飛んだらしい。それもそうだ、こいつの気配を全く感じなかったんだから。こんなに不気味で、べったりとした笑みを浮かべて立っているのに、声をかけられるまで気がつかなかった。

「さて、出席確認を取ろうか」

目が乾くのに気がついて俺は反射的に瞬きをした。瞬きすらできないくらいに緊張していたみたいだ。

「デニス・モナハン」

どうやらアドバンス階級から先に呼ばれるらしい。デニスが呼ばれて短く返事をする。

「ジークフリート・レヴァイン」

俺もデニス同様、短く返事をした。

「ジークフリート君、レポート読ませてもらったよ。君には簡単な課題だったのかな。よくできていた」

「ありがとうございます」

とんでもなく勘違いされているようだが、減点がないらしいことに安堵した。

「ウィリアム・マッケンジー」

ウィルは未だに緊張が解けないみたいだ。顔が少しこわばって見える。

俺達の後は知らない名前が呼ばれていった。俺はもう一度、こわばった顔のウィルを見て肩を軽く叩いた。お前が落ち着いてくれないと俺は安心できないんだって。

我に返ったような顔で、ウィルは俺の合図にアイコンタクトで応えてくれた。よかった。


出席確認が終わったらしい。ミラー教授が自分の研究室を開け、そこにいた皆がぞろぞろと中に入りはじめた。最後に俺達が入ってデニスがドアを閉める。

「実は急なんだが、君たちにお願いしたい任務があってね」

「…?」

俺だけじゃなく、その場にいた学生全員が疑問に思った。任務といったら、普段は多くても五、六人の少人数で遂行しているが、この場にいる学生は普段の三倍以上の人数だ。いったいどんな任務を押し付けられるのか。

不気味な笑顔が、詳しい任務内容を話し始めた。

「任務内容は至って簡単ですから安心してください。皆さんは、最近経済界でのし上がってきているテイラーという人物をご存知ですか?」

テイラー…。経済界で知らない人間はいない富豪だ。

「君たちには、本日開かれる彼のパーティーに出席して頂きます。一般参加者に混ざって、彼の護衛をお願いしたいのです」



***



クローゼットを開けると、制服と私服がきっちり分けられていて見事に並んでいた。几帳面なウィルらしい。目的のものを見つけてすぐに手を伸ばした。

任務の説明を受けてからすぐ、俺はウィルとデニスの部屋に来ていた。パーティー用の紳士服を着合わせる為に、というよりウィルにネクタイを借りる為に。この学校は全寮制で部屋は成績順で決められる。ウィルとデニスが相部屋なのは成績がほぼ同じだからだ。ちなみに今俺は同居人募集中だ。

「制服を着ない任務なんて初めてだよ」

ウィルがワイシャツの襟を整えながら呟いた。顔に面倒だと書いてある。相部屋のおかげでデニスの面倒くさがり屋がうつったのか。

ミラー教授から最後に言われたのはこの一言だった。

『目立たぬよう、楽しみながら見守ってください』

それは俺達3人に向けられた言葉であって、インターミディの彼らには関係ないことだった。つまり、任務を遂行するのは俺達じゃなくインターミディの学生であって、俺達3人はインターミディの学生が任務完了するまで見届けるだけの監査役に選ばれてしまったのだ。要するに、ただの保護者だ。

俺はウィルのクローゼットから借りたネクタイを合わせながら、ウィルのスーツ姿をチラ見した。パーティー用の紳士服なんて滅多に着ない。自分が様になっているかどうか、ウィルの着こなし方を見て学ばなければ。というか何故ウィルは着こなせているんだ。

「あのさ」

無表情でネクタイを結びながら、デニスが口を開いた。

「テイラーって誰?」

そういやデニスがテレビ見ているところなんて見たことなかったな。ニュース番組になれば、必ず耳にするその名前を知らないのも当然か。

「今経済界で最も有名な人物だよ」

壁にかかっている鏡の前で、念入りにチェックをしているウィルが続ける。俺には何のチェックをしているのかはわからないけど。

「本名はフェルディナンド・テイラー。大手自動車メーカーの代表取締役だけど、裏では武器開発を行っているらしい。金儲けの為ならあらゆる手段を使うことで有名だ。その分恨みを買うことが多いって噂」

「へぇ」

デニスが短く相槌を打つ。対して興味がなさそうだ。

その辺なら知っていたが、俺には少し気になっていたことがあった。

「それで、テイラーは何故護衛が必要なんだ?」

たかがパーティーごときで大袈裟だと思っていた。

「うん。それなんだけどね」

珍しくウィルが考えだした。口元に指をかける癖が、考えの深さを物語る。

「どうも最近、うちの学校に出資しているらしいんだ。この学校の病院は医療研究者が多いから、おそらく医療関係に出資しているのは想像がつくんだけど」

「引っかかるのは、武器開発を行う人間が正反対の医療に手を出す理由か」

「そう、それがわからない」

口元にかけていた指が離れて、宙に向けていた目線が俺の方に向いた。

「出資するからには何かしら求める利益があるんだろうけど」

医療面でこれといった研究成果があるとは聞いたことがない。学内の三分の一を占める程の大きな病院にもかかわらずだ。

「たぶん彼が求めているのは、今後得られるかもしれない研究成果…かな」

憶測だけど、とウィルは付けくわえた。

そこまで聞いて、ふと頭に浮かんだ。俺の右肩に施した最先端医療技術。テイラーはこの技術が欲しいのか?

「まあともかく、この学校にとっても彼にとっても、今の段階で上手くギブ&テイクの関係を成り立たせるなら、学校側としてはこういうやり方で彼を満足させるしかないんじゃない?」

「とりあえず、テイラーが善人じゃないことはわかった」

相変わらず、デニスは興味が無さそうだ。テイラーのことを説明してくれていたウィルも、疑問はあるが、実のところそこまで興味はないのだろう。俺達が気にしなきゃならないような人物でもないし、目の前の課題は“任務を楽しむ”ことなのだから。

話しているうちに、コーディネートが終わっていた。任務に必要なものはほとんど揃って、あとはパーティーのタイムテーブルと参加者名簿を頭に入れるだけ。

九月二十一日 午後九時 ホテル・アルダートン。任務開始時刻はその二時間前だ。

「今までで一番やる気の出ない仕事だな」

デニスが静かに呟いた。ウィルは苦笑している。俺も、同じ意見だ。

「来週のテストに加点されると良いんだけど、保護者役じゃぁそうもいかないか」

俺達には何のメリットもない、今回はただのボランティアだ。

「そうだ。テイラーよりも気になっていたことがある」

急に真面目な顔になったウィルが続けた。

「どうしてお前はそんなに成績にこだわるんだ?朝の時も、昨日大怪我したっていうのに頭の中にあるのは治療よりも成績だっただろ?」

デニスも興味があるのか、野性的な視線と一瞬目が合った。

「今でも十分過ぎるほど、成績優秀者だしな」

二人の視線がさらに俺を覗きこんでいるようだった。理由なんて簡単だ。別に隠しているわけでもないし、この際だから二人には打ち明けよう。

「探している子がいるんだ。早く見つける為に、より情報の集まってくるポジションにいたい。その為にここでできる有効な方法は成績を上げることだからさ」

「探している子?」

「そう。小さい時にすごく仲の良かった友人がいたんだけど、ある日突然離ればなれになってさ。今でも覚えてる。男なのによく泣いていて、いつも俺の裾を引っ張るような奴なんだけど、俺はあいつの内面の強さに憧れていて」

それで、と続けようと思ったところで、部屋のドア横にあるインターホンが集合時刻十分前を告げるアラームを鳴らした。

ウィルが、またその子の話聞かせろよ、と言って足早に進み、部屋のドアを開けた。デニスと俺もウィルに続く。

短く、簡単に返事をした。



***



高層ビルが立ち並ぶ、ビジネスに相応しい街。道路は広く整備されていて街路樹が均等に植えてある。青白い街灯は程良く夜に溶け込んでいた。

深夜になればこの計算された美しさが際立つのだろう。ここに赴いた人々で本来求めていた空間からかけ離れているように見えた。スーツを着た男たち、洒落た店で食事をしているカップル、友人と屯している若者、何やら真剣に電話で話している壮年、彼らはこの街を成り立たせる一パーツのようだ。

いつもの癖で、長い瞬きと同時に深呼吸した。夜の匂いがする。こうすると、不思議と落ち着くのだ。

四方に煩いほどの明かりを放ちながら立ち並ぶビルも、夜を飾る街灯も、高速で走る車も、無表情だったり、笑っていたり、電話していたり、食事をしていたり、そういう周りを行き来する他人も、全てが自分の中で無となって、ただ“自分”という人間だけが残る。その時間が、好きなのかもしれない。

ふと空を見上げた。月の光に照らされて、まだら雲が無数に広がっているのがわかる。

雲の壁に隠れていたいのかな。

あの男に会ってから十日ぐらいたったのだろう。三日月になるまで欠けた月が、まだら雲の影から出たり隠れたりしているのを見てそう思った。今の自分と同じ。本当は隠れていたい。隠れれば、こういう仕事は回ってこないかもしれない。

目線を、目の前の喧騒に戻した。現実は甘くない。働かなければ生きていけない。それにもう、“今さら”だ。

胸ポケットから懐中時計を取り出した。もうすぐ八時半になる。

そろそろ開場時間。ぐずぐずしていられない。



***



思わず溜息が出た。

ホテル・アルダートンは名の知れた高級ホテルだ。中はかなり広いらしく、エントランスから会場まで思ったよりも時間がかかった。しかも履き慣れない高いヒールのおかげで、毛の長い絨毯の上では少しふらつく。その上女の長い髪を演出する為にかつらまでかぶっているのだ。黒いシックなドレスに一般的なブロンドの髪。誰も俺だと気がつかない。いくら仕事とはいえ、ここまで完璧な女装はあまりやらない。その分、体と精神への負担が大きいのだ。だから、余計に溜息が出てしまう。

会場を見渡すと女たちが開会前のおしゃべりを楽しんでいた。自分も今は女を演じなければならないが、とてもそこまでやりきれない。このホテルの下見は済んだのだ。あとは時間を待つだけ。

「皆さま、ようこそお集まり頂きました」

司会の一言でパーティーが始まった。九時だ。

会場はどこもかしこも煌びやかで、目がくらむ。天井には大きなシャンデリア、運ばれてくる食事は全て銀食器で、飲み物は殆んどがシャンパンだ。

ああ、今すぐにでも終わらせたい。終わらせたら、一人でどこか静かな所に行って本でも読んでいたい。

参加者全員にシャンパングラスがいきわたったのを確認したのか、司会が声のトーンを上げて主催者の登場を知らせている。

フェルディナンド・テイラー。今日の標的だ。隣には側近のジェイ・マクラーレン。あの不気味に笑う、今日の依頼者。二人が控室に引っ込むその時が、俺が動く時。

誰だ?

その二人の近くに、何人か知らない人間がいた。パーティーの参加者やセキュリティはマクラーレンからの情報で頭に入っている。側近にも知らされていない護衛だとしたら、テイラーが直接雇っているということになる。感付かれたのか?

注意深く且つ自然に、もう一度会場に目をやった。知らない顔が、二十人。そのうち十七人が襟元に同じバッジを付けている。残りの三人は急に参加することになったとかで名簿に載らなかった一般参加者だろう。気になるのはあのバッジだ。見覚えがある。イーグルと二本の剣。ルイーザの学章か。




***



パーティーが始まって少し経ってから、リズミカルな音楽が流れ始めた。相手を決めていたペアから徐々にダンスに加わっていく。

「さて、ご婦人方をお誘いに行こうか」

慣れているのか、ウィルは本当に楽しそうだ。これが任務で、“楽しめ”と命令されていると言っても、ここまでラフに楽しんでいるのはウィルだけだろう。

「飯でも食ってる」

そう言って、銀の皿に手を伸ばしている。デニスはデニスで羨ましいくらいのマイペースさだ。

「ジーク、これは任務だ。この場で女性を誘わないなんて、それが許されるのは見た目が野性的なデニスだけだよ」

にっこりとしたウィルの笑顔が嫌だと思ったのは、これが初めてだ。俺がこういう場に慣れてないのと、女性に疎いのを知っているから、ここぞとばかりに“教育”したくなるのだろう。

「仕方ないな」

今日は大人しくウィルの言う事を聞いていよう。任務なら仕方がない。

会場全体を見渡した。ほとんどの女性が露出の多いドレスを着こなしている。任務以外で女性との接点が殆んど無いからか、どんな女性を誘ったら一番無難かを考えてしまう。気がつくと、ウィルは既にパートナーを決めて中央でリードしていた。俺も早くしないと。

溜息交じりで、まだパートナーの決まっていなさそうな女性を探した。

あれ?

一瞬目に止まった女性。無表情というより、つまらなそうな、少し疲れているような顔をしている女性がいた。

あの女性、名簿に載っていなかったような。

シャンパングラスを両手で持って、中央を眺めている。露出の少ない黒いドレスがスタイルの良さを際立たせていた。

ん?

長いブロンドの髪が小さく揺れた。少しふら付いているようだった。体調が悪いのかもしれない。俺は自然に、女性の方へと歩を進めていた。

「大丈夫ですか?」

声をかけると、中央を眺めていた女性は俺を振り返った。

「え?」

また、ブロンドの髪が揺れる。

「少し、ふら付いているように見えたものですから」

ええ、と言って女性は目線を床に落とした。

「苦手なんです。こういう場所」

何だか彼女の気持ちが解る気がして、正直に、わかります、と苦笑した。

「それなら、二人だけで人の少ない所に移動しませんか?」

言ってしまってから猛烈な後悔が襲ってきた。ダンスに誘うならまだしも、今のは、そういうお誘いの言葉だった。絶対に勘違いされる。

「やだ、誘ってるの?」

案の定、彼女は呆れながら静かに笑った。

「あっ、いえ、そういうつもりではなくっ…貴女の体調が心配になって」

恰好悪い。自分でもそう思う。どう弁解すればわかってもらえるのだろう。

「あなた、優しい人ね」

すっと彼女の手が俺の方に伸びた。

「笑ってごめんなさい。私はリディア。みんなリディって呼ぶわ」

弁解など必要なかった。求めてくれた握手に答える。

「ジーク。ジークフリート。よろしく」

「笑ったら、少しだけ気分が良くなったわ」

彼女はありがとう、と言って優しい笑顔を向けてくれた。

リズミカルな曲が終わり、ゆったりとした曲に変わった。チークタイムだ。

「あの、良かったら、一緒に踊って頂けませんか?」

彼女と初めて目が合って、その瞳に吸い込まれそうになった。あいつと、同じ色の瞳だった。

一瞬の沈黙の後、彼女は笑顔と共に返事をくれた。

「喜んで」

俺は彼女の瞳を見て、妙に嬉しくなった。きっと、彼女の笑顔と瞳の色に浮かれていたのだろう。中央でこちらを覗くウィルに気付くわけもなかった。



***



男が近づいてきたと思ったら、マクラーレンの情報にはなかった、バッジを付けていない三人のうちの一人だった。話しているうちにダンスに誘われ、今はこの男の腕の中にいる。

確かにこういう場は好きではなかったし、高いヒールのおかげで足が痛くてふら付いていたかもしれない。それがこのジークという男には“か弱い女性”にでも見えたらしい。俺が男だと知ったらどんな顔をするだろう。

チークタイムならステップを踏まなくても何とかなると思って誘いを受けた。当然ながら、男と踊る趣味は無いし、男性側のステップしか知らないのだ。

テイラーとマクラーレンが控室に移動する時間まであと二十分。その時間潰しになれば良い。

「珍しい色ですね」

黙って揺れていれば良いと思った矢先、突然声をかけられて、思わずジークの顔を見上げた。

「え?」

「君の瞳の色」

「ああ、これ?…気味が悪いでしょう?」

ジークが覗きこむように見てくるものだから、反射的に目を細めて視線をずらしてしまった。自分の瞳の色など、好きになるはずがない。人間には殆んど現れない紫色。気味悪がられたり、研究させてくれと言われたりしたこともあった。それでも、隠そうとしないのは、単純に、コンタクトをはめた時の遺物感が嫌だからだ。

視線だけをジークの方にやると、不思議そうな顔をしていた。

「どうして?綺麗ですよ?」

「・・・」

初めて自分の外見を評価されたような気がして、驚きや嬉しさといった感情よりも先に、固まってしまった。

「子供の頃、君と同じ紫色の瞳の友人がいたんだ。会えなくなってから、ずっと探しているのだけど、中々会えなくて。そいつも綺麗な目をしてた」

そう言って、俺の目を覗きこみながら、あまりにも嬉しそうな顔をするから、何だか恥ずかしくなってきてしまった。

「そう・・・」

困る。今までこんなふうに他人と話したことなどないんだ。どう反応したら良いかわからない。どんな表情を見せたら良いのかわからない。

「どうかしましたか?」

低い声がすぐ近くで聞こえて、思わず顔を上げた。

「あ、あなたの瞳は何か変だわ・・・。その・・・色が・・・」

違う。こんなことを言いたいんじゃないのに。なんで考えがまとまらないんだ。言葉と心の中がかみ合っていないじゃないか。

「ああ、よく気が付きましたね。この色、コンタクトの色なんですよ。視力が悪いわけではないのですが」

黒い瞳に、シャンパンの色のようなプラチナブロンドの髪。変だと思ったのは事実だった。

ただ何となく、直視してはいけないような気がして目を逸らしていたのだ。

いろいろあって、と包み込むように笑いながら言うジークを見て、薄くぼやけたような光景が浮かんだ。


・・・子供・・・?


頭の中で浮かぶ光景に、思考が動かなくなった。何が映っているのかわからない程ぼやけているのに、その子供の輪郭だけがはっきりわかった。

なんだこれ・・・?子供が・・・笑ってる・・・?

強く瞬きをした。その子供の髪が光を反射して、眩しかったのだ。

「あの、大丈夫ですか?」

はっとした。ジークの声で現実に引き戻された。それと同時に、子供も眩しい光も消し飛んでいて、気がつくとチークタイムも終わっていた。

「ごめんなさい。ぼんやりしてしまって。じゃぁ、私はこれで」

今できる精一杯の、普通の笑顔を作った。さっきのは何だったのか、時間は考える余裕をくれない。目の前のジークのずっと奥で、マクラーレンがテイラーに声をかけているのが見えた。

「あ、ありがとう。楽しい時間でしたよ」

「こっ、こちらこそ」

そう言って、逃げるように会場から廊下へと出た。少し歩いて、人けの無くなったところで立ち止まった。

彼が発した一言一言が妙に響いていて、心臓の音が聞こえそうだった。初めて、いつも羨ましく思っていた笑顔の人間と言葉を交わしたのだ。鼓動が速くなるのも無理はないのかもしれない。

とりあえずもうすぐ時間だ。自分の仕事は普通の人間とダンスをしてお喋りすることじゃない。

深呼吸をして、いつもの自分を取り戻す。

今日の標的はフェルディナンド・テイラー。もうすぐパーティー会場から控室に引っ込む時間だ。俺はその、引っ込んでる時間、約十五分で仕事を終わらせればいい。

一瞬、別れ際に、言葉に躓いたジークという男の顔が脳裏を過った。今まで踊っていた相手がいきなり離れたのは不自然だっただろうか。

考えて、すぐにやめた。

もう二度と、会うこともない人間のことなど、考えても仕方がない。

人けのない廊下を、再び歩き出した。

横を流れる大きなガラス窓を見ると、生気のない人間が映っていた。



***



ダンスの時間は終わった。終わったのだ。だから、もう女性のことなど考える必要は無い。いつも通りの自分に戻って、インターミディの活躍ぶりをただじっと見ていればいいのだ。

違う!俺は一体どうしたんだ!

いつも通りの自分に戻ろうとしても、あのリディアという女性が頭から離れない。気がつけば、彼女が出て行った廊下に繋がる入り口を何度も振り返っていた。その度に頭を振る。思い出そうとしなくても、勝手に彼女が出てくる。消えかかることもなく、彼女はまた頭の中で主役に踊り立つ。

しまいには、額に手を当てて悩んでしまった。

テイラーとマクラーレンが会場から出て行くのを横目で見ながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

「どうした?」

振り返ると、無表情のデニスがいた。

「お前のそんな顔、見たことない。何かあったのか?」

俺はどんな顔してたんだ?

「いや・・・何かあったわけじゃないんだ・・・が・・・」

今自分に起こっている現象を俺はつらつら話した。こんなに落ち着かない自分は初めてで、自分はどうにかなってしまったのかと段々と不安にもなってきた。だから、とにかく頭の中を整理するためにも目の前の男に話すしか選択肢はなかったのだ。

ダンスが終わってから流れ出した優雅であろう音楽も、周りの歓談の声も、俺の耳には入ってこない。任務は全て順調で、パーティーの進行も問題なく進んでいる。問題があるとすれば俺自身だ。焦る必要も、パニックになる理由もないのに何故こうも落ち着かないのか。

ふと目にとまった女性に声をかけ、少し話をして、ダンスに誘って、踊りながら瞳の話をして、そして別れた。ただそれだけのことだったはずなのに、彼女が会場から出た瞬間から、俺は落ち着かない。

頷くことも、相槌を打つこともなく、ただ無表情のまま、デニスは俺のまとまらない話を聞いてくれていた。

「・・・えーと・・・つまり・・・一目ぼれしたってことか・・・?」

思考が一瞬止まった。そして動く。

「そ、そうなのか?」

「・・・えっと・・・俺が聞いてんだけど・・・」

相当深刻そうな顔でもしていたのだろうか。デニスの表情が少しだけ怪訝そうな顔に変わった。

「ジーク」

ふいに横から声をかけられた。腕時計を見ながら、口元には笑みを浮かべるウィルがいた。

「そんなに彼女が気になるなら追いかけたらどうだ?」

視線が腕時計から俺へと移った。

「ちなみに、テイラー氏が戻ってくるまであと十分だ」

まるでデニスとのやり取りを全て見ていたかのようだ。

歓談を楽しむ参加者を、邪魔しない程度にすり抜けた。そして静かに音が鳴る。

パタン。

やれやれ、と笑うウィルを見ることなく、俺は彼女が出た廊下へとダッシュしていた。



***



その情報が耳に入ってきたのは二日前だ。幹部の中の誰かが何かを企んでいるようだ。巧妙に隠されていて、その何かが未だに特定できていないのは身内の反逆だからだろう。

パーティー主催者であるフェルディナンド・テイラーは、眉間に皺が寄り、目が細くなろうとしていたのを抑えた。これは仕事だ。切り替えなければ、参加者に表情で読み取られてしまう。

一抹の不安に駆られ、通常の護衛に加えてルイーザの学生を呼んである。友人から聞いた彼らの実力は相当なものだ。彼らならば、どんな状況下であっても期待に応えてくれるだろう。

それにしても、友人もとんでもない研究に手を出したものだ。今の学生たちよりもさらに能力値の高い人間を生み出そうとは。国が秘密裏に行っている研究とはいえ、それに投資している側としては少しばかり恐ろしい。いや、私は楽しみで仕方ない。

パーティーが終わるまであと一時間程度。油断はできないが、恐らく今日は大丈夫だろう。ルイーザの学生を数十人も揃えているのだ。犯人も一歩引き下がるに違いない。

テイラーが考えている不安と利益のことなど、知る由もない周りの婦人たちは、彼の紳士的な態度に目を輝かせている。彼女たちに、愛想を振りまくだけで彼の株は上がるのだ。

「社長、時間です」

すぐ後にいた側近が時間を知らせる。

短く返事をした。別れを惜しむ素ぶりを見せながら女たちとも別れ、控室へと向かう。

会場から出ると、出入り口には護衛の任に就いている学生とは別の学生がテイラーを待っていた。緊張感のある鋭い目をしている。さすがルイーザの学生だ。この隙の無さを見れば、パーティー中に事を起こそうなどと考えまい。

明日になれば、さらに莫大な金が流れてくる。そしてまた、新しい力を手に入れるのだ。そうなれば、こんな些細な事に悩まされることなどなくなる。

ルイーザの学生が控室の分厚い扉を開けた。

「ミスター・テイラー」

名前を呼ばれたテイラーが振り返ると、そこには黒いドレス姿の美女が立っていた。急いでここまで来たのか、少々息が上がっていた。

「お招き頂いて光栄ですわ」

今時珍しい露出の少ないドレスだ。スタイルの良さが際立って、足元から徐々に彼女の顔へ視線をずらしていく。極め付けはその美しい顔だ。絶世の美女と言っても過言ではあるまい。

「私、少しでも貴方とお話がしたくて」

美しい姿に、はにかんだ笑顔が加わった。

「申し訳ありませんが」

テイラー直属の護衛が続けようとしたところで、テイラー本人が掌でそれを静止した。

「まあ、まあ。美しい女性の誘いを簡単に断るなど、私にはできないよ。ただ、確かに時間は無いから、5分程で良いなら」

「十分ですわ」

彼女の顔が輝いた。両手を軽く叩くように合わせ、満面の笑みを見せてくれた。

「さあ、中に入って」

周りを、護衛とルイーザの学生で固めながら、彼女をエスコートする。

控室には、品のある丸いテーブルにイスが2脚。テーブルの上にはグラスが置いてあった。マクラーレンが準備したのだろう。

パタン。

緩やかに閉まる、扉の音がした。



***



右側に流れるガラス窓。そこに映る黒い瞳の男。

さっきは似合わないと言われた瞳の色だ。自分でもそう思う。色もコンタクト自体も好きではない。異物感と目のかすみには耐えられなくなる時がある。ただ、目立たないようにするには、これが一番都合が良い。

廊下に出た後どこに行ったんだ?

彼女のことが頭から離れなくて、ひたすら走りながら探している。慣れないスーツのおかげで走りにくい。おまけに目が乾いてコンタクトがずれる。

会場の外側を一周していたようだ。目の前に会場の関係者用入り口がある。テイラーが控室に移動する出入り口だ。制限時間の半分近くを短時間マラソンに費やしてしまった。仕方がない、時間になれば彼女も会場に戻ってくるだろう。そうしたら、もう一度、顔を合わせるくらいはできるはずだ。

・・・・・・・・・。

なんだ?

ジークが会場に戻ろうとした時、パーティーの騒がしさとは違う音が微かに耳に入った。

カシャン・・・・・・

グラスでも落としたのか?

音のした方向に振り向くとすぐ近くにテイラーの控室があった。部屋の前で待機しているはずの護衛担当がいない。

予定変更?いや、護衛の仕事なら室内外両方警戒するはずだ。インターミディのクラスならそんなことは基本中の基本のはず。

何か悪い予感がして、反射的に控室の扉に張り付いた。

・・・・・・・・・・・・。

側近のマクラーレン?

中からはマクラーレンらしき人物の声が聞こえる。何を話しているかまでは聞き取れない。音に集中しようとした時、ふっと中の人物の気配が近くなって、慌てて扉から離れた。

ゆっくりと扉が開いた。

出てきたのは側近のマクラーレンだった。余程嬉しいことでもあったのか、口元を三日月のようにさせながら笑っている。

扉の陰に張り付いて隠れ、マクラーレンの死角に入りながら、目線だけで彼を追った。マクラーレンだけが出てくるのはおかしい。ダンスの後はパーティーのメインである祝賀会を兼ねた人事発表だ。それを発表するのはテイラーだ。彼はどこに?

マクラーレンだけが、一人会場に戻って行った。

それを見送ってから、扉の陰に張り付いたまま、控室の中を覗く。

銃?

毛足の長い絨毯の上に、銃が落ちているのが見えた。見えてすぐ、俺は警戒した。銃の近くに、テイラーの護衛をしていた学生が倒れているのが見えたのだ。何かが起こったのは間違いない。

どうする?一人で突入するか?

「ああ、予定より少し早く終わった」

すぐにでも部屋の中に入って調べようか迷っていたが、中から声が聞こえて足を止めた。

携帯で話しているのか?中にいるのは誰だ?

音を立てることなく、扉に張り付いていた体をスライドさせた。

「いや、すぐ戻る予定だったが、変更したい。明日の朝までには」

気付かれないよう、気配を読まれないように、扉の前に立ってすぐ、目の前の光景に思考が止まりかけた。

部屋の中は、綺麗に整えられているのに、床に倒れている人間だけが、その悲惨さを物語っていた。腕や脚を切り取られたもの、首を失ったもの、背中に刃物が突き刺さっているもの。窓からさす月明かりだけが、この暗い部屋に広がった血の海を現している。

携帯で話をしているのは女だった。長いブロンドの髪に、露出の少ない黒いドレス。月が照らしだした女の瞳の色が、俺の精神を混乱させた。

「ああ、わかってる。じゃ」

電話を切る動作と同時に、大きな溜息をついている。長い髪を引っ張ったかと思えば、黒のショートヘアが姿を出した。ブロンドの髪はウィッグだったようだ。頬に付いていた血をドレスで拭っている。目が釘付けになったように、視線をずらすことができない。これを、彼女が?

「どうして、君が」

声に出してしまった。まずい、と思いながらも、この現実を受け止められない。案の定、彼女はこちらを勢いよく振り向いて、左手に持つ刃物を胸の前で構えた。そしてすぐ、驚いた顔で、構えていた手を緩めた。

「ジーク?」

彼女は後ずさりしながら、窓際へと近づいていく。月の光が逆光になって、表情が見えなくなった。

「リディ、君は」

俺がそう言って足を動かしたのと同時に、勢いよく割れるガラスの音が部屋中に響いた。リディは窓から飛び出して俺の視界から消えてしまった。

彼女を呼び止めることもせず、追いかけることもせず、俺はただ、割られた窓を見て、立っていることしかできなかった。




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