2―5
「――ヴァース、俺な、まだシェアディールじゃないんだ」
「?」
自分を嘲るように、情けない笑みを顔に張り付けてイシュタルはそう言った。
「最終試験、怖くなって逃げてきたんだ。一族から。人の命を預かるのが怖くて逃げたんだ。軍神なんて名前付けられて、期待されるのが怖かった」
(リンデンバウムがこいつを探してた理由はそれか……)
試験最中に逃げ出した事がシェアディールとしてどの程度責められる物なのかヴァースには想像つかないが、少なくともリンデンバウムが望んでいるのはイシュタルが咎を受ける事ではないだろう。
イシュタルの安否を気遣った時にだけ見せた表情はおそらく本当のものだったから。
そしておそらく、当主だという姉も。血縁ならば飛び出して行方知れずになった弟がさぞかし心配だろう。
「笑えるよな。その為の知識も技術も、覚悟だって教わって来たのに肝心なものが何にも身に付いていなかったんだ」
「覚悟、か?」
それなら自分にだって無い。そう訊ねたヴァースにイシュタルは首を振って自分の胸を指す。
「心が」
「心?」
「シェアディールの知は理不尽な支配者に抗う術を持たない民の為にある。それは人が人を助けたいっていう、ちょっとした善意から生まれるものだ。――俺は自分の恐怖でそれを忘れて逃げたんだ。それをする為の全てを教わってたのに」
そしてもう自分には無理だとも思っていた。姉がもう継いでいるんだから良いじゃないかとも思っていた。
(――そんな事じゃなかったのに)
そして逃げて、偶然立ち寄った町に知も力も術もないまま、それでも自分の命を晒して町と人とを守っている領主を知った。
知も力も覚悟すらなくて、それでもほんの少しの善意で人の為に立ち上がっているひと。
何も持っていないのに、ほんの少しの善意の為に逃げなかったひと。
「お前のお陰で思い出した」
子供の頃、勉強の全てが好きだった。
自分達の力で本当に戦争を無くして行こうと三人で夢を笑って話し合った。
「だからカラムに力を貸そうと思ったんだ。――何よりも、お前の為に」
「って、殺すかも知れない相手に言うセリフじゃねェぞ」
「そうだな。――全くだよ」
だが本当に必要であるならば、シェアディールの誇りの為にイシュタルはやるつもりだった。個人の感情で全体を見失ってはいけないのだ。
「でもそれは最後だ。本当にどうしようもない以外は――俺は必ずお前を助けて見せる」
それほど真摯な思いを向けられても、応える事など出来ないというのに。言葉に詰まったヴァースを助けるように、静かに二回扉がノックされた。シアだ。
「ヴァース様、宜しいですか?」
「あ、あぁ! 大丈夫だ」
「失礼します」
妙に勢いが付いてしまったが、扉を開けて入って来たシアは然程気に止めていないようでほっとする。
「時間、もういいか?」
シアが訪れたという事はそうなのだろうと思いつつ、一応イシュタルはそう確認してみる。しかしシアから返って来たのは肯定では無く戸惑ったような表情。
「いえ、あの……シルギードから使者の方がいらっしゃってるんですが。ヴァース様に会いたいと。……お会いして頂いて宜しいですか?」
シアとしてはあまりヴァースに負担はかけたくないのだが、相手方がヴァースを望んでいる以上無視するのは蔑ろにしている事になってしまう。対外的にも良くない。
「……仕方ねえだろ。行――」
「冗談。ふざけるなって言って追い返せ」
『はぁ?』
きっぱりと言い放ったイシュタルにヴァースとシアは揃ってぎょっとした声を上げた。
「そ、そんな喧嘩を売る様な真似、出来る訳が」
「……お前等本っ当政略向かねーわ。いいから今日は追い返せ。絶対大丈夫だから。三日後ぐらいに出直してこいって言ってやれ」
「け、けど……」
シアは躊躇ったまま頷けない。
シェアディールだと名乗ってはいてもそもそもそれを証明するものなど何も無いのだ。会ったばかりのイシュタルを信用しろと言う方が無理がある。
「ヴァース」
イシュタルとてシアの心理は良く判る。だからこそ、その主であるヴァースに決断を求めた。
「……っ」
イシュタルから促され、ヴァースは小さく息を飲む。決定権を持つのは自分なのだ。
――イシュタルを連れて来たのは自分だ。
そして実際自分やシアよりは余程上手くやってくれるだろう。
「判った。シア、イシュタルに従ってくれ」
「――……判りました」
す、とヴァースに対して頭を下げ、それを伝えにだろう、シアは使者の元まで戻って行った。
「信じろ。大丈夫だから。軍神シェアディールの知の力、見せてやるからさ」
「俺がお前に声かけたんだ。お前の判断は信じる」
「あぁ、任せろ」
嬉しそうに笑って答えたイシュタルに、その知略への信用とは別問題でヴァースは心の内に不安が沈むのを感じていた。
(何をしてるんだ……俺は……)
一体自分は本当に、何をしているのだろう。
何の覚悟も、無いというのに。