悪役令嬢に転生したけれど、断罪より先にお父様の親バカを止めたい
「ローザ、お前を蔑ろにするような王家などこちらから願い下げだ! 殿下が他の娘に現を抜かしていると耳にした。今すぐ私兵二千を王都へ進軍させ、あの愚鈍な第二王子を我が家の地下牢へ叩き込んでやろう! 安心しなさい、愛しい我が娘の涙一滴のためなら、この父は反逆の大罪人と呼ばれても構わん!」
王都から馬車で三日、ルヴァン公爵家の壮麗な執務室に、大地を揺るがすような怒号が響き渡った。
机を両手で叩き割らんばかりの勢いで立ち上がっているのは、隣国との国境防衛を一手に担う『軍神』こと、我が父ヴォルフラム・ルヴァン公爵である。
燃えるような緋色の髪に、猛禽を思わせる鋭い金色の瞳。歴戦の傷跡が刻まれた精悍な顔立ちを憤怒に歪ませ、分厚い胸板を覆う軍服の金ボタンを軋ませている。その両脇には、血気盛んな家令と騎士団長が、すでに抜刀せんばかりの気迫で「ははっ、直ちに全軍へ招集を!」「王城を火の海に!」と鼻息を荒くしていた。
――ぱちん、と。
私の中で、何かが冷たく乾いた音を立てて弾けた。
(……ああ、やっぱりこの人たち、根本的に頭のねじが吹き飛んでいるわ)
私の名前はローザ・ルヴァン。十七歳。
前世の記憶を思い出したのは、つい先週のことだ。
ここは前世でプレイした乙女ゲームの世界。私はヒロインを虐め抜いた末に破滅する『傲慢な悪役令嬢』……のはずだった。
しかし、記憶を取り戻して現実を照らし合わせてみれば、事実は百八十度違っていたのだ。
原作のローザがなぜあそこまで傍若無人に振る舞い、最終的に国家転覆の一歩手前まで暴走して処刑されたのか。その元凶は、彼女自身の性格などでは断じてない。
娘が「殿下に挨拶を無視された気がする」と零せば殿下の側近の首を撥ねようとし、「あのご令嬢のドレスのほうが華やかだった」と呟けばその生家を経済的に叩き潰す――この、国内最強の武力と財力を持った父親の『無制限かつ狂信的な親バカ』のせいだったのだ。
私が断罪される未来?
そんなもの、放っておけば明日の朝にはルヴァン公爵家が王都を武力占領して、問答無用で物理的に回避されてしまう。
ただし、その後に待っているのは、内乱による国土の荒廃と、隣国からの侵略による一族郎党の皆殺しエンドだ。ふざけるな。私は平穏無事に美味しいお茶を飲んで天寿を全うしたいのだ。
私は、一切の動揺をおくびにも出さず、完璧な角度で首を傾げてみせた。
絹糸のようなプラチナブロンドの巻き毛を揺らし、父譲りの金色の瞳を穏やかに細める。
身に纏うのは、公爵令嬢としての品格を保ちつつも装飾を極限まで削ぎ落とした、上品な群青色のシルクドレス。胸元には、無駄な宝石の代わりに実務的な金時計が揺れている。
「お父様。『愛しい我が娘のためなら反逆者になっても構わない』……そのように仰いましたね?」
「あ、ああ! そうだともローザ! お前を泣かせる奴は、王族だろうと神だろうとこの私が八つ裂きにしてくれる!」
胸を張って豪語する父に、私は慈愛に満ちた聖母のような微笑みを向けた。
「よく分かりましたわ。お父様がそこまで私の名誉と尊厳を重んじてくださるのなら、私、娘として誇らしく思います。……ですから、王都への私兵進軍の件、正式な書面による決裁と軍議の場を設けていただきたく存じます」
「おお! 分かってくれたか! よーし、すぐに全軍に布告を――」
「ええ。ですが、我が公爵家家憲第三条には『重大なる軍事行動および非常時招集は、重臣会議の承認、および公爵家筆頭監理官の監査を経て執行すべし』と明確に定められておりますわ。三年前、お父様ご自身が『愛するローザに我が家の内政を学ばせ、いずれは領地も任せたい』と、私を筆頭監理官の代理に任命してくださったのを覚えておいでのことでしょう? いかに閣下といえど、正規の軍議と手続きを無視しては、出陣の号令すら形骸化してしまいますものね。明日の正午、領内の重臣および親族の皆様をお集めくださいませ。私が筆頭監理代理として、責任を持って出兵に伴うすべての事務・法務手続きを取りまとめて差し上げますわ」
私の涼やかな言葉に、父は「さすがは我が愛娘、物分かりが良くて聡明だ! 我が後継として誇らしいぞ!」と相好を崩して快諾した。
かつて娘に箔をつけるためだけに与えた名誉職が、まさか自分を社会的に包囲殲滅するための檻の鍵になるとも知らずに。
自室に戻るなり、私は長年ルヴァン家に仕える筆頭会計監査官のダニエルを極秘裏に呼び出した。
「お呼びでしょうか、ローザお嬢様」
「ええ。ダニエル、今すぐルヴァン公爵家の現行軍事規定、過去十年分の領地財政白書、ならびに王国防衛協定の原本を取り寄せてちょうだい」
「……もしや、閣下の暴走をお止めになるので?」
「止めるだなんて生ぬるいことはしないわ。完全に『制度化』して、二度と身動きが取れないように檻に叩き込むのよ」
ダニエルの眼鏡の奥が、鋭く光った。
ルヴァン公爵領がこれまで王国最強の防衛拠点として君臨できたのは、偏に父の圧倒的な個人の武勇のおかげだった。だがその裏で、父の「娘への溺愛」による莫大な使途不明金と、独断専行の軍事行動による損失は、すべて領民へのしわ寄せや、現場の官僚たちの不眠不休の胃薬によって埋め合わされてきたのだ。
「ローザが王都で食べるため」という理由だけで、鮮度を保つ魔導冷凍車を百台連ねて山越えをさせた輸送料、金貨三千枚。
「ローザに無礼な態度を取った」として、隣領の貴族に武力威嚇を行った際の賠償準備金、金貨五千枚。
極めつけは、第二王子シャルル殿下が他の令嬢と談笑していたという三面記事のようなゴシップを真に受け、今回の私兵二千の動員準備にかかった軍事費、国家予算の数パーセントに相当する金貨一万枚。
なお、シャルル殿下は第二王子とはいえ、第一王子が幼少期に病弱を理由に臣籍降下して修道院に入っているため、実質的な第一王位継承者であり、次期王太子に内定している。その重大な立場にある婚約者に対し、事実確認もなしに私兵を向けるなど、正気の沙汰ではない。
「全部、証拠と帳簿を揃えて頂戴。それから、王都のシャルル殿下へ至急の魔導通信親書を飛ばしなさい」
「殿下へ、でございますか? 破談の申し入れでしょうか」
「いいえ。『我が父が殿下の不敬を理由に進軍の意向を固め、軍議を招集いたしました。ついては、殿下が学園で平民の特待生令嬢と懇意にされていた事実関係についての正式な調査報告書を、明日正午必着で公証人役場経由にて送付されたし。なお、事実無根である場合、我が父による軍事クーデターの口実として王室が断罪されることになります』と添えて」
「……恐ろしい手回しの速さでございますね」
「当たり前よ。あの脳筋親馬鹿を黙らせるには、感情論ではなく、血も涙もない数字と公的制度を突きつけるのが一番効果的なのだから」
私は夜を徹して、三十二枚に及ぶ『軍事動員に関する法的監査報告書』と『対王家損害賠償請求プロセスの適正化規定』、そして家憲に基づく『全権委譲協約書』を書き上げた。
父が吐いた「愛しい娘のため」という綺麗事。
それを一文字たりとも否定せず、そのまま法的な首輪へと仕立て上げるために。
翌日の正午。
ルヴァン公爵邸の大円卓会議室には、重苦しい空気が張り詰めていた。
上座には、緋色のマントを羽織り、今すぐにでも出陣せんばかりの父ヴォルフラム。その周囲を取り囲むのは、歴戦の将軍たち、領内の筆頭貴族、そして顔色を青ざめさせた文官たちだ。
「諸君! 集まってもらったのは他でもない! 我が愛娘ローザを侮辱した王家に対し、ルヴァン家の誇りにかけて鉄槌を下すためだ!」
父が机を拳で叩き、朗々と出陣の口火を切った。騎士たちが「うおぉぉっ!」と呼応して剣の鞘を鳴らす。
誰もが、このまま王都へ雪崩れ込む血の嵐を予感した、その瞬間。
「皆様、恐れ入ります」
鈴を転がすような、凛とした声が会議室の空気を切り裂いた。
全員の視線が一斉に私へと注がれる。
私は立ち上がり、完璧な淑女の礼を取ると、ダニエルに目配せをした。重々しい足音とともに、分厚い羊皮紙の束が、円卓の全員へ配られていく。
「ローザ? それは一体何だ?」
不審そうに眉をひそめる父に、私はこの上なく優美に微笑みかけた。
「お父様が出陣の大義名分として掲げてくださった、『愛しい我が娘の尊厳を守るため』という尊いお言葉を、法的に完璧なものとするための公的証拠書類でございます」
「ほ、法的な公的証拠……?」
「ええ。我がルヴァン家が私憤ではなく、王国の正義のために動く軍隊であることを公的に証明せねば、ただの反逆者として討伐されてしまいますものね。ですから、筆頭監理代理であるわたくし、事実関係を王室および公証人役場を通じて、すべて公的に洗わせていただきました」
私は手元の書類を、一枚ずつめくりながら読み上げた。
「まず第一点。お父様が出兵理由とされた『次期王太子に内定しておられるシャルル殿下が、学園において他の令嬢に現を抜かし、ローザを蔑ろにした』という件について。こちらが、王立学園監理局およびシャルル殿下直筆の署名捺印入りの調査報告書でございます」
「なっ……!?」
「殿下があの平民特待生のマリア嬢と密会していたのは事実です。しかしその内容は、『平民街の孤児院に対する助成金の不正横領事件について、現地の証人として彼女から極秘裏に事情聴取を行っていた』というものでした。殿下は次期国王としての重大な公務を遂行されていたのであり、痴情のもつれなどは欠片も存在いたしません」
会議室がざわりと揺れた。騎士たちの鼻息がピタリと止まる。
「さらに、殿下からの書簡にはこう記されております。『ルヴァン公爵令嬢ローザの矜持を傷つける意図は毛頭なく、職務上の秘密保持義務による説明不足であった。心より謝罪する。つきましては、次期王妃教育における彼女の負担を考慮し、公務分担の適正化および王室特別手当の増額を正式に提示する』……と」
「ば、馬鹿な! だが、お前は悲しそうにしていたではないか!」
狼狽する父に、私は首を傾げてみせた。
「ええ、悲しゅうございましたわ。殿下がそのような重大な不正事件を一人で抱え込み、私に相談してくださらなかったことが、次期伴侶として情けなくて。……ですがお父様、まさか国家の不正を正そうと奔走されていた王太子候補に対し、『公務で娘を構わなかったから』という理由で私兵二千を王都へ進軍させ、地下牢にぶち込むおつもりだったのですか?」
「ぐっ……そ、それは……!」
百戦錬磨の父の顔が、見る見るうちに羞恥で赤く染まっていく。
円卓を囲む重臣たちから、「な、なんだと……」「ただの公務の行き違いではないか」「それに軍を動かそうとしていたのか……?」と、冷ややかな囁きが漏れ始めた。
「そして第二点。こちらが最重要事項でございます」
私はもう一つの、ひときわ分厚い書類をトン、と机に置いた。
ダニエルが静かに口を開く。
「過去五年における、ヴォルフラム閣下の『お嬢様溺愛行動』に伴う、領地財政からの不正・過剰支出に関する内部監査報告書でございます」
会議室の空気が、今度こそ完全に凍りついた。
「お父様。あなたがこれまで『ローザのため』と仰って私兵を動かしたり、王都の商館を買い占めたり、他領へ武力威嚇を行った際の費用……総額、金貨四万二千枚に達しております」
「よ、四万……!?」
「はい。この莫大な赤字を補填するため、本来であれば国境の砦の修繕に充てられるはずだった予算が三割削減され、領内の減税計画は二年も先送りにされております。領民たちは『軍神様が国を守るためなら』と耐え忍んでまいりましたが、まさかその実態が『娘の機嫌取りのための浪費』であったと知ったら、皆様はどう思われるでしょうか?」
重臣たちや将軍たちの視線が、父へと突き刺さった。
先ほどまで「王城を火の海に」と息巻いていた騎士団長までもが、青ざめた顔で書類の数字を凝視している。
「お、おい、ローザ、待ちなさい! 私は、お前のために……お前を愛しているからこそだな……!」
「ええ、存じておりますわ」
私は冷徹なまでに甘やかな笑みを浮かべ、とどめの書類を父の前に滑らせた。
「お父様は仰いましたね。『愛しい我が娘の涙一滴のためなら、この父は反逆の大罪人と呼ばれても構わん』と。そこまで私を愛してくださっているのなら――私がこれ以上、一滴の涙も流さずに済むよう、公爵家家憲第七条の特例条項に基づき、この『領内軍事行動および特別予算執行に関する全権委譲協約書』に、今すぐご署名いただけますわね?」
「な、全権……委譲……!?」
「はい。今後の軍の動員、対外折衝、および予算の執行において、すべて公爵家筆頭監理官であるこの私――ローザ・ルヴァンの事前決裁を必須といたします。すでに重臣会議の構成員六名のうち、文官長、筆頭家令、ならびに親族代表のお二人――合わせて過半数となる四名から、家憲に従って事前承認の署名をいただいておりますわ」
ダニエルが提示した四名の正式な承認状の束を見て、父は絶句した。完全に外堀は埋まっていたのだ。
「また、お父様が『娘のため』と称して公金を私的に流用、あるいは無断で軍を動かされた場合、即座に家督を隠居していただき、領内の修道院にて終身謹慎していただく条項を盛り込みました。もちろん、私の尊厳を守るためなら、お父様は命すら惜しくないとおっしゃったのですから、この程度の書類、喜んで承認してくださいますわよね?」
相手の吐いた免罪符を、一文字たりとも否定せず、そのまま法的な首輪として相手の首に巻き付ける。
父の言い訳の余地は、文字通りゼロだった。
「娘のためなら何でもする」と公言した手前、これを拒否すれば「娘のためというのは口先だけの嘘だった」と自ら認めることになる。
「ぐ、ぬぅぅぅ……! あ、あああ……」
父は震える手で羽ペンを握りしめ、まるで降伏文書に調印する敗軍の将のような顔で、署名欄にその名を刻んだ。
「……確かに、公爵閣下の正式なご署名を確認いたしました」
私は書類を回収すると、円卓の全員に向かって、完璧な淑女のカーテシーを披露した。
「重臣の皆様、お騒がせいたしました。家憲に基づき、王都への出兵計画は直ちに白紙撤回とし、動員準備に入っていた兵たちには特別手当を支給して速やかに持ち場へ帰還させます。シャルル殿下へは、我がルヴァン公爵家より正式な協力の書状を送り、孤児院の不正横領事件の全貌解明に向けて、我が家の監査官を派遣することといたします。……軍議は以上でございますわ」
その後のルヴァン領の改革は、まさに電光石火だった。
まず、父の独断専行が完全に封じられたことで、軍の運用コストは従来の四割にまで圧縮された。浮いた莫大な予算は、即座に国境砦の防壁強化と、領民への減税措置へと回された。
私兵を私物化することを禁じられた父は、朝から晩まで私の決裁印をもらうために執務室の前で直立不動で待たされる日々を送ることになり、領内の文官たちからは「ローザ様こそが真の領主様だ」と熱烈な信奉を集めるようになった。
一方、王都のシャルル殿下とは、手紙のやり取りを重ねる中で、それまでとは全く違う関係が築かれつつあった。
事件の解決後、視察と称して自らルヴァン領まで足を運んできた殿下は、二人きりになったサロンで、普段の理知的な仮面を崩して深く頭を下げたのだ。
「すまなかった、ローザ。君に余計な心配をかけまいとした結果、君の父上を刺激し、君自身にも多大な負担を背負わせてしまった。……だが、君が一人で領内の混乱を完璧に収拾したと聞いたとき、私は自分の浅慮を恥じると同時に、君という女性に心底見惚れてしまったんだ」
紺碧の瞳を真っ直ぐに向けて、彼は私の指先にそっと唇を落とした。
その耳たぶが、夕焼けのように赤く染まっていたのを私は見逃さなかった。
「私はこれまで、君を『公爵家との政略結婚の相手』としてしか見ていなかったのかもしれない。だが今は違う。私の生涯の伴侶として、共にこの国を導く対等な味方として……私自身が、君を乞い願っている。どうか、私と本当の婚約を結び直してくれないだろうか」
事務的で冷徹だったはずの彼の熱のこもった告白に、私の胸もわずかに跳ねた。
もちろん、私は公爵令嬢として、そしてリアリストとして、「父には一切の手出しをさせないこと」「王妃教育と領地監査の権限を両立させること」という特約条項付きの契約書を差し出し、殿下は苦笑しながらも嬉しそうにそれにサインしたのだけれど。
半年後の、澄み渡る秋の朝。
ルヴァン公爵邸の最上階にある私の私室のバルコニーからは、美しく整備された城下町と、黄金色に輝く麦畑が一望できた。
「お嬢様、淹れたてのアールグレイと、今朝焼き上がったアップルパイをお持ちいたしました」
ダニエルが銀のトレイを恭しくテーブルに置く。
ひんやりとした朝の空気に、ベルガモットの華やかな香りと、シナモンの甘い匂いがふわりと溶け合っていく。
「ふふ、いい香り。ありがとう、ダニエル」
「閣下は今朝も、『ローザに会いたい、一目でいいから顔を見せてくれ』と執務室の前で泣きついておられますが、いかがなさいますか?」
「今日の決裁書類にすべて目を通し、誤字脱字の修正を完璧に終えたら、お茶の時間の五分間だけ面会を許可すると伝えて頂戴」
「畏まりました。閣下も張り切って文字の練習をなさるでしょう」
ダニエルが楽しそうに一礼して下がっていく。
カップを持ち上げ、温かい紅茶を静かに一口含む。
舌の上に広がる上品な渋みと甘みが、心地よく身体を覚醒させていく。
もう、理不尽な破滅の未来に怯える必要はない。
誰かの暴走に振り回され、一族の命運をすり減らすこともない。
どこまでも高く澄み渡る青空を見上げながら、私は今日という素晴らしい一日を統治するために、優雅に微笑んだ。




