第二章 覚悟と理由と心の差
リンデンバウムの襲撃から一夜明け、首の傷も頬の傷も治癒術の力もあって塞がる事は塞がった。ただし痕まですっきり綺麗に治った、という訳ではなく一目でそれと知れてしまう。
純粋にヴァースの技量の問題である。
「ったく……顔に傷つけやがって。誤魔化しようがねえだろうが……」
転んだ、擦り剥いたと言うには真っ直ぐ鋭利に切られた傷跡。誰が見ても刃物か、それに準じるものだと判ってしまうだろう。
……鬱陶しい護衛だ何だが増えるかも知れない。
ヴァースを守ろうという気概は感じるが、何分実力は伴っていなかった。
カラムは無武装が原則なので軍隊というものは存在しない。自由都市の名の通り個人が技術を磨く事に対しての規制はないが都市としての武力はなく、また平和な町事情から個人技術も高いとは言い難い。せいぜい町のゴロツキを抑えるのには充分だねというレベル。
町の治安もそういった一般市民の有志が自発的に守っていて、それで充分間に合ってきていたのだ。
――何にしてもこの城の中で一番腕が立つのがシアで次がヴァース本人という有様では、それら町の有志に期待するのも酷というもの。
そんな護衛が何人付いてもその為に腕を磨いて送り込まれて来るプロフェッショナルな暗殺者を相手に何が出来る訳もない。
(見張られんなァ勘弁なんだがな)
少年期を過ぎ、母が死んでファウストフィートを出た辺りから人付き合いという人付き合いをしなくなったヴァースには慣れない人の気配というだけで気疲れするのだ、実は。
(しかしシェアディールか。元々勝ち目なんかねえ戦いだが、ますます逃げる手もねえな)
シェアディールはどちらに付いたのだろう。流石にそんな親切に教えてはくれなかったが。
(……つーか、イシュタルって『シェアディール』なんだろ。何でカラムなんかうろうろしてたんだ。野郎の言い様じゃイシュタルは引き込めそうな……ハッ、まさか)
誰が好き好んで一族同士で争いたいものか。
護り樹が付くのはシェアディールの当主だけなのでヴァースを殺そうとしている方が一族の意志だ。そんな中でイシュタルを引き込めるはずはないし――
(何で俺がんな事しなきゃならねェ)
自分には関係ない。関係ないのだ。
大体、そんな大きな力は持っていない。力が無いまま関わった所でどうしようもない現実を見せつけられるだけで――……
「――っ」
(馬鹿馬鹿しい!)
そこまで考えて、心の奥に沈めた澱が浮上しそうになってヴァースは無理やり思考を打ち切った。力があれば関わっていくとでも言うつもりか。
(冗談じゃねえ)
どうせ負ける戦い。関係など無いのだと何度も自分に言い聞かせる。
自分の手が及ばないものに心を寄せてはならない。それが叶わなかった時――傷付くのは自分なのだから。
その傷の痛みを知って、もう味わいたくないと思ったのだから――
コン、コン。
「!」
いつも通り、ここ最近ですっかり耳に馴染んだ規則的なリズムのノックにはっとして勢い良く顔を上げた。物思いに耽っていたせいの過剰な反応である。誰もいなくて良かった。
「ファウストフィート公。よろしいですか?」
「……ああ」
ここで嫌だと駄々を捏ねても傷跡が消えるまでの二、三日をシアと顔を合わせない訳にはいかない。そもそも怪しまれるだけだ。
(……大した事じゃねえんだし)
「失礼します」
後ろ手に扉を閉め、入って来たシアはヴァースを見るなり絶句した。
「ファウストフィート公、その傷……」
「見ての通り、大した事はねェ」
両方共殺す為に付けられた傷では無い。首元にあれば中々そうは見えないだろうがこちらの傷を付けられた時は、正真正銘殺意すらなかった。
「――昨夜、ですか?」
「ああ」
「……申し訳ございません」
ぐっと唇を噛み締め、悔恨の表情でシアは深く頭を下げた。
「別に、こうして何ともなってねえしな」
もしリンデンバウムが退いていなければ、今頃自分は見るに堪えない有様で発見されていた事だろう。その最中であればカラムやシアに呪いの言葉の一つでも吐いていたかもしれないが、無事だったのでそれも無い。
「いいえ! 私は貴方を守りきるつもりでカラムへ連れて来たのです! ……出来ると思っていました。なのに気が付きもしなかった……ッ」
固く握られた彼女の拳が震え、爪が食い込むのを半ば唖然とした気分でヴァースは見ていた。
――そこまで責任を感じられるとは思っていなかった。
せいぜい、手練れが来たならそれ相応の準備をしなくてはとか、その程度だと。
「止めろ。女に護られる程弱かねえし、傷付くのを見るのも気分の良いものじゃねえ」
「ファウストフィート公……」
シアの手を取り指を解すと、微かに血が滲み傷となってしまった爪痕を癒す。
ヴァースに取られた手の居心地の悪さに、しかし決して優しく扱ってくれる男の手が嫌な訳でもなく、気恥ずかしさに頬を微かに染めながら治癒が終わるのを大人しく待つ。
ヴァースが手を離した後の行き場に困り、不自然にならないか心配しつつ体に寄せる。
――当のヴァースに他意はなく、気にもしなかったようだが。
「ありがとうございます」
自分を気遣ってくれた事に対して、生き残ってくれた事に対して、そしてこの場所を捨てないでくれた事に対しての、礼。
「けれど私が決めた事でしたから。貴方は必要な人だから」
「……」
「申し訳ありませんでした」
「……なあ、あんたは本当にこの町を守れるとか信じてるのか?」
時間稼ぎにはなった、確かに。だがそれは問題の解決にはならない。
いや、暗殺という手段にしろシェアディールはとにかく動き出して来た。時間稼ぎももう終わりだろう。今すぐにでも正面切った何かが起こってもおかしくない。
それに抗する策も武力も、何も持っていないというのに。
「そ、それは」
ヴァースの問いにシアは答えを返せなかった。
――そう、シアとて信じてはいないのだ。このまま誤魔化し、ヴァースを領主としてカラムを守っていけるだろうなどと、都合のいい事は。
「判りません。けれど終わった訳では無いんです。私は諦めたくありません!」
それでも現実に足掻き、戦おうとする彼女の必死の瞳に、見てしまった残酷な現実を突き付ける事は出来なかった。
「……頑張っても、無駄なんだよ」
知も武も敵わぬ相手と戦って、どう勝利を得ろと言うのだ。
その言葉を言えない代わりにいつも通りの悪態を吐くとヴァースはシアの横をすり抜け出て行った。
今日彼女が何も持ってきていないという事は昨日の書類の回収に来ただけだろう。サインは済ませて机の上に置いてある。
「……ファウストフィート公……?」
だが言葉には感情が滲み出る。形にならないその微小な違和感に戸惑いシアはヴァースの背を見送って――はたと気がつき慌ててその後を追った。
「ファウストフィート公! どこへ!」
「昼には戻る。……好きにさせろ」
きっぱりとした拒絶の眼でヴァースに見られ、シアは伸ばし掛けた手を硬直させた。そのまま背を向け去っていくヴァースを追い掛けられもしない。
(……どうして)
彼の身ごなしから判断して、シアはヴァースの実力をほぼ正確に把握していた。彼が剣術・魔術の両方を扱う事は知っているが、それでも十分勝てるという自負がある。
そしてそれは間違っていない。
だというのに。
(……追えなかった)
彼の道を阻む事が出来なかった。美しい、しかし異形の紫の瞳に射竦められた途端に。
「ファウストフィート公……?」
今までヴァースは好意的ではなかったものの拒絶してはいなかったのだと思い知る。
ただそれだけで他人を圧倒する彼の瞳は――真実、王の物なのかもしれない。
(けれど本人があれじゃあ……いえ、本人がああだからこそ、私は今恐ろしいんだ)