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自治区抹消  作者: SET
終章 自治区抹消
27/37

24 ◆◆◆

 戻ってきたのは、あの忌々しい祖父に、祖父に盲従している妹に、変わった自分、籠から飛び出し、自由に生活している自分を、見せつけてやるためだった。

 自信があった。誰の庇護も受けず生活した三年で、独りで生きていける力を、身につけたと思っていたから。

 けれど、何も変わってなんていなかった。祖父が耳元でたった二文字の言葉を怒鳴っただけで、自分は、震えて、体の自由が利かなくなった。

「今からこいつの性根を叩き直して、サラの手足として加えるつもりだ。殺人はひと段落して、ヴェルナーが被害に遭う可能性もなくなっているから、次の仕事はまだ未定だが……その間に自警団の件を進めてくれ」

「分かり、ました」

 サラがいなくなってすぐ、祖父の部下たちに、両手首を縛られた。後ろ手に。細く、硬い、鉄線で。……怖い。どうしようもなく、祖父が怖い。

 震えを止める術も解らないまま、連れて行かれたのは、地下室の、最奥。懲罰室。むき出しのコンクリートに囲まれたそこへ、蹴り入れられた。鉄線のせいで受け身がとれない。顎から落ち、小さく呻いて床に伏す。何人かが入ってくる気配がして、扉が閉まった。暗闇の中に、懐中電灯の灯が灯った。

「ってぇな。そんなに警察にチクられてぇのかよ!」

 首をねじ曲げながら怒鳴るが、震えが伝わり、みっともない声になった。男たちは何も反応しない。少しでも個人を特定される言葉を発すれば、後で厄介なことになるとでも、祖父に言い含められているのだろう。

 代わりに、男たちに混じっていたらしい祖父が反応した。

「謝れば、勝手に家を出たことと、先ほどの無礼な態度は許してやる。ごめんなさい、ゆるしてください、と言うだけだ。それだけで放免するというのだから、昔に比べれば寛大だろう」

「はっ……くたばれ、ジジイ」

「五回」

 頬に、首に、暴力的な痺れが走った。悲鳴を上げた。

「どうだ」

「私が何をやった! 自治区の外に出たくらいでこんなことされなきゃいけない理由を言えよ!」

 足は自由が利く。立ち上がろうとすると、暗闇の中から背中に蹴りが飛んできた。囲まれている。

「足を縛れ。ついでに服も取り去れ」

「クソが……。服は関係ねぇだろ」

「服の上からでは鞭の威力が半減するからな」

 拘束を免れようと、足を辺り構わず振り回すが、無意味だった。きつい蹴りを脇腹にもらって苦悶している間に、靴と靴下が取り去られ、地肌にきつく鉄線が巻かれた。

「やめろ!」

 人並みの羞恥心を持ち合わせているつもりの絵里はそう叫んだが、無機質な手つきで、服が次々に脱がされていく。

「どうする?」

「さっさと死ねよてめぇ! くたばり損ないがぁっ!」

「十回」

 幼い頃に見た、古代中国を舞台にした映画で、主人公が鞭打ちされる場面があった。主人公がただひたすら鞭に打たれて悲鳴を上げるのはあまりに地味な絵面で、子供心に、こんなものが罰になるのかと疑問に思った記憶がある。しかし、実際に直面する痛みは、その記憶を簡単に上書きした。鞭のしなる音が耳元に早期の謝罪を囁きかける。しかしその囁きはすぐに全身を苛む激痛に形を変えた。何も覆い隠すものがない対象に、様々な力学に後押しされた鞭は、遺憾なくその真価を発揮した。

「よくこんな扱い、孫にできるな! 頭おかしいんじゃねぇのか!」

「十五回」

 舌打ちする余裕もない。幾本かの鞭が飛んできて、それぞれ十五回ずつ体の表面の皮膚を削り取った。複数の鞭だから、実際は祖父の入った数の数倍、体に当たる。手で鞭から身を守ろうとして果たせず、体を丸めようとして果たせず、唇を噛みしめ、目を強く瞑るしか、方策がなかった。

「てめぇは、腐ってる」

「五十回」

「嘘っ……」

 五回ずつ増えていく、と簡単に計算していた絵里は、零した言葉が悲鳴に近くなったのを感じた。今すぐこの場から逃げ出したい。それでも、目を閉じるしかなかった。

 全身を、猛獣の尖った爪で引き裂かれているようだ。地肌が抉られる。

 ――痛い! 痛いよ! もうやめて! おじいちゃんっ!

 子供の頃の自分が重なる。

 無味な音が、正常な感覚を奪っていく。痛みだけが、鮮鋭になっていく。

「やめろよ……。なんでここまで出来んだよ。目的がありゃあなんでもやっていいとでも思ってんのかよ!」

「百回」

 血の気が引いた。今の、倍?

 それでも容赦なく複数の鞭が襲ってくる。体をかばうこともできない。逃げることも許されない。許されるのは、祖父に屈服、再服従を誓うことだけ。

「やめて」

 痛みが自尊心に勝ることだけは、許してはいけない。再服従の先に待っているのは、思考停止の、先のない、闇。

「やめて!」

 それでも、皮膚に走る激しい痺れは、止まってはくれない。

「やめて……! 痛いよ! おじいちゃん! すごく痛いの! お願い、助けて!」

 一瞬、幼い頃の記憶が蘇ったのかと思った。が、違う。子供のように甘ったれた声は、間違いなく、今の自分が、発した声だ。

 祖父が笑った。

 恐怖と、痛みと、羞恥とが、混ざりあう。涙が溢れた。

「ごめんなさい。もうかってなことはしません。ゆるしてください」

 祖父がまた、笑う。それはとても、老いさらばえた人間とは思えぬ、湿った艶を、帯びていた。

「犬小屋に入れておけ。五時間後、生きていたら出す」

 涙と涎を床に垂らすしかない絵里は、その言葉に、目を見開いた。

「話が違う! 謝ったら、許してくれるって……!」

 髪を起点に引っ張りあげられた。懐中電灯の明かりも消えた暗闇の中で、誰かの吐息が、耳に当たった。

「やめて、おじいちゃん、だと? 二十一にもなる立派な大人が、吐く台詞じゃないな。この三年間、外で何を学んできたんだ、お前は。痛みを免れるため、敵対者に媚びることだけか?」

 祖父だった。低い声が、耳朶に轟くように聞こえた。

「勘違いする前に、はっきり教えておいてやろう。お前の過ごしてきた三年間は、無駄だった」

 髪の毛が、力の限り引っ張られた。何十本かが一気に抜けたような痛みが走り、声を上げることもできなかった。

「気が変わった。無駄な三年間で無駄に伸びたこの長髪を切り落としてから、犬小屋行きだ」

 されるがまま、だった。はさみのようなものが髪に食い込んだと自覚してすぐ、切られた。

 足の鉄線だけを外され、祖父の部下と思しき、皺の少ない手に背中を押されながら、まっすぐ歩く。

 犬小屋。この懲罰室の中で、二度、人が死んだことがある。どちらもその、犬小屋の中でだ。どこの誰が死んだのかは、知らない。

 懐中電灯が揺れ、犬が唸り、吠える声が近づいてくる。祖父の一人が駆け出し、犬の鳴き声はそれにつられたように、移動した。手枷も外された絵里は、抵抗する間もなく、犬小屋へ入れられた。その装いは小屋などという簡単なものではなく、鉄製の檻だ。入口が軋みをあげ、閉まる。

 入れられてすぐ、祖父の部下が走っていった方向へ、駆けた。恐らく餌を与えられているのだろう、汚らしい唾液の音がぴちゃぴちゃと響いている。

 絵里はほとんど役目を果たしていない目を閉じ、その音だけを辿った。間近に来たと思ったところで、腕を素早く、音の発生源へ伸ばした。それは一匹の犬の皮膚を掴んでいた。犬はすぐに気づいて、餌から口を離し、腕に、犬歯を思い切り突き立ててきた。悲鳴をこらえ、皮膚ごと引っ張り寄せ蹴りを入れる。裸足なので威力はそれほどないだろう。右腕を咬まれたまま床に犬の体を押しつけた。犬の睾丸を探り、掴んで、力の限り握った。右腕を咬む力が弱まったところで、床に何度も何度も叩きつけた。その間にほかの二頭も両足に咬みついてきた。それからはもう、何がどうなったのかよく分からない。脇腹を咬まれ、ふくらはぎを咬まれ、足首を咬まれた。その度に、闇の中に犬の存在を認識して反撃した。

 気づけば、犬は三匹とも死に、どこがどう痛いのかも分からなくなった自分だけが、犬小屋に突っ立っていた。しばらく黙って、祖父の部下同士が交わし合う話に耳を傾け、小屋の扉が再び軋みをあげるまでずっと、立ち尽くしていた。顔に当てられた懐中電灯の光に目を細める。続いてその光は、足下にある犬の死骸に当てられた。何の気なしに、懐中電灯の光を追おうとして、気を失った。




***




 いつものようにリースを訪れると、店が閉まっていた。入口の張り紙には、自治区封鎖による物資流通の停滞、治安悪化による店内の安全確保が難しくなったため、と書いてあった。

 少し迷ったが、ヴェルナーの部屋に寄ってみることにした。

「上がってけよ」

 訪ねて早々、ヴェルナーは手振りで、部屋の中に入るように促した。

「何で」

「入れって。寒いなか、わざわざ来てくれたんだし」

 バックパックを背負い直して背を向けた。強引に二の腕あたりのジャージの布を掴まれ、引っ張られた。

「寒いから、早くドア閉めろ」

 苦笑いが零れた。自分は、そこまでして呼び止められるほど、楽しい人間ではない。何か訊きたいことがあるのだろう。

「分かった」

 後ろ手に、玄関のドアを閉めた。ヴェルナーもまた、台所と居間の間のすりガラス戸を閉めた。

「コルネリエが疲れて寝てるから、静かに」

 靴を脱いで、上がる。台所の前の板張りの床は、四人座ると精一杯、くらいの広さだったが、とりあえずそこに座った。ヴェルナーは台所に立って何かをやっている。屋内の温かさに浸り、少しの間、何も考えずにぼうっとしていた。

「飲めば」

 電子レンジの機械音がしてから少し経って、話しかけられ、顔を上げた。ヴェルナーがコーヒーカップを押し付けてきた。

「なんか……所帯じみてる」

 呟き、コーヒーカップを受け取った。中には、ホットココアが入っていた。ヴェルナーも、自分と同じようにあぐらをかいて、床に直接座った。

「コルネリエにも言われたよ」

 猫舌なので、息を吹きかけてから慎重に唇をつけた。まだ飲めないと判断し、床に置く。

「自治区が封鎖されたの、知ってるか?」

 コルネリエが起きないように気を遣ってか、いつもよりは小さな声で、訊いてきた。絵里は一度、鼻をすすった。

「うん……知ってる。警察はもちろん、自衛隊も治安出動して各地を封鎖してる。ROTの争いに日本人を巻き込むな、自分たちで解決しろ、ってね。ROTが外から入るのは自由だけど、日本人は入れない。逆にROTは外には出られないけど、日本人はいつでも出られる」

「よくまあそんな政策を……」

「物資は検査に通ればお咎めなしだから、経済にそこまでの影響はないし、餓えることはない。それが唯一の救いかもな」

「……なんでそんなに落ち着いてられんの?」

「これで、敵の策動部隊も出入りが制限されたことになる。そいつらの居場所を突き止めて縛り上げて、裏取引でも何でもして犯行を自白させれば、混乱は収まるはず」

「もし捕まえたとして、そんなに簡単にいくか? お前、グレーナーは軍隊崩れも雇えるって言ってただろ。口を割らないんじゃないか」

「あくまで軍隊崩れ、だよ。敵に捕まったからと言って、死刑を選ぶほどの忠義心はないだろ。問題は、捕まえるまでだ。殺さずに捕まえるのは難しい。警察にも、自警団にも、くたばり損ないの部下にも、きっとかなりの数の死者が出る」

「相手は何人くらい?」

「そこまで知るかよ。お前、私を情報端末か何かだと思ってるだろ」

 絵里はふいと視線を逸らした。声も知らず知らずのうちに、不機嫌なものになった。……どうせ、こうなると思ってたけど。ヴェルナーから話しかけてくるときは、いつも情報のやり取りが底流にある。人として接されていないような気がしてくる。

「ごめん」

「そういや、サラ、お前のこと、悪く思ってなかったみたいだったよ」

「は?」

 突然話題が切り替わったからか、ヴェルナーは少しだけ首を傾けた。

「あいつ、お前の様子を、毎日部下に訊ねて確認してる。素直じゃねぇよな」

「なんで、俺の事なんか……。俺、サラに、事件に巻き込まれて勝手に死ね、って言われたんだかんな? 絵里に頼んだ話し合いの提案も断られたし……」

「あれから何ヶ月経ったと思ってんの? つーかまた、情報端末扱いしてない?」

「あ、悪い……」

「いちいち謝んなよ。鬱陶しい」

 カップを掴み、ホットココアを口に流し込んだ。

「まだ熱いんじゃないのか」

 冷静な突っ込みが入ると同時に立ち上がり、水道に取り付き、浴びるように水を飲んだ。

 ヴェルナーが、笑った。睨んでみたがそれでも笑うのをやめない。少し顔が熱くなった。

 祖父の笑いとは、違う、からかい交じりだが、優しく胸に沁み入る笑い方。

「お前のそんな間抜けな行動、久々に見た」

「お前がこんな熱いココアを渡すのが悪い」

 あの牢から出て、最低限の治療を受けて、最低限の服を与えられて、眠って……。起きてすぐ会ったのが、ヴェルナーでよかったと、思っている。おかげで、いつも通りの憎まれ口を叩くことができた。そのあとサラに、自業自得で痛めつけられたところを介抱してくれて、強くは出られなくなってしまったが、こいつとはこのくらいの関係が心地いいということには、気付けた。

 昔の自分がヴェルナーを嫌い始めたのは、この事件の兆候を感じ始めた祖父に、何かあれば自分の命を犠牲としてもヴェルナーを守るように、と命じられてからだった。それまでは祖父に言われなくとも一緒に過ごしていたし、サラよりも自分の方がずっと、ヴェルナーと上手くやれていたように思う。命令されてからは、遠い昔の繋がりを孫に押しつけてくる祖父への極めて強い反発心と、それでも反発できない体を抱える葛藤を、同じく繋がりを押しつけられているヴェルナーにぶつけ、サラにぶつけ、コルネリエにぶつけた。それでもヴェルナーは、変わらなかった。サラがヴェルナーを表現するときによく使う、八方美人的な性質が強いからとも言えるが、三歳年下の女から暴言を吐かれ続けて、苦笑いで流せるだろうか。自分だったら無理だ。

 コルネリエには、本当はヴェルナーが好きなんじゃないのか、と茶化されもしたが、本当に嫌いだった。何もかもが。それを外部に向けて発散し続けていなければ自分がおかしくなりそうで、何も言わずに苦笑を返すだけのヴェルナーになら、いくらでもそれができた。

「けど」

 ヴェルナーに声を掛けられ、顔を上げた。

「絵里と話す事なんて、情報のやり取り以外にないよな」

 そんなこと自分でも分かってる、と言おうとすると、 ヴェルナーがまた、笑った。

「冗談だって。そんな悲しそうな顔するなよ」

「ど……こが。別に、いつも通り」

「お前、外では何やってたの」

「……たこ焼きチェーンの、店員」

「接客、大変だっただろ。目付き悪いし」

「はっ。言ってろ。きちんと礼儀作法をわきまえた完璧な店員だったよ。愛想笑いなんてコツ覚えれば簡単」

「日本人の友達とかは、できた?」

「……まあ、少しは」

 今は、私用の携帯が壊されていて、連絡できない。してどうなるものでもないから、するつもりもない。

「そっか。昔に比べたら、言葉遣いも酷くないし、三年間で、いろいろ勉強できたんだな」

「無駄だよ……あんなの。接客が上手く出来たから、話し相手ができたから、自分で生活できたから、何だよ。今の自治区では、そんなの、何の役にも立たない。ジジイに命令されて、逆らえなくて……昔と何にも変わってない」

「そうでもないと思うけど」

「どこも成長してない。サラにもコルネリエにもジジイの部下にも突っかかるし……」

 ヴェルナーには、未だに、あの当時の事を、謝れない。

 ちょうどいい温度になったホットココアを、飲み干した。舌に軽いやけどを負ったせいで、ほとんど味を感じない。

 ヴェルナーが立ち上がり、手を差し出した。コーヒーカップを渡す。ヴェルナーは、コーヒーカップの取っ手に、左手の人差指を引っ掛けた。

「今はとりあえず、そう思いたいなら思っとけば。変わったかどうかなんて、そのうち、嫌でも分かるって」

 頭をぐしゃりぐしゃりと撫でられた。

 心地良くて、ヴェルナーが自分から手を離すまで、されるがままにした。

 ……ヴェルナーは、覚えているだろうか。小さなころ、祖父に痛めつけられて、泣いていた時。いつも、泣いている理由を何も言わない自分に対して、こうしてくれたことを。

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