3―5
リンデンバウムの到着から更に四日ほど遅く、ヴァースとイシュタルはヒルディアの首都にまで辿り着いた。
普通に急いでの順調な日数。旅慣れしていないヴァースにしてみれば上等といった所だろう。
身形は整える必要があるので目立たないよう王城から離れた宿を取って一日休む事にした。
「今更なんだが」
「ん?」
ようやく腰を落ち着ける事が出来てほっとして、ヴァースはふと気が付いた疑問を口にした。
「お前、いいのか? シェアディールから逃げてきたんだろ?」
「うっわ本当に今更だな。それ言うなら普通出る前だよな」
「煩え」
出る前はもう自分の事で一杯一杯だったのだ。今もそうといえばそうだが時間が経てば少しは冷静になる。
「うんまあ、戻ろうかと思ってる」
「……そうか」
「や、勿論カラムの一件が片付いてからな。流石に途中でほっぽり出したりしないって」
ぱたぱたと左右に手を振って――イシュタルは苦笑いし、パタリと手を落とす。
「シェアディールの最終試験ってやつがさ、まあ、実戦なんだよ。シェアディールの名前使わないで、戦争やってる所に行って平定してくるってやつ。俺は受ける前に逃げたけど、姉上の試験に付いて行ったから……知っては、いる」
息を付き、随分昔の事を思い出すかのようにそう言った。二年前の事だから、イシュタルの年齢にしてみれば十分昔の事だ。
「子供の頃はさ、良かった。本当に。勉強だけしてれば良かったし」
伝え聞く功績は大きく輝かしいものばかりで、子供心に一族を誇りに思ったものだ。シェアディールの名に恥じぬようにと、夢中で勉強にのめり込んだ。
「周りの大人たちは厳しかったし、騙そうとしてるかそうじゃないかとかの見極めも訓練に入ってたから二人だけしか信用出来る人はいなかったけど、二人で充分だった」
「二人?」
数が合わずにヴァースは首を捻る。イシュタルと姉なら、お互いで一人のはずだが。
「あ、俺と姉上とリンデンバウム」
「……あぁ」
納得した。
(って事は、イシュタルを心配してたあれはやっぱり本当だったんだな)
そしてイシュタルの親しげな呼び方から見ても二人の関係に嘘は無いだろう。殺害対象として眼を付けられているヴァースとしては複雑だが。
「仲が良かったんだ、本当に。リンデンバウムが護り樹の候補として俺達に付けられたのなんて俺が生まれてすぐだったし」
生まれた時から姉とリンデンバウムと一緒にいて、そして自分達よりも年も力も上な頼りがいのある絶対の守護者に信頼を置くのに理屈は無かった。
「兄弟みたいなもんだった。三人で」
(……過去形?)
イシュタルの口調からして、まだリンデンバウムに親しみを感じているのは間違いない。――リンデンバウムの方も、おそらく。
……では、当主は?
「――最終試験の時、リンデンバウムがミスを犯したんだ。まあ、俺達全員の、かな」
若年ながら歴代の記録を大きく塗り替え女の身で登り詰め、オシリスはリンデンバウムの呪いの発動権限を手に入れた。
少しでも早く、彼を苦痛から解放する為に。もう『贄の樹』などとして使わせない為に。
「殺さなきゃいけない人間を取り逃がした。そいつを手引きしたのはその時のシェアディールの当主だった」
それを知ったのは、全てが終わった一年も後だったけれど。
失態はリンデンバウムの口からではなく結果で現れた。多大な損害を出して。
正に丁度その時、リンデンバウムは呪いの発動でのたうち陣中に戻る事すら出来なかった。
まさかと思っただろう。オシリスの意向は叶えられ、発動権限の全ては彼女にあると思い込み、苦痛からの解放に安堵した直後だったから。
「実際に発動させたのは別の……当主、だったんだけどさ」
冷静だったら、そんなはずがないという理性が勝ったかも知れない。もしくは掛けられた呪いの中に精神を蝕む物があると知っていればまた結果は違ったかも知れない。
陣に戻ったリンデンバウムはオシリスに問い掛けた。何故、と。失態の責めは勿論負う――だがそれが何故『贄の樹』への罰なのだと。
「……急がなくちゃならなかった」
切り抜ける手はオシリスの中にあった。急げば間に合う。そして――その為にはリンデンバウムの力は必要で。
「会話は短かった」
呪いで感情の高ぶったリンデンバウムと、初陣で、やはりいつも通りでは無かったのであろうオシリスの間の疑心は最悪の形で決着がついた。
オシリスが呪いを発動させ、リンデンバウムを屈服させる、という形で。
「……贄の樹なんて、思った事無かったのに」
自ら発動させた呪いに喘ぐ姿に、その時オシリスははっきり蒼白になっていた。
『所詮お前も俺を贄の樹として使うのか――』
怒りと絶望と落胆と、綯い交ぜになった視線に射抜かれ愕然としたオシリスを置いてリンデンバウムは行った。『シェアディールの命』をこなす為に。
転がる様に壊れて行くオシリスとリンデンバウムの関係が怖かった。比例するように自分に執着する姉も。そしてイシュタル自身の最終試験が巡って来た時――怖くなって逃げ出したのだ。
「多分、主従じゃなかった姉上とリンデンバウムの関係を清算させたかったんだと思う」
「……イシュタル」
「変えようって、話してた」
ぐ、と手に爪が食い込む程に強く握って、ぽつりと呟く。優しかった時間の夢物語。
「生き残って、当主になって――シェアディールを変えようって。『贄の樹』なんて作らないで、無理に軍神なんか作らなくたっていいじゃないかって」
人としてのリンデンバウムと親しくなったが故の、人としての当然の想い。――しかし。
「その後も多くの戦場を見る事になって、知が力になる事を知った」
そう、軍師一族シェアディールに期待する声は大きい。力が無ければ何も出来ない。どんな理不尽にも。
もしその時に、手を貸し、勝利へ導いてくれるものがいたなら。
「……」
「必要か不必要かって言われたら、シェアディールはあった方がいいと思う。そしてその為には、確かに護り樹は必要なんだ」
非常に狙われやすい身を守る為、そして力無きものの代わりに力が必要なプランを実行する為に、優秀な、そして忠実な実力者が必要なのだ。
「それでもやっぱり、今の形は違うと思う。だから、俺はシェアディールに戻るよ」
「いいのか」
「ああ。逃げてきといて何だけど、俺やっぱり逃げるの好きじゃないみたいだから」
(だって思い出しちまったし)
逃げて行くうちに身に染み込んでくる逃げる為の理由付け。それもイシュタルの中では嘘ではなかったけれど。
「頑張ってみようと思う。どうにもならない状況でも頑張ってる人なんか、結構近くにいるもんだしさ」
自分に笑い掛けてそう言ったイシュタルにヴァースは胸がざわつくのを感じた。
(こんな……何の覚悟もしてねえ俺が)
イシュタルはそれを知っている。知っていて、それでも覚悟を決めたのだ。
自分はどうだ。状況に流されるままこんな所に来てしまっている。自覚すら殆ど無いのに、カラムの領主としてヒルディアの王に会おうというのだ。
(――……酷ェ事、してる)
ファウストフィートに就いただけならばシアに脅されたでいいだろう。しかし今ここにいるのはヴァース自身の行動の結果。イシュタルの道を変えさせたのは間違いなくヴァースだ。そしておそらく、これからカラムの先を手に担う。
(何……やってんだ、俺)
「ヴァース?」
「っ。――あ、な、何だ」
「いや、そろそろ休もうかって。明日は疲れると思うぞ。慣れない事だから」
そうだ。迷う暇もなく明日なのだ――と重い気分で認めた後はたと気が付いた。
「そういやヒルディアに行くって連絡したか?」
「してる訳ないだろ。カラムからヒルディアに使者なんか送ったら誰に見られるとも知れないじゃないか」
「おいっ?」
同じ理由でここに来る直前にシルギードの使者に門前払いをくらわせたのに、平然とイシュタルはそう言った。
「大体ここまで俺達だって急ぎで来たんだから使者と並んで辿り着いたって意味無いだろ」
「明日は無理じゃねーか……?」
「ファウストフィート本人が来てるなら会うさ」
今のカラムは二国間にとってかなり重い。領主自らが出向くというのは少々軽い様な気がしなくもないが、元々カラムは国だの体面だのに拘る必要のない場所だ。
「そうじゃなくても俺の顔だけでも姉上は会ってくれると思うけど」
「……そうか、そりゃそうだな」
連れ戻そうとしていた弟が戻って来て門前払いはないだろう。ヴァースにした所で殺したい相手だ。飛んで火に入る何とやら、だろう。
(そうか。そういや俺ここで殺されるかもしれないんだな)
オシリスの考え次第では、イシュタルとて信用出来ないのだ。
――まあ、イシュタルなら楽に殺してくれるだろう。カラムの先も心配しなくて済む。
(それならいいか)
いっそその方が楽でさえあるかもしれない。
――苦しいのだ。
イシュタルの事もシアの事もカラムの事も。考えようとする自分が嫌だ。
「じゃあ、そろそろ休む。また明日な」
「ああ」
イシュタルと別れて取った部屋へと行き、ヴァースは考えるのを放棄して眠りについた。