プロローグ
コン、コン。
滅多に――というよりもまず人など訪れる事もないであろう、森の外れの掘っ立て小屋。見よう見真似、手探りでヴァースが作っただけの物だったから倒れないだけ上等だという、そんなレベルの代物だ。
その戸を叩く、規則正しいノックの音。
(何だ?)
来客などヴァースがここに移ってから初めてだった。勿論予定も無い。
(迷ったとか?)
こんな金も何も無さそうな小屋に物取りは無いだろう。町までは少々遠いから迷い込んでしまった誰かかもしれない。
そんな事を考えているうちに、二回目のノック。
道案内をするだけならそう時間もかからない。それより去る気配のないノックの方が鬱陶しい。
万一にでも押し入られるのも面倒だ。
鍵代わりのつっかえ棒を外し、扉を開く。そこに立っていたのは女だった。
「ヴァース・ファウストフィート様ですね」
ぴしりと隙無く背筋を伸ばした彼女に相応しい、凛とした声音。淡い紫の髪を頭の後ろで一本に纏めただけの簡単なスタイル。黒に近い濃藍の瞳が予想外の来訪者に呆けているヴァースに逸らされる事無く注がれている。
真っ直ぐ見られるだけで女性の眼には力がある。慣れていないせいもあるがヴァースはそれが少々苦手で自分から少し視線を逸らした。
「シア・ミディアラと申します。貴方のお義父上であるリカルド・ファウストフィート公が失踪致しましたのでお迎えに上がりました。私と共にカラムに戻り、ファウストフィート公爵を継いで下さいませ」
「――は、ァ?」
唖然とした声を上げ、内容を一拍遅れて理解してから扉を開けてしまった事を激しく後悔した。
「冗談じゃねえ。大体俺にファウストフィートの血は流れてねえしとっくに縁切りしたも同然だ。その俺が何で領主なんか」
「されたも同然と実際に縁切りされたのとでは天と地程違います。ファウストフィートの名を持つのは貴方だけなのです。否と仰るなら実力で連れて行かせて頂きます」
シアの目は本気だった。腰に佩いた剣に手を掛け次のヴァースの言葉次第ですぐさま実行できるようにスタンバイしている。
「私と共に、カラムにお出で下さい」
「……脅しだろうが……」
ヴァース自身、幼い頃は教養の一端として武術を嗜んだ事がある。無力な自分というものが嫌いだったから、我流で今も続けている。
――だから何となく判る。彼女は自分よりも強い。加えてこちらは丸腰だ。
「……行きゃあいいんだろ」
「はい」
「継いでも何もしねえぞ」
「結構です。貴方は領主としていて下さればそれでいい」
それでも正直、御免だった。だが痛い思いをして連行されるのも馬鹿馬鹿しい。
「判った。さっさと行くぞ」
「宜しいのですか? 準備するぐらいは待ちますけれども」
「見ての通り、盗って価値のあるものは何もねえよ。――それに、長く空ける気もねえ」
「……では、参りましょう」
就く前からの辞任宣言はさらりと無視してシアはヴァースを促し彼の治める事となる町へと向かった。
国境の自由都市、カラムへ。