第四章 王の行く先
「色々悪かったな。だがまあ安心しろ。作った火種は全部刈り取ってみせる」
「ヒルディアにその気が無いなら別にこれ以上は――ってか近いんだよッ!」
首に手を回し、もたれ掛る様にして話していたオシリスの肩を掴んで自分から引き離す。今まで女性どころか人との付き合いさえ疎遠になっていたヴァースには標準以上に魅力的な身体をしているオシリスとの接触はかなり照れる。
何か逆じゃねえかとか思いつつ、くすくすと笑うオシリスに赤面しつつ間隔を空けた。
「つれないな。お前のためなら何でもしてやろうって言ってるのに」
「そ、それはありがたいけどな。あんまり人に近付かれるの好きじゃねえんだよ」
「そうか? 人の体温って気持ちいいものだぞ。私と味わってみないか?」
「結構だッ」
ちらりとイシュタルに視線で助けを求めても楽しそうに笑っているだけで完全観客視点だ。助けようとする気配は微塵も無い。
「まあお前がそう言うなら仕方ない。そのうちにでもな」
そのうち、という単語にはちょっとぞっとしたが取り敢えず話が終わりそうなので突っ込まずにおく。
足を組み換えソファの背もたれに体重を預けるとオシリスはイシュタルへと視線を移した。
「で? お前はどうするつもりだったんだ?」
「ヒルディアとシルギードを互いの盾にするつもりだったんだよ。まあヒルディア側にその気は無いみたいだから後はリエンに自治を認めてもらえればいいかなって思ってるけど」
「うん、まあそうだな」
積極的に戦争をしたがっているのはシルギードなのだ。シルギードがカラムの財力を手にすれば脅威となるのでヒルディアも同じく動いていたが、そうでなければそもそも侵略には然程乗り気ではないらしい。
勿論機会があれば別であるが、強引な手段に打って出る必要が今のヒルディアには無いのである。
「ヒルディアにその気が無いなら、何でここに招かれてたんだ?」
「……それは」
う、と言葉に詰まってオシリスはきまり悪げに言葉を切って答えを躊躇った。
「シェアディールといえど個人で出来る事は限られるからな。戦争を起こす事をリエンに持ち掛けたのさ。リエンもリエンで被害が少なく済むならって事で頷いたしな」
「リンデンバウムッ!」
オシリスが言い淀んだ先をさらりとオブラートに隠す事もせずリンデンバウムはあっさりと言い放った。
それがリエンの言う『猛々しい』評価の本体だった訳だ。
「何だ。今更だろ」
「……それはそうだが」
反論できずにオシリスは呻くようにして肯定する。
その通りではあるのだが、出来る限り負のイメージなど増やしたくないではないが。
「なら後はやっぱり竜妃の心積もり一つか。協力してくれるんだろ?」
しかし幸か不幸か、ヴァースにとって恋愛事は興味の範疇外であるし、そもそも好みとして気の強い女性は苦手なのだ。故にオシリス本人が気にする程には気にしていない。
それよりも今の関心事はカラムに尽きる。オシリスの協力が得られるならば何も自分が不慣れな事をしなくても安心できる。
「勿論。だがまずはお前自身がやった方がいい。リエンがどう言おうと必ずカラムは守らせるが、出来ればお前自身がリエンの信頼を勝ち得た方が角も立たないし後々もやり易い」
「……そりゃ、そうかも知れないが」
ここにそれを得意分野とする人間が二人もいるというのに、と釈然としない気持ちで――しかし同意はする。
「そういう事だ。後ろには私が控えているからな。大船に乗ったつもりで行け」
「では、そろそろ俺達は戻るかな。ずっとここに居ても邪魔だろう」
話の区切りがついた所でリンデンバウムは席を立った。自分とオシリスの周りに隠行の結界を張り、イシュタルと共に外に出る。
姿の見えないオシリスとリンデンバウムと別れ自分に与えられた部屋に入って、イシュタルはごろりとベッドに横になった。
昨日は長い一日だった。――主に夜が。
(俺じゃあ、出来なかっただろうな。何も)
オシリスの、リンデンバウムの心を悟ってくれたヴァースだから、今こうして穏やかに居られる。もしヴァースが死んでいたら、きっと自分はもう本当に軍師としては立てなくなっていただろうし――こうしてオシリスの隣にもいない。
歪んだ関係のまま戻って、やはりいつかは逃げていただろう。
リエンを説得する手なんか幾らでもあって、確かにそれはヴァースにやらせる程の事でもない。自分がやっても構わないとは思ったが、イシュタルはそれは言わなかった。
あえてヴァースに求めるのは、おそらく見たいからだろう。自分達が惹きつけられるのは、彼がそれだけのものを持っている人だからと。
(俺はもう充分だけどな)
もし許されるなら、今後もカラムに留まらせては貰えないだろうか。
力になりたい。――ただ彼の為に彼の力に。
(……まだだるいな)
全員が出て行き一人になった部屋でヴァースは静かに目を閉じた。昨日は結局あまり寝ていないからもう少し休んでいいと思うのだが、あまりそんな気分にならない。
(何してんだ、俺)
確かにあの時、ヴァースが生きるにはオシリスを説得するしかなかった。リンデンバウムの趣味で殺されるのも御免だとは思っていた。
だがあの時自分が感じていたのは理由でなく心が感じたもっと単純な怒りだった。
どうにも調子が狂う。自分はこんなに人に影響されやすい人間だっただろうか。
(……判る訳ねーか)
幼い頃からヴァースの側には母しかいなかった。母が絶対に譲らなかったのでヴァースもファウストフィートに引き取られたが、居心地は決して良くは無かった。
そのヴァースを母はいつも守ってくれたが、守られる事しか出来ない自分が悔しかった。
物には苦労しなくなったが、それでも母が体を壊しまだ若かった命を失ったのはファウストフィートのせいだとヴァースは思っている。
……弱かった自分も含めて、だが。
(……母さん以外に『俺』と話す人なんかいなかったから)
もっとずっと冷めたつもりでいた。いや、自分で冷めていると思っていなければおそらくヴァースは耐えられていない。
(……嬉しかったのかも知んねえ)
面倒だと思った。御免だと思った。それも勿論嘘じゃない。
――けれどシアもイシュタルも嫌いではないから。
彼等が望む事に力を貸すのは、別に嫌な事でも何でもない。
「……認めてやるよ」
苦笑いを浮かべてヴァースは声に出して呟いた。
耳に入ってじんと脳まで届く自分の声。自分の気持ち。
自分自身にだけは嘘は付けない。――必死で生きるあの町を、守りたいと思う。
(となると、やっぱり後はリエンか)
自分を認めさせるなど、出来るのだろうか。イシュタルもオシリスも気楽に言ってくれるのだが。
(俺何もやってねえんだぞ)
カラムの事は勿論、上に立つ者の心構えすらも。
はあ、と溜息をついたその瞬間――どんっ、と鈍い衝撃音と共に建物全体がびりと揺れた。
(な――何だ今の)
発生源は外からだったような気がする。がらりと窓を開け外に顔を出すとまだ空気がびりびりと震えていて、植えられた木々が葉を揺らしていた。
「おぉ、すまぬな。起こしてしまったかのう」
「あ……?」
声は下から響いて来た。そちらに視線を落とすと、ヒルディア兵の格好をした男の襟首をリエンが掴んでいる所だった。兵に意識はなさそうであるし、少し引き摺ったような跡が地面に残っている。
(まさか、あんな子供が?)
状況は良く判らないが、まさかリエンが成人男子の体を片手で引き摺れる訳はあるまいと、一瞬浮かんでしまった想像を自分で打ち消した。
その間にリエンは近くに居た兵を呼び、倒れた男を押しつけるとぐっと膝に力を入れてしゃがみ込み。
「少し窓から離れておられよ」
「は? はぁ……?」
良く飲み込めないまま頷いて、言われた通り数歩後ろに下がる――と、気合いの掛け声と共にリエンが地から跳び上がり、当たり前のように二階にまで到達する。窓枠に手を掛けそのままするりと中に入って来た。
「っな――!?」