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自治区抹消  作者: SET
1章 兆し
4/37

3 ◆

 目覚めてすぐ、二日酔いの状態で働かなければならないことを後悔した。絵里の話をきっかけとして昔話に花が咲き、調子に乗って飲み過ぎたせいだ。自宅へ帰らず一階の喫茶店内にあるソファで横になったのは、三時を少し回ったところだった記憶がある。コルネリエは二階で寝てもいいと言ったが、同室で眠るのはさすがに気が引けた。

 鈍く頭を締め付ける痛みと吐き気を堪えて立ち上がって、水道へ取りついた。コップも使わずに、蛇口から流れ落ちる水を捕まえる。喉の奥までせり上がってきていた吐瀉物が胃まで押し戻されていく。素直に吐いた方が良かったのかもしれないが、ほんの少しだけ楽になった。迎え酒などということをする人がいるのが信じ難い。そのまま水を飲み続け、喉の異様な渇きを潤した。

 開店してからは調理場の方に引っ込んだ。普段は接客の仕事が多く、調理は多忙な時間帯にしかしたことがなかったが、一応の作り方はすべて頭に入れている。コルネリエは二日酔いになるほど酒にのまれていないため、接客だ。

 常連の一人の黒沢が好んで食べるカレーライスを容器によそっていると、調理場の入口でサラがこちらを窺っていた。

「どうした?」

「暇になったら、私の席に」

「それは、構わないんだけど……二日酔いだから、あんまり客の前に出たくないんだ」

「それなら、作り終わるまで、カウンターで待ってる」

「もう終わったよ」

 サラが入口から退いた。その横を通り、カウンター席にいる初老の常連客、黒沢の前にカレーライスを置いた。

「ありがとな。ヴェルナー、二日酔いか?」

「わ、分かりましたか」

「においで分かるだろ。横通る時、サラも少し嫌そうな顔したぞ」

 ヴェルナーは目を向けたが、サラはいつものような涼しい顔だ。

「黒沢さん、凄い観察力ですね。サラの表情を見分けるなんて」

「そんなことで褒められても嬉しかねえよ」

 カレーライスをスプーンですくい始めた黒沢を横目に、サラの用件を訊ねる。

「話って、何」

「昨日、報道されなかった二件の火事で七人が死んだ」

「火事?」

「今日、ここへ来る前、区役所に寄ってきた。個人情報はもちろん教えてくれない。死者数だけ」

「だから、それがどうしたんだよ。不幸な事故だけど……。今までだって、ROTが死んだ事件の報道、されてこなかっただろう?」

 ……区長の事件以外は。

 サラに手を掴まれ、何かと思うとアイスコーヒーの代金を握らされた。

「とにかく、深酒はやめて。貴方はコルネリエと違って酒に強くない」

 サラはそのまま、店を出ていった。

 何が言いたかったのか分からず、話が聞こえたはずの黒沢と顔を見合わせる。彼も軽く首を傾げただけだった。


 喫茶店の営業時間が終わり、一通り戸締りをしてからコルネリエに帰る旨を伝える。使い古した箒を片手に店内の掃除をしていたコルネリエは、

「お疲れ」

 と素っ気なく答えた。今日はやりたい事があったので早めに切り上げさせてもらうことにしていた。

 閉店後は二階に戻るだけのコルネリエが、よく戸締りを忘れてしまう玄関の鍵穴に鍵を差し込み、回す。鍵がかかったのを確かめて、それぞれ閉店時間を迎え始めた店が連なる街路を抜けた。その間にも、夜だということを忘れさせる熱気が背中に張り付いてくる。ただでさえ、冷房の入っていない調理室に詰めていたせいで体中がべたついていた。本当ならコルネリエを手伝った後でそのまま家に帰り、シャワーを浴びて布団に潜り込んでいる所だ。

 それを後回しにしてでもしたかったことは、サラの家を訪ねることだった。正確には、サラの祖父の家を。彼は機械としての電話が好きではないらしく、電話口ではわざと要領を得ない話し方をする。直接会って確認すれば、おとといのコルネリエへの電話も、今日のサラの伝言も、意味が繋がるだろう。電話もメールもある時代にしては面倒なやりとりだが、本人が嫌だと言うのだから仕方ない。

 西洋風の建物が目立つ住宅街の中、柔らかく映える緑色の門が出迎えてくれる、サラの住む家。カメラ付きのインターフォンを覗き込み来意を告げると、中で操作され門が開いた。大型動物を十頭ほど放し飼いにしても、全く手狭にならないであろう広大な庭を経れば、玄関だ。

 家自体の外壁の色は、灰で統一されている。厳かな家屋の圧迫感に耐えながら玄関の扉が開くのを待っていると、扉が内側からゆっくりと押し開けられた。そこにはサラが突っ立っていた。ピンク地にかわいらしいレース模様が刺繍された、パジャマを着こんでいる。まばたきの一回一回が長く、眠そうだ。

「こんばんは」

「こんばんは、おじゃまします」

 それでも挨拶だけは丁寧にしてくれ、こちらも丁寧に返す。靴を脱ごうと踵に手をかけたが、靴のままでいいと何度も言われている事を思い出し、やめた。

「おじいさんは居間で待ってる」

「ああ」

 サラの隣を通り過ぎる際に、かすかにシャンプーの香りがした。

「サラも話、聞くのか?」

 居間へと続く扉の取っ手に手を置き、白を基調にした階段を上り始めたサラを見上げた。

「私は一昨日、聞いた。おやすみ」

 振り向かずに階段を上っていったサラを見届け、取っ手を回した。

 広々とした部屋の中央には大きな絨毯が敷かれ、その上に対面したソファが二つ。間にガラスで出来たテーブルが挟まれている。

 サラの祖父であるロルフ・ルジツカは、白いソファに腰を下ろし、こちらを見つめていた。背筋が伸びていて、遠目からでは老いを感じさせない。

「ヴェルナー。とりあえず座って」

 手のひらで指し示された通り、対面のソファに座る。

 頬や手に滲んでいるシミは、ひとつひとつに物語が刻まれているかのように濃い。陰では「あのじいさん」などと砕けた呼び方をしているが、やはりロルフ本人を正面に迎え、煌々と照る赤を前にすれば、些かの緊張が体を走る。

「聞きたいのは、区長のことについてか?」

「あ、はい。それと……コルネリエへの電話のことです」

「端的に言おう。区長の死は始まりに過ぎない。これからは自治区内でROTが無差別に殺されていくだろう」

 断定するかのような言い方。

 本来なら、驚かなくてはいけない言葉、なのだろう。

 だが、前置きもなく、あまりにも唐突に告げられた言葉は、ヴェルナーにとって何の衝撃にもなり得なかった。

「端的すぎて、よく分からないんですが……」

 正直に告げると、ロルフが少し口を開け、低い笑い声を発した。今しがた、自らの帰属する自治区内で無差別殺人が起こると断定した当人と思えぬほど、朗らかな声。

「そうか」

「まず、根拠は?」

「根拠は言えない。まだ調査中の事項が多く、どこから情報が漏れるか分からんのでな。サラにも話していないから、君を信用していないわけではない」

「では……なぜ、区長は殺されたのですか?」

「怨恨であることに間違いはない。詳しい理由についてはまだ調査中だ」

「うーん……。じゃあ、どうしてROTが無差別に殺されていくんですか?」

「それも言えない」

「あの……それだとさっきの言葉をまた言わないといけなくなりますよ」

「まあそう急き込むな、リース家当主」

 ROTが無差別に殺されていくなどと告げられれば、急き込みもするだろう。もちろん口には出せずに、黙ってロルフの手もとを見つめる。

 焦れる様な間を挟んで、先程ヴェルナーが開けた扉が音を立てた。開いた扉から姿を見せた家政婦は、盆に、酒瓶とガラスのコップ二つを載せ、運んでいる。ガラスのテーブルに近づいてくると一礼し、日本酒の酒瓶と、イカの塩辛の入った容器を中央に置き、ガラスのコップと木製の箸をヴェルナーとロルフの前にそれぞれ配した。

 ロルフは他の老人たちのように、ROTの古い掟を守ったり、民族優位性を信じていたりはしない。だが、戦時中に生まれ、戦後の混乱期を乗り越えてきた彼は、差別してくる日本人の印象のほうが圧倒的に強く、好意を持っているともいえない。故に、日本の文化を尊重することはほとんどないとサラに聞いたことがある。その彼が、日本酒を持って来させたことは意外だった。

 今朝、二日酔いになったばかりのヴェルナーは、家政婦が日本酒をつぎ、ロルフが勧めたコップに手をつけなかった。ロルフは一杯目を飲み干した後で家政婦に下がるように言い、自分で二杯目を注ぐ。続けて箸を手に取り、器用に塩辛を掴みあげて口へ。

「下戸だったか?」

 塩辛を咀嚼し終え、口もとに満足げな微笑を浮かべたロルフが訊いてくる。

「はい、それと、一度飲み始めると潰れるまで飲んでしまうので」

「うまいぞ」

 もう一度勧められ、仕方なくヴェルナーも日本酒に口をつけた。

 辛口で軽いめまいを覚える強さだが、す、と消化器官へ落ちて行く喉ごし。さすがにこの豪邸の主だけあって、飲んでいる酒の質も違う。これなら、二日酔いの最中でも飲めそうだ。

「うまいです」

 半分ほど飲み、コップをガラスのテーブルへ置く。

「酔いが回る前に教えてくれませんか。コルネリエへの電話の意図を」

 ロルフは二度ほど頷き、ようやく明瞭な返答を寄越した。

「憎悪だよ。ROTへの激しい憎悪を隠して生きてきた連中が、表に出てきているということだ。私の広げている情報網では、これから行われるであろう虐殺の、予見はできても、警察に訴えるほどの証拠が集められていない。証拠もなく騒ぎ立てた所で、誰が信じるわけでもない。せめて私の目の届く範囲に居る人間には、気をつけてもらわなければ」

 ロルフの声音はのんびりとしたものだ。それが今の時点での打つ手のなさを表しているようで、切羽詰まって言われるよりも、かえって怖さがあった。

「分かりました。俺も周りの人たちには気をつけるように言います」

 知りたかった情報を得たヴェルナーは、再び日本酒を勧められる前に、立ち上がる。

「今日は夜分遅くに失礼しました。ありがとうございました」

 そのまま頭を深く下げ、場を後にしようとした。

「昨日の、区長に次いでの死者は、ただの火災事故と断定されている……気をつけるだけではだめだ。明日は特に危ない。サラをつけるから、上手く使ってやってくれ」

 しかしその声を背に受け、ヴェルナーは思わず立ち止まった。

 幼いころから疑問に思っていることがあった。

「あなたはなぜ俺にそこまでしてくださるんですか。昔からのしきたりだからですか」

「趣味だよ。血統が無事に次代へ繋がってゆくのを守ることくらいしか、することがなくてな」

「父さんは、そんなことには全く興味がありませんよ」

「普通は、そうだろう。あの馬鹿は特に。……だが私は、惚れ込んでいるんだよ。私が生まれるよりもずっと前、戦場で散った少年少女の物語に」

 ひどく感傷的な言葉が聞こえ、ロルフを振り仰いだ。ほんの少しだけ、顔に赤みが差している。

 また、はぐらかされただけのような気がしてきて、今度こそ本当に目を切った。

 ロルフも、サラも、この家の人間は、どこか捉えきれない。

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