第4話 仮説と検証
フラスコの中の液体が、アルコールランプの熱でコポコポと音を立てている。
実験室には、炒った豆の芳ばしい香りが漂っていた。
「……抽出完了。温度八五度。完璧です」
「ああ。カフェインの純度も悪くない」
私はフラスコから、「飲食専用」の棚から取り出したティーカップへ、琥珀色の液体――紅茶を注いだ。
旧校舎の図書室奥にあるこの研究室は、今や私の第二の居場所となっていた。
地下水路の一件以来、私たちの距離は縮まった。
といっても、甘い雰囲気ではない。
エリアスは相変わらず研究没頭型の変人だし、私はその実験を「観察と記録」して楽しむパートナーだ。
学院内では、妙な噂が流れているらしい。
『公爵令嬢が、あの変人伯爵の実験台にされている』
『いや、アリア様が禁断の魔術で彼を洗脳したらしい』
どちらも的外れだ。
私たちはただ、互いの知識というパズルを組み合わせているだけ。
それがどれほど知的で贅沢な遊びか、彼らには理解できないだろう。
「アリア、今日の講義は?」
「三限目は自習になりました。新校舎の図書室へ資料を返しに行ってきます」
「……あそこは人が多い。雑音に気をつけろよ」
エリアスは書類から目を離さずに言った。
彼なりの不器用な心配だ。
私は小さく笑って頷き、研究室を出た。
◇
新校舎の渡り廊下は、休み時間の生徒たちで賑わっていた。
私が通ると、波が引くように道が開く。
遠巻きな視線と、ひそひそ話。
私の背筋が伸びているだけで「高慢だ」と解釈される。「悪役令嬢」としての威圧感は健在らしい。
私は雑音を無視し、最短ルートで図書室を目指す。
その時だった。
「アリア様!」
行く手を遮るように、小柄な人影が飛び出してきた。
ピンクブロンドの髪。
潤んだ大きな瞳。
リナ・ベルモンド男爵令嬢だ。
彼女は両手を広げ、私の前に立ちはだかっていた。
周囲の生徒たちが、「またいじめか?」「聖女様が立ち向かっているぞ」とざわめき始める。
私は足を止め、冷静に彼女を見下ろした。
「ごきげんよう、リナ嬢。何か御用でしょうか」
「……どうして、何もしないんですか?」
彼女の声は震えていた。
怯えているのではない。怒っているのだ。
「何もしないとは?」
「とぼけないでください! 私が入学してから、教科書への落書きも、靴への画鋲も、ダンスの練習妨害も、一度も起きていません!」
一瞬、周囲の空気が凍った。
アリア様がやっていないことを、なぜ彼女が怒るのか?
生徒たちの困惑が伝わってくる。
「それは結構なことですね。学院の治安が良い証拠です」
「違います! 貴女がやるべきなんでしょう!?」
リナ嬢が一歩詰め寄ってきた。
その瞳には、狂気的な焦燥が宿っていた。
「貴女が悪役らしく私をいじめて、それをジュリアン様が助けて……そうやって愛が深まる手順なんです! 貴女がサボっているせいで、イベントが起きないじゃない!」
シン、と廊下が静まり返った。
彼女の声が大きすぎて、全員に聞こえてしまった。
「シナリオ」「イベント」。
意味不明な単語を叫び散らす彼女を、周囲は「可哀想な子」を見る目で見始めている。
だが、彼女自身は周りが見えていない。
私は静かに手帳を取り出した。
記録するためではない。自分の思考を整理するためだ。
彼女は病んでいる。
「前世の知識」という毒に侵されている。
彼女にとって、この世界はゲームであり、他人はNPCなのだ。
だから、私がプログラム通りに動かないことが許せない。
「脚本」に依存し、自分の頭で考えることを放棄している。
「リナ嬢」
「な、何よ」
「貴女は、ご自分の人生を生きるつもりはないのですか?」
私の問いに、彼女はきょとんとした。
「は? 何言ってるの? これは『救国の聖女』の物語よ? 私が幸せになるって決まっているの。貴女は踏み台になればいいのよ!」
会話が成立しない。
彼女は見ている世界が違う。
これ以上関わると、こちらの論理的思考まで汚染されそうだ。
私はため息をつき、彼女の横をすり抜けた。
「待って! 逃げるの!?」
「逃げてはいません。無意味な会話を終了しただけです」
背後で彼女が何か叫んでいたが、私は振り返らなかった。
論理の通じない相手に、言葉は届かない。
◇
旧校舎に戻った私は、自分の席に座り込むと、深く息を吐いた。
指先が微かに冷たい。
「……戻ったか」
エリアスが実験の手を止め、私を見た。
彼は私の顔色を見ると、何も聞かず、棚から自分用のマグカップを取り出し、ポットの白湯を注いで差し出した。
「顔色が悪い。計算式が三行ほど飛んでる顔だ」
「……エリアス」
私は温かいマグカップを両手で包み込んだ。
陶器越しに伝わる熱が、冷えた指先を溶かしていく。
「もし、この世界のすべてがあらかじめ決まった脚本通りだとしたら……貴方はどうしますか?」
それは、私の根本的な恐怖だった。
リナのあの確信に満ちた目。
いくら私がシナリオを拒否しても、世界の強制力が働き、最終的に私は断罪されるのではないか。
私の自由意志など、巨大な物語の前では無意味なのではないか。
エリアスは眼鏡を外し、布で拭いながら淡々と答えた。
「脚本? 運命論か。ナンセンスだな」
「なぜですか? 未来が計算済みである可能性は否定できません」
「計算済みだとしても、それは『初期条件』が固定されている場合に限る」
彼は眼鏡をかけ直し、黒板に向かった。
チョークを取り、一つの図式を描く。
$入力因子(x) \rightarrow 世界(関数) \rightarrow 未来(y)$
「世界を関数とするなら、未来という出力は、入力因子によって決まる。運命論者はこの入力因子が固定だと信じているんだろう。だが」
彼は入力因子の部分に、丸印をつけた。
「ここには無限の変数が代入可能だ。風の向き、気温、誰かの気まぐれな選択。たった一つの変数が変われば、出力される未来は全く別の値になる」
彼は振り返り、私を真っ直ぐに見た。
「アリア。君は、そのシナリオ通りの行動をしたか?」
「……いいえ。拒否しました」
「なら、計算式はすでに書き換わっている。初期条件が変わったんだ。以前と同じ未来が出力されるはずがない」
彼の言葉は、あまりにも明快だった。
魔法や奇跡ではない。
純粋な数学的帰結としての、運命の否定。
「君という変数が、イレギュラーな値を入力し続ける限り、未来は未定だ。俺が保証する」
胸の奥の澱が、すっと消えていくのがわかった。
リナがどれほど騒ごうと、彼女の持っている攻略本は、もうこの世界の仕様書ではないのだ。
「……ありがとうございます。貴方の論理は、いつも私の特効薬ですね」
「礼には及ばん。事実を述べただけだ」
彼は照れ隠しのように顔を背け、実験器具に向き直った。
「それより、アリア。その『脚本』とやらを強制しようとする力が働くなら、それは一種の精神干渉魔法に近い」
「精神干渉……確かに、リナ嬢の周りでは、人々の判断力が低下しているように見えます」
「なら、対策が必要だ。脳の論理領域をプロテクトし、外部からの情動入力を遮断する術式。……組んでみるか?」
エリアスの提案に、私は手帳を開いた。
新しいページ。新しい目的。
「ええ、是非。最強の防壁を築きましょう」
運命に抗うための盾。
それを二人で作る。
その作業は、どんな甘いデートよりも胸が高鳴る「約束」だった。




