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自治区抹消  作者: SET
1章 兆し
10/37

9 ◆◆◆

 サラが開店少し前のリースに入ると、コルネリエに、調理室へと呼ばれた。ヴェルナーはまだ、来ていない。

 訝りながらも素直に従うと、行った先で、コルネリエに頬を思い切り引っ叩かれた。

「なにいつも通りみたいな顔して、入ってきてんの?」

 頬の痛みに顔を歪めながら、ああ、と納得した。

 これは、罰だ。間抜けな一分間の空白を作りだした自分への。

「見殺しにしたんだってね。美晴ちゃんのこと」

 コルネリエは、右手を強く握っている。

 現場の責任者が決めたことで、逆らえなかった。そう言い訳をできる雰囲気ではないし、するつもりもなかった。

「他人の命よりも、自分の保身が最優先だったってわけ?」

 きっと、仕事を失敗した自分に怒った祖父が、コルネリエに事実やそうでないことを告げたのだ。率直に事情を説明しようと思っていた、こちらの知らない間に。事実を隠していたと思わせるにはちょうどいい、今日の朝に。

 どうすれば孫に精神的な苦痛を与える事が出来るか、彼は熟知している。もう、コルネリエからの非難は頭に入ってこなかった。祖父への恐怖で頭がいっぱいだった。

「二度とこの喫茶店に入ってこないで。入ってきたのを見たら……何をするか分からないから」

 コルネリエのその拒絶だけが、印象に残った。


 指示が行く前に同僚の弁護士が刺された時点で、窓際と駐車場に居た祖父の部下は介入を諦めていた。

 そして『後片付け』が終わり撤退したあと、現場は犯人によって燃やされた。

 空のガソリンケースを持っていた犯人は、炎を眺めている所を、近所の主婦の通報で駆けつけた警察官によって現行犯で逮捕された。自供では、

「弁護士に恨みがあった。日本人なのにROTの肩を持ったりするから悪い」

 などと語っているそうだ。

 女性弁護士二人を殺害して火を点けた。他にも、現場周辺に、関係が疑われる火災事故が複数ある。

 事件は区長の事件に続いてセンセーショナルに報道され、世間の興味を引くには十分だった。皮肉なことに、ヴェルナーが矢内美晴を通じてやろうとしたことが、彼女の死によって遂行された。望まぬ意味上において。

 あの男は、火を点けたことで、現場周辺の火災事故の放火犯、その被疑者にまでリストアップされた。体よく利用されただけで、本人は何も知らないに違いない。自らを激情へ駆り立てた黒幕について口走っても証拠はなく、『自分の中の悪魔がそうさせた』の類と捉えられ、責任転嫁の言い逃れとしか受け取ってもらえない。

 ROTを消そうとする何者かは、単純に矢内美晴を殺すのではなく、怨恨という明確な動機を持つ男を使い、殺害を実行させることに成功した。背後に控える団体など存在しない、個人の犯行であったことを強く印象付けさせた。

 もし、監視体制を把握していて、殺害前に起きた同僚弁護士との口論と、男の訪問するタイミングまでもが連中に図られていたとしたら、予想以上に、用意周到な団体だ。これで事故は事件となり、民族主義的単独犯による、おぞましい連続放火事件の疑いへと段階を移したことになる。

 今後、連続した火災事故を起点に、ROTが狙われていることを実証するのは、ほぼ不可能になったと言っていい。矢内美晴がやろうとしたことは事前に封殺され、サラの祖父が望んでいた結末を迎えることはできなかった。


 家に帰ってすぐに自室へ籠り、救急箱の中から湿布を取り出した。無造作に頬へ貼り付ける。

 コルネリエは、加害者の元・内縁の妻、という単語でワイドショーに登場した。彼女の受けた暴力が、物語を彩る重要なパーツとして面白おかしく取り上げられた。そんな中でコルネリエは、友人が、かつて自分と付き合っていた男に殺され、それが世間の見世物にされ、鬱積した様々な感情をぶつける場所を求めていたはずだ。そこへ、祖父が電話したのだろう。

 激情に身を任せれば、もっと残酷な仕打ちもできた。このくらいのことで、コルネリエの溜飲が下がるならいい。自分が叩かれたくらいで、コルネリエの精神が少しでも安らぐなら、構わない。そう言い聞かせ、ベッドへ仰向けになった。

 ポケットに入っていた折り畳みナイフを取り出し、開いたり閉じたりする。あの時、刺そうとするのではなく、男に向かってこれを投げつけていたらどうなっていただろうか。矢内美晴の受けた刺傷は一つか二つで済み、男の注意はこちらに向いたかもしれない。そうなったら、櫻井も男を相手に格闘せざるを得なかっただろう。事件は複雑な様相を呈して工作にも苦労しそうだが、矢内美晴は死ななかったかもしれない。

 判断ミスだ。初めて殺人の現場に遭遇して、気が動転していた。現場を収めるのではなく、男をどうにかしようということに意識が向いてしまっていたのだ。

 穏やかな時間は終わった。これから敵は活発に動き出し、街は阿鼻叫喚に包まれる可能性が高い。その時、この僅かな判断ミスが、その状況を作り出したことに加担していないと、言い切れるだろうか。

 怖い。色々な事が、怖くて仕方がない。


 次の日も、早朝から射撃訓練をしていると、祖父に呼び出された。

 声を聞くだけで、わけもなく泣きたくなる。今度は何が待っているのだろう。

 強張った内心を引きずりながら居間の扉を開けると、ソファに座る祖父を見下ろす、絵里が居た。家を出た時とすっかり様変わりした絵里は、脚が大きく露出した派手な服装で、少し時代遅れの金髪で、無難な自分の着こなしとは対象的な絵里として、そこに立っていた。

「相変わらず、陰気な格好」

 絵里がそう言い、馬鹿にしたような目でサラの全身を観察した。

「逃げた貴方に言われたくない」

 サラがそう返すと、挑発に乗った絵里が近づいてきた。髪を引っ掴まれる。

「ああ?」

 不思議と、怖いという感情は微塵もなかった。姉が出て行った後も苦しい訓練を続けてきた自分と、遊び呆けてきた姉とでは雲泥の差がある。

 サラは逆に、髪を引っ張る絵里の手首を掴んで、思い切り捻り上げてやった。

「痛ぇって、離せよ、てめぇ!」

「サラ」

 祖父に言われて、サラは手を離した。絵里がサラの目の前で叫ぶ。

「ざっけんなよッ! あー痛ぇ、お前、後でブッ殺す!」

 顔に飛んできた唾をTシャツの袖で拭き、無表情で見つめ返す。

「アニ、こっちに来なさい」

「は? 何であんたみたいな死に損ないの言うこと聞かなくちゃいけないわけ? 調子乗んな」

 そこまで言った所で、祖父が立ち上がった。無言で近づいてくる祖父に絵里はたじろぎ、「何だよ」と呟いた。

「ソファに、座りなさい」

「だから、何で」

「座りなさい」

「馬鹿にしないでよ。もう昔の私じゃ……」

「座れ!」

 反論しようとする絵里の言葉を遮り、祖父が青筋を立てて絶叫した。

 サラは思わず、その場に腰を落とした。絵里に向けて叫んだというのは分かっている。だが、染みついた恐怖がそうさせる。体が激しく震え始めるのを感じ、サラは床を見つめたまま動けなくなった。

「サラ、おいで」

 そんな自分を見てか、祖父は優しく声を掛けた。呪縛が解けたように立ち上がることが出来、すぐに祖父のもとへ駆け寄った。

 至近で絶叫を聞いた絵里は、腰が砕けた状態で未だ目を見開いたままだ。歯を細かくかち合せながら、聞き取れない小さな声で、何かを呟きながら床を見つめている。

「今からこいつの性根を叩き直して、サラの手足として加えるつもりだ。殺人はひと段落して、ヴェルナーが被害に遭う可能性もなくなっているから、次の仕事はまだ未定だが……その間に自警団の件を進めてくれ」

「分かり、ました」

 口にできたか自分でもはっきりと分からない程度の言葉とともに、頷いた。

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