3―8
オシリスがどこの部屋に通されているのかなど、勿論イシュタルは知らなかった。だが別に焦ってもいない。夜は長いのだ、城を見回ってみればどこかで見付かる。
リンデンバウムが側にいれば例え幻術で身を隠していても見付けてくれるだろうし――と気楽に考えていた所で、ガチャリとすぐ先の部屋の扉が開いた。
「イシュタルだろう? 来い」
「――姉上」
辺りに人気が無いのを確認し、幻術を解くとオシリスが促すまま中へと入る。微妙な関係にあるヒルディアとカラムに所属している互いの軍師が夜中に密会など、何を勘ぐられるか判った物じゃない。まして実の姉弟なのだから尚更だ。
だというのに、目の前のオシリスは些か無用心に過ぎるように見えた。
「らしくない」
「何がだ?」
「表で俺の名前なんか呼んで。誰かに聞かれたらどうするんだ」
「別に構わないさ。――あぁ、やっぱり大きくなったな。二年も会わないと流石に。でも変わってない」
嬉しそうに笑ってオシリスは自分とそう変わらなくなった背丈のイシュタルを抱き締め髪を掻き回した。
「ちょっ、姉上!」
子供の頃は確かにこうして姉やリンデンバウムに頭を撫でられたものだが、流石にこの年になると恥ずかしい。
抗議の声を上げてオシリスを引き離し、動揺に上がった息を吐く。
「どういう事なんだ」
「何がだ?」
「構わないって、姉上はヒルディアの軍師だろう」
「まあそうだな。だが構わないんだよ。ヴァース・ファウストフィートはもう死んでる。リンデンバウムの仕事だ、間違いない。まぁ、もしかしたら生きてはいるかもしれないが同じだろうな」
うっすらと唇に歪んだ笑みを浮かべ――酷く嬉しそうな声でそう言った。
「――な、に?」
慣れ親しんだはずの姉の顔、姉の声。だというのにそこから発される全てが記憶にあるものではなくて、堪らない違和感を感じる。
「ヒルディアがカラムを抑え、そしてシルギードへ。ヒルディアに纏められた方が安泰だろう?」
「何を、言って……」
それは戦を前提とした話だ。確かにヒルディアの治世は悪くないが、それは動乱を起こしてまで成すべき事ではない。
カラムさえ今の状態を維持できれば無駄な戦乱など起こらないのだ。
「そう、だ。ヴァース。姉上、どうして。何でわざわざ戦を引き起こすような真似を。いや、それにしたって殺す必要はないじゃないか。カラムが必要なら譲渡するなり何なりすればそれで――」
「だって邪魔だろう?」
「……邪魔?」
オシリスの話が先程から飲み込めない。自分の頭はそれほどまでに鈍ってしまったのだろうか。――いや、むしろそうであって欲しい。
先を促す言葉を紡いだ口の中は乾いてカラカラだ。それはイシュタルが既にオシリスの言葉の先を想像してしまっているからだ。
「身の程知らずもいい所だ。イシュタルの眼に映っていいのは私だけ。そうだろう?」
「……まさか。本当に。本当にそれだけの理由で?」
自分の頭が鈍った訳でも何でもなかった。理解できなくて当たり前。オシリスの行動はシェアディールの――人としての道から外れてしまっていたのだから。
「私はイシュタルだけでいい。お前だけでいいから……お前だけは絶対に離さない」
「姉上……ッ」
内容に反してオシリスの口調は淡々としたものだった。冷たく凍りついてしまったその心そのままに。
二年前までの姉はこんな人ではなかった。
確かに信じていい者などいなかった一族の中でオシリスとイシュタルの依存度は度を超えていた。だがそれで他人を拒絶するような事は無かったし、何より自分の目的の為にシェアディールの知を使うような人ではなかった。
シェアディールの名を使って戦を引き起こすような人ではなかったはずだ――
(……俺のせいなのか)
オシリスの行動が真実自分を見付け出すだけの為であったなら、これは自分のせいなのか。
オシリスを傷付け、カラムが、シルギードが壊されそうなのは。
殺させたくないと願った、初めて選んだ主を喪ったのは。
逃げた自分のせいなのだろうか。
(ヴァースが死んだら、ファウストフィートはもういない)
カラムの自治は失われる。今おそらくカラムはシルギードにも見張られているだろう。――どちらがカラムを取っても、そこで必ず被害が出る。
ヒルディアが支配した所で、おそらくシルギードよりはマシ、という程度だろう。
「心配するな。私は必ずヒルディアを勝たせる。そうしたら私と共に来い。別にシェアディールでいる必要は無いんだ。私に必要なのはお前自身なんだから」
「悪いが、ヒルディアにカラムを売る気は無いぜ」
「!」
掛けたはずの鍵も開いて、音も立てずにいきなり割って入った声にイシュタルとオシリスは揃って振り向く。この数日で聞き慣れた心地良いテノール。自然と安堵の息と共にその名が零れた。
「ヴァース……っ!」
その背後に控えたリンデンバウムが再び部屋を閉ざして鍵を掛ける。
「リンデンバウム! お前!」
目を吊り上げ怒声を上げたオシリスが罵声を浴びせるより早く、つかつかと歩み寄ったヴァースが手を上げ彼女の頬を平手で打った。
手加減はしたが、それなりに力は入れて。
「……っ」
次期シェアディールの当主としてずっとリンデンバウムに守られてきたオシリスだ。自分が叩かれた事に唖然としたものの、すぐに目の前の男を睨み付けた。
「男が女に手ェ上げんのはどうかたァ思うんだが」
「……」
「けどまずは叩いておこうと思ってな」
「……ふん。カラムの一件を使われたのが気に食わないか」
唇を笑みの形に歪め言い捨てながらオシリスは若干の焦りを感じていた。
リンデンバウムは呪いで無力化出来る。だがヴァースとイシュタルと相手取って凌げるか。
(いや、出来る)
戦場で生き残って来た自分だ。実戦の経験などろくに無い二人ぐらい一人で凌いでみせる。
「勿論それもある。だが今叩いたのはお前個人にだ。何が軍神だふざけんな」
「シェアディールが自分の為に知を使うのが気に食わないとでも?」
「馬鹿か」
「馬……っ?」
おそらく生まれてこの方向けられた事は無いであろうその単語にオシリスは一瞬固まった。
「シェアディールは関係ねェ。自分一人の為に戦を起こそうなんて考えが誰であっても許される訳ねえだろ」
シェアディールに勝手に期待するのは人々だ。オシリスやイシュタルにそれに応える義務は無い。その名前を利用しない限り。
だがオシリスが行ったのは、例え自分に出来たとしても決してやってはならない行為。
「……そうだよ。戦を回避する為の、終わらせる為の知だろう、姉上」
「イシュタル……」
「俺はシェアディールが好きじゃない。だから逃げたんだし。だけどその一線を越えてしまったら今までの犠牲を本当に踏みにじる事になるじゃないか」
軍神シェアディールを造り出す為に贄の樹となった者達は勿論、勝利までの過程で犠牲となった全ての者達に対して、今のシェアディールには責任がある。
「……要らない」
ぽつりと、感情を置き忘れてきた声でオシリスは一言呟いた。
「意味なんか要らない。そんなものに価値なんか無い。私はお前だけでいいんだ」
「何でだ」
「……何故?」
静かに問い掛けられたヴァースの言葉をオシリスはぼんやりと復唱する。
「以前のお前はそうじゃなかったんだろ。どうしてイシュタル以外に価値が無いなんて思うんだ」
「……やめろ」
子供の頃から共に居る、真に信用出来る者だから――
確かにイシュタルへの好意はそこから来ている。では、他の者の価値を認めなくなったのはいつからか。
「何故イシュタルにだけ価値を置く」
「イシュタル、は……」
心の震えが声に現れ先が続けられない。
(やめて)
この男は怖い。美しい人ならざるその瞳に断罪を告げられそうな気がして。
(見たくない)
『それ』を見詰めるのが、認めるのが怖くて戦いた。しかし今まで自分をきつく射抜いていた紫の光がふと和らぎ優しく微笑して、強張っていた体から力が抜ける。
(あ――……)
「イシュタルを裏切らなかったから、だろ」
「……っ……」
言われた一言にオシリスは口元を押さえて息を詰める。
「認めたくなかったんだろ。リンデンバウムを傷付けたなんて」
自分も相手も裏切るはずがないと心から信頼していた相手。多くの命とリンデンバウム。その二択を迫られた時、自分は人の命を取ってしまった。リンデンバウムの心を無視して、よりによって『贄の樹』として服従させてしまった。
間違ってはいなかった。シェアディールとしては。その結果こそが望まれていたのだから。
だがオシリス・シェアディール個人としては――
「……オシリス」
愕然とした表情でリンデンバウムはその名を呼ぶ。
信頼を主従に置き換えてしまえば、裏切った事を認めなくて済む。
リンデンバウムが自分から離れる事は有り得ないから。
「そろそろ認めとけよ。まだ全員が全員の事を好きでいるうちに」
取り返しのつかないものを失う前に。まだ十分に引き返せるうちに。
「ふ……っ」
押さえた口から小さく嗚咽が零れ出る。きつく閉じた目の端から溜まった涙が頬を伝った。
「――……オシリス……」
「ごめ……っ、なさい、……っ。私……ッ」
「もういい。……悪かった」
自分が苦しかったのと同じぐらい、自分に拒絶されたオシリスも痛かったのだ。
「悪かった。お前に謝らせなかったのは俺だ」
「ぅ――っ、ぅ、うああぁぁあああっ」
リンデンバウムの胸に縋り、二年前逸してしまった涙を流す。その肩を抱いてあやす様に優しく頭を何度も撫でた。
「……ヴァース。――……っの、有難う」
「別に。いいからお前も行って来い」
「あぁ。また後で」
「あぁ」
すいと踵を返すヴァースの背を見送って――イシュタルも二人の元へと歩み寄った。