第7話 雨の日の論理
朝から、バケツをひっくり返したような豪雨だった。
窓ガラスを叩く雨音が、教室内の講義の声をかき消している。
私は窓の外、灰色のカーテンに覆われた空を見上げた。
気圧990ヘクトパスカル。魔力の大気中濃度が乱れている。
こういう日は、繊細な魔導式が狂いやすい。
「……リナ嬢がいないな」
ふと、誰かが囁いた。
言われてみれば、リナ・ベルモンドの席は空席だった。
先日の「ハサミ事件」以来、彼女は教室でも孤立していた。
王太子ジュリアン様だけが彼女を庇っているが、その彼も最近は公務を理由に彼女との接触を減らしているというデータがある。
追い詰められた人間は、非合理的な選択をする。
嫌な予感がした。
私は手帳のページをめくり、リナ嬢の最近の購買履歴(使用人が街で拾った噂)を確認する。
『マンドラゴラの根』『水銀』『魅了の宝珠』。
……正気なの?
それは「惚れ薬」などという可愛らしいものではない。
古代の禁呪に近い、精神汚染剤のレシピだ。
その時だった。
ドォォォォォン!!
腹の底に響くような轟音と共に、地面が揺れた。
窓ガラスがビリビリと振動する。
悲鳴が上がる。
雷ではない。もっと物理的な、爆発音だ。
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
私は即座に立ち上がり、窓の外を見た。
雨に煙る視界の先。
渡り廊下で繋がれた「旧校舎」から、ピンク色の不気味な煙が噴き上がっているのが見えた。
「……エリアスの研究室!」
血の気が引いた。
彼が実験に失敗した?
いいえ、違う。あの煙の色は、彼の使う論理的な魔力光ではない。
もっと粘着質で、歪んだ「欲」の色――魅了魔法の暴走だ。
私は教室を飛び出した。
廊下はパニックに陥った生徒たちでごった返していた。
「落ち着きなさい!」
私は声を張り上げた。
魔力で増幅した声が、騒音を切り裂く。
「新校舎は無事です! 風魔法の使い手は窓を開けて換気を! あの煙を吸い込まないで!」
私の指示に、生徒たちがハッとして動き出す。
私は人波をかき分け、現場である旧校舎へと走った。
◇
旧校舎の前は地獄絵図だった。
一階部分の壁が吹き飛び、瓦礫が散乱している。
豪雨が降り注ぐ中、逃げ遅れた生徒たちが立ち尽くしている。
指揮官がいない。
教師たちはまだ到着していない。
私はドレスの裾を捲り上げ、泥水の中に踏み込んだ。
「土属性の生徒は柱の補強を! 水属性は火の延焼を防いで! 風属性は煙を上空へ散らして!」
「アリア様!? でも、危険です!」
「動いて! 建物の倒壊リスク40パーセントです! 貴方たちが支えるのです!」
私の剣幕に押され、生徒たちが魔法を使い始めた。
的確な指示さえあれば、彼らは優秀だ。
崩れかけた壁が土魔法で固定され、有毒な煙が風で吹き飛ばされていく。
その時、向こうから騎士たちを引き連れたジュリアン様が走ってきた。
「リナ! リナはどこだ!」
「殿下!」
「アリアか! これは魔族の襲撃か!? 聖女リナを狙ったのか!?」
彼は剣を抜き、ピンク色の煙に向かって構えた。
状況が見えていない。
「剣をしまってください! ガス爆発します!」
「何だと!?」
「これは内部からの魔力暴走です! 敵はいません!」
私が彼を制止した直後。
煙の奥から、ボロ布のような人影が転がり出てきた。
「……げほっ、ごほっ……酸素が足りない」
煤だらけの白衣。
エリアスだ。
彼は膝をつき、激しく咳き込んで肺の空気を入れ替えている。
「エリアス!」
「アリアか……。現場指揮は君か。助かる」
彼は眼鏡の割れたフレームを直し、忌々しげに煙を睨んだ。
「馬鹿が一人、禁忌を踏み抜いた。違法な触媒を使って『強制魅了』の儀式を行い、制御に失敗したんだ。魔力が逆流して、空間ごと汚染されている」
「リナ嬢ですね?」
「ああ。爆心地で気絶してる。……自分の欲望に食われたな」
彼は深呼吸を一度すると、再び立ち上がった。
白衣の裾を破り、口元に巻き付ける。
「中枢へ戻る。逆流している魔力回路を物理的に切断しないと、連鎖爆発が起きる」
「危険です! あの濃度では、貴方でも精神汚染を受けます!」
「計算上、俺の演算領域が焼き切れるまで三分。それまでに術式を解体する」
彼は私の制止を聞かず、瓦礫の中へ戻ろうとする。
無謀だ。非合理的だ。
でも、この複雑怪奇な魔力暴走を止められるのは、天才である彼しかいない。
私は彼の手を掴んだ。
そして、懐の『行動記録手帳』から一枚のページを破り取った。
すかさず指先でなぞり、簡易的な「撥水・保存魔法」をかける。
「これを使ってください!」
「……これは?」
「精神防壁の修正魔法です! 貴方との研究で組んだ理論式……まだ未完成ですが、3分の時間を5分に延ばせます!」
エリアスは雨粒を弾くその紙を受け取り、目を見開いた。
そしてニヤリと笑った。
雨と泥にまみれた顔で、最高に知的な笑みを。
「上出来だ。採用する」
彼は私の手を強く握り返し、そして離した。
「ここを頼むぞ、パートナー」
「……必ず、帰ってきてください。計算結果の報告が必要です」
彼は背を向け、ピンク色の地獄へと再び飛び込んでいった。
◇
そこからの時間は、永遠のように長く感じられた。
私は豪雨の中で叫び続けた。
負傷者の搬送ルートの確保。二次崩落の警戒。
ジュリアン様は呆然と立ち尽くすばかりで、実質的な現場指揮はすべて私が行った。
貴族令嬢としての優雅さなど、泥の中に捨てた。
髪は張り付き、ドレスは破れ、声は枯れた。
それでも、生徒たちの命を守るという「目的」だけが、私を動かしていた。
そして、数分後。
爆心地から、青白い閃光が走った。
ピンク色の不気味な光が、幾何学的な青い光に上書きされ、霧散していく。
数式の光だ。
エリアスの論理が、リナの妄執に勝ったのだ。
「……終わった」
私は膝から崩れ落ちそうになった。
煙が晴れていく。
瓦礫の向こうから、エリアスがふらつきながら歩いてきた。
その肩には、ぐったりとしたリナ嬢が担がれている。
「エリアス!」
私は彼に駆け寄った。
彼はリナ嬢を駆けつけた衛生兵に引き渡すと、その場に座り込んだ。
「……疲れた。計算量が多すぎる」
「怪我は!? 汚染は!?」
「ない。君の修正魔法のおかげだ。……あの記述、完璧だったよ」
彼は割れた眼鏡を外し、私を見上げた。
雨に濡れた彼の瞳が、優しく私を映している。
「君が無事でよかった」
「それはこちらの台詞です……っ」
視界が滲んだ。
雨のせいか、それとも非論理的な感情のせいか、分からなかった。
リナ嬢が担架で運ばれていく。
彼女のポケットからは、黒焦げになったマンドラゴラの根がこぼれ落ちていた。
言い逃れのできない、禁忌の証拠だ。
彼女は自分の手で、自分の身を滅ぼしたのだ。
ジュリアン様が、蒼白な顔でリナ嬢を追いかけていく。
その背中に、もはや威厳はなかった。
「……帰ろう、アリア」
エリアスが手を差し出してきた。
泥だらけの手。
私も泥だらけの手で、それを握り返した。
「はい。……お茶にしましょう。今度こそ、ちゃんとしたカップで」
雨は小降りになり始めていた。
雲の切れ間から差す光が、廃墟となった旧校舎と、生き残った私たちを照らしていた。
この日、学院中の誰もが知ることとなった。
聖女の皮を被った暴走者と、泥にまみれて皆を救った悪役令嬢の、本当の姿を。




