3―4
「イシュタル?」
「え、あ。な――何だ」
「いや、俺がヒルディア行くとかって、バレても大丈夫なのか?」
何しろカラムの通行は基本的に自由。誰が入り込むにしてもこれ程楽な場所は無い。
すぐにでも襲ってきそうなイシュタルの物言いにヴァースは不安になってそう聞いた。自分の死による結果ではなくたって、制圧され、金品を奪われたら同じなのだ。
「それは大丈夫じゃないが心配無い。俺幻術得意だから。ヴァースは元々何もしてない領主だしシアがいりゃ何も問題ないだろう」
適当な人間をヴァースの替え玉にしてもばれはしない。念のためにイシュタルの替え玉も置いておいた方が良いだろう。
ヴァースがヒルディアに発ったとなればおそらく周辺に待機させてるであろう少数の制圧部隊が襲ってくるだろうが、動かなければ予定通りに行動するはずだ。強行手段を取られる方が余程困るのだ。
(名乗らない方が良かったか……いや、どっちにしろ俺の名前が狂王に伝わるのは使者がシルギードに帰った後だ。大丈夫――やってやる)
「出来る限り急ぎたい。明日からは強行軍になる。今日はゆっくり休んでくれ」
「……判った」
イシュタル自身はまだこれから準備が増えたのだろう、説明を終えると応接室を出て行った。
(俺も戻るか)
この堅っ苦しい服もさっさと脱ぎたい。立ち上がって扉のノブに手を伸ばした所で、先に廊下側から開かれた。
「あ――」
「シア」
「ヴァース様。お疲れ様でした」
「別に。――あぁ、そーだ。イシュタルから話されるだろうけど、明日からヒルディアに行って来る」
「ええ、その予定でしたね」
頷き、シアは躊躇った様に口を閉ざし――ややあってから言葉を続ける。
「――私は」
「カラムに残ってもらう。判ってんだろ」
「い――いえ、でも」
シアが一番気に掛けているのはカラムだ。イシュタルとてシアにはカラムに残ってもらわなくては困ると言うだろう。
しかしシアにはヴァースをカラムに連れて来たという責任感が心の中にある。ましてヒルディアにはヴァースの命を狙っている輩が間違いなく存在するのだ。
「言ってんだろ。女に守られる程弱くねェ。お前が守りたいのはカラムだろうが。本体無くしてどうすんだ」
「――……はい」
カラムを守る為にヴァースを巻き込んだ。ヴァースを守る為にカラムを捨てる事はシアには出来ないし、してもいけない。
「申し訳ありません。――お気を付けて」
悔恨の想いのまま、唇を噛み締めるだけで気持ちを抑え頭を下げた。
「あぁ。しばらく空ける。じゃあな」
自分の横を過ぎ去っていくヴァースを見送って、シアは動き出した事態に不安な息をついた。
(何がどうなっていくのか、私には判らない)
自分の手のなんと小さな事だろう。一度動き出してしまえば流れも見えずに流されるだけ。
それでもコントロールしようとするイシュタルの視野にすでにシアは感服してた。名前に対する期待。それはイシュタルが恐れた通りの民の姿。
そしてそれこそが軍神シェアディールの存在意義。
(私が守りたいのはカラム……。守らなくてはならないのはヴァース様……。この中で本当に守りきれるのか……。いえ、守らなくちゃならない。私が動いたのだから)
ふるりと首を振って足を引っ張る不安を振り払うと、シアは来たついでにテーブルの上に置かれたままのカップを片付け応接室を後にした。
ヴァースとイシュタルがカラムを出た数日後、本来なら急いでも一週間強は掛かるヒルディア王都までの道程をリンデンバウムは半分程の時間で辿り着いた。途中馬を何頭か潰しての強行の結果である。
ふわりと馬から降り立ってヒルディア城内の敷地に入ると、月光の下に女の影が伸びていた。
「遅かったじゃないかリンデンバウム。しかも一人で帰還とは。遊びに夢中で私の命を忘れたのか?」
顎をしゃくった居丈高な女の物言い。彼女の面立ちはイシュタルによく似ていた。
「カラムの領主はどうした?」
「まだ生きてる」
「……どういう風の吹き回しだ? まあ別に構わないけどな。一応聞くが、イシュタルはいなかったんだな?」
本気でリンデンバウムが自分の命を忘れる等とは彼女は思っていなかった。リンデンバウムはシェアディールの当主――オシリス・シェアディールの護り樹だからだ。
ヴァースの命は何としてでもという訳では無かったから、別段見逃してきた事へも然程の興味は無い。しかし。
「――……いや」
「……何?」
既に半分以上背を向けかけていたオシリスだが、リンデンバウムの呟きのような否定の言葉に足を止めて振り返った。
「何だと?」
「イシュタルはいた。ヴァース・ファウストフィートの元にな」
実際にはリンデンバウムがそうさせたと言っていいが、その辺りは一切省いた。
「お前……ッ。どういうつもりだッ!」
「っがッ!」
かっと眼を見開いたオシリスの怒声と共にリンデンバウムは体を折って苦痛に呻く。
幼い時、シェアディールに飼われた直後に刻まれる禁術二十六法の呪い。オシリスの意思一つで発動するそれは強靭な肉体と魔力、精神力を持つリンデンバウムをも容易く屈伏させる力がある。
「私はイシュタルを連れ戻せと言ったはずだ!」
「ぐっ、うぅ……ッ」
「ヴァース・ファウストフィートの元に居るなら尚更だ! お前、私に逆らうつもりか!」
「あ、あ・ァああアァァっ!」
二十六種の異なる呪いのうち、更に二種を加えて発動された。痛み以外の全てが押し流され、自身が悲鳴を上げている事すらリンデンバウムの意識には無い。
尤もこうされるのを判っていてヴァースとイシュタルを見逃して来たのだが。
「っは、……っ、は……ッ」
体力も精神力も根こそぎ削られて、呪いを収められた後も立ち上がる事が出来ず地面に転がったまま息を整える。
「なぜ連れて来なかった」
「――……たまには、自分の、趣味を、優先させただけだ……」
くっと唇を吊り上げて笑ったリンデンバウムにオシリスは躊躇わず手を上げた。抵抗を全て奪われて張られた頬が赤く染まる。女の平手だ、大した事は無い。
「私を裏切るのか、リンデンバウム。一つ二つの呪いでは温いという事か?」
「裏切るつもりは、別にない……。一生呪いを発動されたまま生きて見せしめにされるのは御免だからな」
シェアディールを裏切った護り樹の末路は幼い頃から刷り込まれている。自分の護る主を先に失っても同じ事。
(何が護り樹だ)
金で買われた肉の盾。俗称の『贄の樹』の方が余程らしい。
ようやく鈍痛も少しずつ治まって来て、リンデンバウムは震える腕で体を支えながら身を起こす。その姿を冷徹に見下ろして――彼が立ち上がってからオシリスは口を開く。
「リンデンバウム」
「……何だ」
「私を裏切るつもりはないんだな」
「あぁ」
じっとリンデンバウムを眼で射って――オシリスは憎悪に近い感情を乗せて吐き出した。
「ヴァース・ファウストフィートを殺せ。必ずだ。その首私の目の前に持って来い」
「心配しなくても今頃イシュタルと一緒にこっちに向かってるさ」
「イシュタルと……か。何故……」
ギリ、と唇を噛み締めオシリスはリンデンバウムを見据えもう一度口にした。
「殺せ。いいな」
「判った。……イシュタルはどうする」
「連れて来い。始めからそう言っているはずだ」
「連れ戻してどうする。逃げた責でも負わせるのか」
「ふん、何を」
リンデンバウムの言葉を一笑に伏し、オシリスは初めて表情から険を拭って微かに微笑んだ。
「シェアディールの当主は私だ。誰にも何も言わせん。私が継いだんだからそれで十分だろう。――だから戻って来いと言うだけだ。イシュタルは私が守ってやる」
「……」
(イシュタル。お前は別にシェアディールじゃなくていい。お前がお前であればそれでいいんだ。お前は……お前だけが私の……)
目を閉じ、思い出すのは幼かった頃の優しい時間。そして今も、ただ一人だけ変わらずにいる絶対の聖域。
(だから――お前は絶対誰にも渡さない)
今イシュタルが心を砕いているだろうヴァースへ歪んだ殺意を向け、パキリとオシリスは手近にあった木の枝を手折って潰すように握り締めた。
「戻るぞ」
「ああ」
手から落とした枝を踏みつけ与えられた部屋へと戻るオシリスの後に付き従いながらリンデンバウムはうっそりと唇を歪ませた。
(早く来い、ヴァース。これでお前に逃げは無い。例えカラムを放棄したとしてもだ……!)