第5話 舞踏会の死角
王立貴族学院の大講堂は、今夜だけは絢爛豪華な舞踏会場へと姿を変えていた。
天井には巨大なシャンデリア。
魔石を動力とした数千の灯りが、昼間のような明るさを作り出している。
私は会場の入り口で、招待客リストのチェックを受けていた。
「ローズブレイド公爵令嬢、ご到着です」
従僕の声が響く。
一斉に視線が集まるのを感じた。
彼らが期待しているのは、派手な真紅のドレスに身を包み、宝石をジャラジャラと鳴らす「悪役令嬢」の姿だろう。
ゲームの立ち絵通りならば。
けれど、私は裏切る。
私が選んだのは、深いミッドナイトブルーのドレスだ。
装飾は最小限の銀刺繍のみ。
派手さはないが、夜の闇に溶け込み、かつ凛とした印象を与える色。
「主役」の座を降り、「観測者」に徹するための戦闘服だ。
私は扇を開き、口元を隠して優雅に入場した。
ざわめきが波紋のように広がる。
「……あれがアリア様か? 随分と落ち着いていらっしゃる」
「もっとヒステリックな方だと聞いていたけれど」
雑音は無視する。
私は会場の中央へ視線を向けた。
そこには、私の婚約者である王太子ジュリアン様と、男爵令嬢リナが並んで立っていた。
リナ嬢は、純白のドレス。
まるで花嫁衣裳だ。
本来なら婚約者である私への宣戦布告であり、ここで私が激昂して詰め寄るのが「正解のルート」。
しかし、私は足を止めた。
二人の周囲五メートル手前で。
――臭う。
甘ったるい花の香り。
だが、その奥に潜むツンとした刺激臭。
私は鼻を動かし、成分を分析する。
「夢見の香草」……微量な興奮作用と判断力を鈍らせる成分が含まれている。
ジュリアン様の頬が紅潮し、瞳孔がわずかに開いているのは、恋のせいだけではない。
リナ嬢、貴女という人は。
シナリオを進めるために、薬物にまで手を出すのですか。
私は扇で鼻先を覆い、接触を回避する判断を下した。
あの空間に入れば、私も正常な判断力を失いかねない。
「ごきげんよう、殿下。そしてリナ様」
距離を取ったまま、完璧なカーテシーを披露する。
「ア、アリア……。その、今夜は……」
ジュリアン様が言い淀む。ろれつが少し回っていない。
隣のリナ嬢が、彼の腕にギュッとしがみついた。
勝ち誇ったような、それでいて私が爆発するのを期待する目。
「殿下。ファーストダンスのお時間ですが」
私が水を向けると、ジュリアン様は苦しげにリナ嬢を見た。
「すまない、アリア。リナが……その、初めての舞踏会で緊張していてね。私が支えてやらねばならないんだ」
「なるほど。リナ様の体調管理は重要です」
私は一切の嫌味を含ませず、頷いた。
「それに、三名でのダンスは構造的に不可能です。回転モーメントが崩壊し、転倒のリスクが九割を超えます」
「え?」
「お二人の熱量も見事です。私が間に割り込めば、その繊細な均衡を崩してしまいますわ」
私は一歩、後ろに下がった。
毒のある空気から遠ざかるように。
「どうぞ、お二人で。私は壁の花として、その美しい光景を拝見させていただきます」
ジュリアン様が呆気にとられた顔をした。
リナ嬢の表情が引きつる。「なんで近づいてこないの?」という声が聞こえてきそうだ。
私は二人に背を向け、人混みを避けるように会場の端へと移動した。
私は勝利した。
「王太子の顔を立てて身を引いた、分別ある婚約者」という実績を残し、かつ薬害リスクを回避して。
◇
会場の隅、巨大なベルベットのカーテンの陰。
そこはメインフロアの光が届きにくい、計算通りの死角だ。
先客がいた。
「……遅い」
壁に寄りかかり、死んだ魚のような目でグラスを見つめている青年。
エリアスだ。
いつもの白衣ではない。
漆黒のフォーマルスーツに身を包んでいる。
伸びた前髪は整えられ、眼鏡も磨かれている。
素材が良いことは知っていたが、正装した彼は、会場のどの貴公子よりも知的で洗練されて見えた。
「珍しいですね、貴方がこんな場所にいるなんて」
「実家の親父に脅されたんだ。『研究費を切り詰めるぞ』とな。……非論理的な脅迫だ」
彼は忌々しげにグラスの中身――ただの炭酸水を揺らした。
「それに、ここは地獄だ。複数の香水が混ざり合って化学兵器並みの悪臭になっている。特に中央付近、あれは規制薬物スレスレだぞ」
「ええ。私も検知しました。だから避難してきたのです」
私が隣に並ぶと、彼は少しだけ表情を緩めた。
まるで、酸素を見つけた深海魚のように。
「……君の匂いは、落ち着くな。古いインクと、紅茶の匂いだ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私たちは並んで、会場の中央を眺めた。
スポットライトの下、ジュリアン様とリナ嬢が踊り始めている。
リナ嬢は幸せそうに微笑み、周囲に愛想を振りまいている。
まるで物語の主人公だ。
しかし。
「……軸がぶれているな」
「ええ。殿下の重心が右に偏っています。リナ嬢が体重をかけすぎているせいで、遠心力の制御ができていません」
私たちはダンスの情緒ではなく、物理的な運動エネルギーの話をしていた。
周囲の貴族たちの反応も、リナ嬢が期待したものとは違うようだ。
「王太子殿下は婚約者を放置して何を?」「アリア様が可哀想に」という冷ややかな囁きが聞こえる。
私の沈黙が、彼らの行動の「異常性」を際立たせているのだ。
「踊らないのか? アリア」
不意に、エリアスが問うた。
「計算が合わない相手とは踊れません。足を踏む確率が高いですから」
「賢明だな」
彼はフッと笑った。
そして、持っていたグラスをサイドテーブルに置く。
彼は私の方を向き、ほんの少しだけ、手を差し出した。
ダンスの申し込みではない。
もっと控えめで、けれど確かな意思表示。
「俺もダンスは嫌いだ。非効率的で疲れる」
「はい」
「だが、ここでの立ち話なら、付き合ってやってもいい。……君との会話だけは、ノイズがないからな」
私は扇を閉じ、彼の手のひらに自分の指先を重ねた。
手袋越しの体温。
握りしめるわけでも、引くわけでもない。
ただ、そこにあることを確認するような接触。
「ええ、教授。最近の論文について議論しましょう。精神干渉防御の術式、第三層の構築についてですが」
「ああ、あそこは再帰関数を使うべきだ。外部刺激をループさせて無効化する……」
華やかな音楽も、煌びやかなシャンデリアも、私たちには背景に過ぎない。
世界の中心から外れた、薄暗いカーテンの陰。
そこだけが、世界で一番静かで、満ち足りた場所だった。
遠くでリナ嬢がこちらを睨んでいるのが見えた気がしたけれど、私はもう、彼女を観察対象としてすら見ていなかった。
私の目の前には、私と同じ言語を話す、唯一のパートナーがいるのだから。




