5―2
ばさり、と野営地のテントを潜って中に入ると、先に戻っていたベクストルが顔を上げた。
「どうだ、様子は」
「今ん所は何もなし。何かあっても困るけどな」
「そうだな。――順調にいけば、明日戦う事になる」
「……ああ」
既に慣れてしまっているのだろう、ベクストルに気負いはない。流石に若干の緊張は見えたが当然だ。
情報が一つでも間違っていればシルギード軍は壊滅する。例え情報に誤りがなくても最悪の事態が起これば軍は混乱し自分の後ろを突かれる事になるだろう。
――だが上手く運べば少数の犠牲で事は収まる。
「……ん。ヴァース、来い」
「何……っ?」
ベクストルに手招きされるまま近付くと、腰を抱かれてそのまま抱き締められた。何事かと思ったが外から足音が聞こえて納得する。
「陛下! 失礼致しま――」
声を掛けて入って来た将校はまずい所に入って来たかと一瞬硬直した。
「構うな。何だ」
「はッ。申し上げます! 一つ先の集落で反乱軍が確認されたとの事です。数およそ一万八千、うち騎兵――」
ベクストルに寄り添いながら、将校の報告を聞きつつその数に誤差が無いのを確認していく。
「以上であります!」
「ご苦労、下れ」
「は! 失礼致しました!」
将校が去り足音が聞こえなくなって、ようやくヴァースはほっとした息を吐いて体を離す。
「何つーか、色々すまん」
「何がだ」
「拭えねえ不名誉が」
「あぁ、それか。別にこの年になると大概の事はどうでも良くなるものだ。……お前はどうなんだ」
ベクストルの小姓として入り浸ってすぐその存在は知れ渡って――しかもそれに誰も不信を抱かなかった様なのが若干プライドを傷つけたが、都合がいいんだから良いじゃないかと納得する事にした。
そして数日と経たないうちにベクストルの寵を一身に受ける小姓として認識されるとヴァースを取り込もうとする者は少なくなかった。これだけの人間が足を引っ張ろうと画策しているのだと間の当たりにして、改めてぞっとした。
「まあ、おかげで勢力争い把握しやすかったな」
それもあってイシュタルはヴァースの立場をそうさせて送り込んだのかもしれないが。
「カラムも他人事ではないぞ」
「……」
「今はいいだろう。危機に直面して、皆が団結して守り抜いた。しかし平和になれば今度はその利を求める輩は内外に少なくあるまい」
「判ってる」
莫大な財を持つカラムだからこそだ。その腐敗のせいでカラムは危機に瀕したのであるし。
「そうだな。余計な世話だったか」
「……んな事ねェ。何分領主んなって日が浅いんでね。先人の話はとかく聞いておく事にしてる」
「それはいい心掛けだがまあ心配はないだろう。人は支える者がいる限り真の意味では折れないものだ。ましてお前には優秀な忠臣が付いているのだから」
「ああ」
そう、今の自分は恵まれている。我がままに付き合って、力を尽くしてくれる部下がいる。
「――正直。俺はあんまり人ってのが好きじゃなかった。弱くてずるくて汚ねェ生き物だ」
母を助けられなかった弱い自分。どうにも出来なかったのは確かだけれど、その母を盾に生き永らえた、ずるさも汚さも否定しようもなくて。
ファウストフィートは嫌いだったが、自分も同じぐらい嫌いだった。
「意外だな。とてもそうは見えん」
「今は違うから、だろうな」
ヴァースの世界は小さかった。母と自分と、その周りが世界の全て。そしてその景色だけで全てを決めつけ判断していた。
人は弱くてずるくて汚いかもしれないが。
間違いなく、強くて優しくて綺麗なのだ。
(俺が母さんを助けたかったのは嘘じゃなかった)
何も出来なかったけれど。気持ちだけは嘘じゃなかった。
それを自分で認めてやってもいいんじゃないかと思った。
そして今度は、出来る事をすればいいんじゃないかと――そう思った。
「……今は結構、好きだと……思う」
「結構は要らないだろう」
優しく微笑して、呆れた様にベクストルは頬杖を付く。
「お前は間違いなく、人が好きなのだよ」
「――ああ」
「だから、明日はきちんと生き残れよ。まずいと思ったら逃げて構わん。俺が死んで内乱が起こったとしてもヒルディアが介入してくればすぐに終わる。俺という見栄がいなくなり支配される側になれば――カラムの援助も受けられるだろう。お前がシルギードの為に命を賭す必要はない」
「あるさ。俺にはこの事態を引き起こした責任がある。俺を信じて我がままを通してくれた皆に対する責任も。勿論あんたに対してもだ」
シアやイシュタルは自分の為にきっと泣いてくれるだろう。リンデンバウムやオシリスも多少は心を痛めてくれるかも知れない。
――だから。
「必ず明日は成功させる。そうだろ、『狂王』」
「ふ……。あぁ、そうだな」