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(ヒルディアとシルギードか)
中央広場の噴水の縁に腰掛け脚を組み、ヴァースはこの面倒の発端となった二つの国の名を思い浮かべる。
竜王国ヒルディア――大陸最古の大国であり、竜が棲むと言われる三方の山に周囲を囲われた女王国家。代々の女王はドラゴンマスターと呼ばれ山々に棲む何百という竜を操る事が出来るという。
その力で太古の昔は大陸を制覇したとかいう歴史書もあるが、流石に眉唾だろう。現在は若干十三歳の少女が女王として君臨している。
そして専制君主国家であるシルギード。山脈と草原からなる広大な地帯を根城にしていた多数の異民族達を平定して作られた多民族国家。現在は狂王と呼ばれる男が主として立ち、支配下に置かれた民族の多くに容赦のない圧政を敷いているという。
どちらに付くか、と二択しかなくなれば。
(……ヒルディアだろ)
町の人間が愛する『自由』が商売以外でどこまで残されるかは判らないが、まだヒルディアに組み込まれた方が安全だろう。
(今のうちにヒルディアに従った方が良いんじゃねえのか)
シアも市民達も望まないだろう。しかしどちらにしろいずれ戦禍に巻き込まれるのならばさっさと準備をして逃げておいた方がいいと思うのだ。
国境の町等というものが、いつまでも平和な訳はない。
被害を少なくするために――
「って!」
はたと考えるのを止めヴァースは頭を振る。何故こんな事を真面目に考えているのだ。
(だからっ。俺には関係ねーんだよッ)
シアや町の人間が決めた事に諾々と従ってやっていればいい。救いたい奴だけ頑張っていればいい。
(クソ……ッ)
苛々と言う事を聞かない自分の思考に舌打ちをして頭を乱暴に掻く。
「――……何やってんだ。俺は」
昨日の今日でこんな所をフラフラと、いや、リンデンバウムはあのセリフからすればすぐにでも来るという事はないだろうが。
溜息をつき目線を何を見るでもなく遠くへと向けて――見覚えのある赤髪にはっとして身を乗り出す。
「イシュタル!」
「!」
名前を呼ばれ、明らかに驚いた様子でイシュタルは足を止めて振り向いて――ヴァースを認めると曖昧に笑ったような表情をする。
「ファウストフィート公」
「……まだうろうろしてたのか」
「まぁ。……驚きました。いつ判ったんです」
最初の驚きが去ると軽く目を細めて余裕を取り戻してからそう訊ねて来た。
「昨日だ。――リンデンバウムって知ってるか」
「――リンデンバウム、が」
「あァ。お陰で助かったぜ」
さらりと髪を掻き上げ耳のカフスと見せるとイシュタルはへえと感心した声を上げる。
「そうですか。それは良かった。――まさかリンデンバウムが来て更に生き残るとは思ってませんでしたけど。……そんな感じしないんですけどそこまで手練れなんですか?」
「テメェ失礼な事さらっと言ってくれんな」
昨日イシュタルはヴァースを評して『腕が立つ』と言ったがそれはあくまでも『一般の中で』という括りでの正確な評価だったらしい。
流石、軍師一族の名を冠するだけの事はあるという事か。戦力を見極める目は確からしい。
「……けど。リンデンバウムがどうしてファウストフィート公を……」
「ヒルディアだかシルギードだかにシェアディールが付いたからだろ。本人もそう言ってたんだから」
「まさか! 例えどっちがカラムを手にしたとしたってそれじゃあ確実に争いが起こる。姉上がそんな事をするはずがない! 付くんだったらカラムのはずだ」
屈辱だとでも言いたげにイシュタルは眉を吊り上げきっぱりと否定してきた。盲目な程に。
「実際来てるんだから『はずはない』とは言えねえだろ」
「そ、れは」
イシュタルの名前は、少し頑張れば調べられるだろうがリンデンバウムの名前が表に出る事はまず無い。
ヴァースがその名前に辿り着くには、やはりリンデンバウム自らが名乗るしかないだろう。
(けど、まさか……そんなはずは。それとも俺が見えていないだけなのか?)
軍師一族などと言う血生臭い名前を背負ってはいるが、彼等には彼等の誇りがある。
シェアディールの知は理不尽な暴力に抗う術を持たない弱き民の為に存在する。だから決して、後に戦が起こったり民に苦行を強いるような策を取る事は無い。それを避けるための一族なのだから。
――だというのに、今イシュタルには当主である姉のやろうとしている事が見えなかった。
(今カラムがファウストフィートを失えば戦になる。大陸の抑止力としてのカラムの意味はとても大きい。なのに、何故……)
「イシュタル?」
「!」
ヴァースに呼び掛けられ、物思いから戻されてはっと顔を上げる。
「な――何でもありません。それより用はそれだけですか? なら……」
「あぁ。――……い、や」
一回頷いてからヴァースは少し躊躇った後首を横に振った。
「一つ聞きたいんだが」
「カラムが生き残る方法ですか」
「……そうだ」
イシュタルにしてみればヴァースが問いかけて来るのに何の不思議もない質問。だがヴァース本人にとっては些か葛藤のある質問だった。
イシュタルの方もまだ先の事が後を引いていて気が付かれはしなかったが。
「一番はっきりしているのは貴方が死なない事です。ファウストフィートが生きてる限り手は出せない。後は結婚に注意すぐぐらいですかね。――でも……」
(姉上が動いてるんじゃ、そんな生温いままで済ませる訳がない)
「守ってるだけじゃ近い内に俺は殺られる」
結局一流の腕前を持つ者達に襲われれば、生き残るのは難しい。ヴァースが冷静に己の位置を見ているのに、イシュタルは少し驚いた。
「……俺がこの町に留まっている理由を聞いた時、貴方は昨日『必死だから』と答えました。現実に命が脅かされて尚、変わりませんか」
「そんなの就任前から判ってるだろうが」
「それはそうですが」
だが判っているだけの時と、実際に命の危機に晒された後では訳が違う。特にヴァースは今まで戦とも政治とも無関係な一般人だったのだ。覚悟が出来ているはずがない。
なのに。
「人の為に、命を掛けられるんですか。大義の為に?」
「……そんな綺麗なもんじゃねえ」
(無気力なだけだ。他人どころか、自分にまで)
微かに眼を曇らせたヴァースをしばし見詰めて――イシュタルはこくん、と頷いた。
「判った。俺が力を貸してやるよ、ファウストフィート公」
「――は?」
「俺がカラムに付いてやる。姉上が何を考えているか判るまで、だろうけどな」
イシュタルは姉が間違った判断をしているとは思っていない。当主の座を継いだ姉は、自分などよりも遥かに優秀で、強くて、正しい人だから。
だから間違っているなどとは絶対に思わないが――どうしても、今自分が納得出来なかった。
(中枢に入れば、俺にも視えるかも知れない)
現場にいれば姉の行動に納得できる何かがちゃんとあるのだ。それまで少し、カラムに時間を与えるぐらい許されるだろう。
「って……お前、いいのか」
「さっきも言ったろ。シェアディールが付くならカラムのはずだ。少なくとも俺ならそうする。だから理由が判るまでの間だけ」
「お前が信じる通りなら、お前の姉の策に乗ればカラムは助かる事になるんだろ。――俺が、死ねば」
「……」
例えファウストフィートを消すにしたって、ヴァースを退任ではなく、殺さなくてはならない理由……
(やっぱり、俺には判らない)
「それが一番だと思ったら、俺もそうする。けど今の俺には判らない。だから今はカラムに付く」
「――判った。頼む」
どちらにしろ盾になった段階でヴァースの命は長くなど無い。
(別に俺がカラムを守りたい訳じゃねえ)
だがシア達がカラムを守る為には――シェアディールの知があれば、きっと。
「じゃ、城に戻るか、ヴァース・ファウストフィート。あ、俺達との契約条件って衣食住と身の安全の保証だから。ま、カラムには『身の安全』はあんま期待しないけどそれなりには宜しくな」
「まあ、そりゃ多分俺と同じぐらいには――って、お前さっきから敬語取れてるぞ」
別に何としてでも敬語を使えという訳ではないが随分な変わりようだ。どちらかと言えば馴れ馴れしいし表情もどこか人を食った生意気なものになっている。おそらくこちらがイシュタルの素なのだろう。
「一般市民としちゃ領主のファウストフィート公には敬語使うけど、シェアディールの知が欲しいなら立場は対等だぜ、ヴァース。って事でよろしく」