3―7
(ん)
すっかり陽も落ち、大方の人間が寝静まった頃、まだ寝付いて無かったヴァースの眼にほんの僅かではあるが魔力の歪みが見えて顔を上げる。歪みの本体は壁を隔てた廊下側。
(イシュタルだな)
行ったんだろう。そう納得すると同時にそ、と肩に手が置かれた。
「!」
慌てて振り払い立ち上がると、薄く笑みを浮かべてリンデンバウムがそこに立っていた。
「よく来たな、ヴァース。待ち侘びていたぞ」
言いながら両手に空刃を纏わせ一歩近づく。リンデンバウムならば他に幾らでも扱える魔術があるだろうにわざわざ使い勝手の良くない初級魔術を好むのは己の手で斬る感覚をより近く味わいたいからだろう。
「待て。一つ聞かせろ」
「いいぜ。何だ。手短にな」
「何で今、シェアディールは俺を殺そうとしてる」
「私怨だよ」
言った通り答えは返って来た。過ぎる程に簡潔に。
だがその答えはヴァースに頷けるものではなく、むしろ全く判らない。
「お前が俺を殺したいってのは判る。だが」
「生憎、そっちは俺のじゃない」
たんっ、と軽く床を蹴ったリンデンバウムに全身の神経が一気に集中する。
前回は全く付いていけなかったリンデンバウムの動き。冷静な分、今度は何とか動きだけはその脅威を覚えている眼が必死に追い掛けた。
剣を抜きそびれた鞘のままで空刃を受け止め、そのまま力任せに鍔競り合う。
まだ手加減されている。相手をいたぶる事を目的とした絶対的な強者の余裕。
「中々センスいいじゃないか」
「――っ。シェアディールに恨まれる覚えはねえ! 特にテメェと初めて会った時はなっ。そんなんで恨みとか言われて納得できるか!」
「ああ、あの時は別に何でもなかったさ。俺の主はな、イシュタルを見付け出したかったんだ」
不意に真正面から向け合っていた力の方向が変わり、瞬間行き場を無くしたヴァースの力が浮く。懐目掛けて突き出されたリンデンバウムの手刀を、バランスを崩しそうになった体を何とか踏み止まらせて後ろに下がって距離で逃れる。
「ヴァース・ファウストフィートが死ねばここは戦場になるだろう?」
「……な、に……?」
リンデンバウムが口にしたその言葉に、ヴァースは耳を疑った。
「……何、だと?」
「だから――お前が死ねば争いが起こるだろう? イシュタルがこの辺に来てるのまでは掴んでたからな。争いが起こればきっとイシュタルは表に出て来る――とのお考えだそうだ」
「何、を、馬鹿な!」
シェアディールの知は弱き民の為の物――
そう誇りを持って言ったイシュタルの言葉に嘘は無いのだろう。
そのシェアディールの当主が、肉親を見付け出すその為だけにファウストフィートを消そうとしたと、そう言うのか。
「ま、やる気になったらやって来いレベルだったからな。俺もそれぐらいのノリだったさ」
しかしいざ殺しに行ってみれば中々楽しみ甲斐の在りそうな獲物で、もっと美味しく仕上げてみたくなったのだ。
「じゃあ――今は何だよ。イシュタルは戻るって言ってるぞ!」
「オシリスはそれ知らないしな。それに例え知った所で変わりゃしないさ。イシュタルがお前に付いた時点でな」
「何……?」
「可愛い弟が自分以外を目に映すなんて、許せないんだそうだ」
(――っ。それ、だけでっ)
それだけで、戦の火種となりうる事を自らの手で起こそうというのか。
(壊れてる)
イシュタルの信頼する姉の姿は、もうとっくに壊れていたのだ。
「もうお前がファウストフィートかどうかは関係ない。どこに逃げようが許されないぜ!」
「っあ!」
一歩踏み込んで来たリンデンバウムがはるか間合いの外から空刃を振るう。その長さはいつの間にか変化しており、話への衝撃に気を散らせていたヴァースは妖精の瞳に映るそれに気が付かず対応出来なかった。
手から剣は弾かれ無防備になった体を蹴り飛ばされる。
魔力を纏ってこそいなかったが、強靭な筋力と適切なスピード、そして金属で補強された靴での蹴りは十分脅威だ。
「がッ」
受け身も取れず吹っ飛ばされたヴァースの前に悠然と立ち凶悪に笑う。
「ま、今更逃がさないけどな」
「――っそれで、いいのかっ、テメェは」
「何が」
「シェアディールの当主がんな事してて、それでいいのかテメェは!」
ヴァースの叫びに冷笑を浮かべリンデンバウムは肩を竦める。
「シェアディールの考えがどうだろうが護り樹には関係ない。元々俺は人殺しの為に買われて教育されてきたんだ。狂人に今更常識が通じる訳ないだろ?」
「シェアディールが、じゃねえ。テメェの義兄妹が、だ」
「……」
言われた言葉を解するのに一瞬間が空き、次いでその刹那リンデンバウムは表情を凍らせた。
「……イシュタルにでも聞いたか。よくよく人に懐かれる奴だな」
「戦争を本当に無くしてやろうって、護り樹なんかなくしてやろうって、そんな夢があったんだろうが」
「昔の話だ」
吐き捨てたリンデンバウムの眼に怒りは無かった。ただ諦めと――優しかった時間が生み付けてくれた悲しみだけが隠せずに過ぎる。
「たかが夢だ」
一瞬の泡沫。夢だったから自分に優しかっただけ。
(その証拠に見るが良い)
今オシリスは躊躇いなく自分を贄の樹として使うではないか。所詮は使う者と使われる者。
――何も変わりはしない。
「イシュタルは今もお前を慕ってる」
「……っ……」
「変えるつもりで戻るそうだ。シェアディールに」
「……だから、なんだ……ッ」
「変えたいんだって。お前もそうだろ」
当然だ――
考えるまでも無く、誰でもリンデンバウムの立場なら頷くだろう。呪いで縛られるこの立場から解放されたくない訳が無い。
だがヴァースの言葉は贄の樹という立場ではなく、リンデンバウムへ向けて言われた言葉だ。
「お前の立場なら、シェアディールを恨んでいいはずだ」
「……恨んでるさ。そう見えないか?」
「見えねえな。お前は裏切られ続けてる今だって何も恨んじゃいねえんだ」
シェアディールに対しては、どうか判らない。それこそ恨んではいるのだろう。
だがかつてオシリスとイシュタルと、三人で語り合った夢を今壊し続けているオシリスにだって、リンデンバウムは怒りも恨みも抱いていないのだ。
――ただ、オシリスが自分を贄の樹として扱うのが悲しいだけ。
「お前は」
イシュタルを大切にしているのは初めての遭遇の時から明らかだった。けれどそれと同じぐらい。
「今も当主が大切なんだ」
「――だから、何だッ。それで何が変わる訳も」
セリフの途中でリンデンバウムの服を掴み、よろけながら立ち上がる。動作は緩慢で振り払える時間は十二分にあった。
しかし咳き込みながら立ち上がり、襟を掴み直してその眼を合わせられるその時までリンデンバウムは動けずに立ち尽くす。
絶句して自分を見詰めるリンデンバウムの視線をしっかりと受け止め口を開く。
「逃げんな。諦めたくねえくせに、イシュタル一人に押し付けんな」
(……あぁ。綺麗だ)
強い意志で煌めく澄んだ紫の瞳に、何だか無性に笑いだしたくなった。
「……お前は。思ってたより嫌な奴だったな」
手の平で顔を覆ってリンデンバウムはくつくつと笑う。
「お前の瞳が意志を持てばさぞ壊し甲斐があると思ったんだが」
いいや、壊し甲斐はある。自分の眼は間違っていなかった。この眼を見ながらゆっくり生命を削っていくのはそれはもうゾクゾクするだろう。
だがそれよりも――
「お前の眼は強すぎる」
何故知られたくない――しかし気付いて欲しい心の内が、視えるのだろう。
「仕向けておいて何だが、性質が悪い」
「っ」
蹴られた患部に手を当てられ身を引こうとするが、リンデンバウムが使っているのが治癒術なのに気がついて彼を見上げる。
凶悪な歪んだものではない、おそらく彼本来のものだったのだろう、淡く微笑したリンデンバウムは敬意と好意の混ざった眼でヴァースを見詰めていた。
「さて。行くぞ」
「って、俺もかっ?」
先程までは苦しかった喋るという行為も今は支障なく行えた。
すいと身を離し先に立って歩き出すリンデンバウムの背を眼で追って――はあと息を吐いた後でその後に付いて歩き出す。
「お前だってオシリス説得しなけりゃ困るんだろうが。今のままだと俺が逆らったって意地でもお前を殺しに来るぞ」
「そうさせたのはテメェだろうが……」
「そう言うな。そのお陰でカラムも守れるんだからお相子という事にしとこうじゃないか」
「高えよ! ったく……ッ」
がしがしと頭を掻いて――しかし今は確かにそう悪い気分でもなかったから忘れる事にした。
「で? あっさり決めたが、いいのかお前」
「ん? あァ」
リンデンバウムがオシリスに逆らうという事はイシュタルが抗議するのとは訳が違う。彼の体に刻まれたシェアディールに逆らわせない為の呪いが生きている限り。
「それはまあ、俺も痛みに善がって悦ぶ趣味は無いんだがな……」
ふう、とわざとらしい作った溜息を吐いてから首を傾け後ろのヴァースへ視線を向ける。他の誰かに良く似た表情で。
「あんまり逃げるの、好きじゃないんでな」
「――っ」
そのセリフはつい最近聞き覚えがあって、ふわりとヴァースは唇を綻ばせた。
「お前らやっぱ、兄弟だろ」