第3話 予言ではなく、予測
旧校舎の研究室に通い始めて、二週間が経過した。
「……おい、アリア。水流が安定しない。冷却が追いつかないぞ」
「配管の圧力係数を確認してください。エリアス」
私は手元の『行動記録手帳』から目を離さずに答えた。
実験机の向こうで、エリアスが不機嫌そうに蛇口をひねっている。
チョロチョロと、頼りない水音が響くのみだ。
「駄目だ。ここ数日、学院全体の水圧が死んでいる。これじゃ高出力の実験は無理だ」
「原因は明白ですね」
私はペンを置き、窓の外を見た。
新校舎の方角が、やけに騒がしい。
ここ数日、学院内ではボヤ騒ぎや異臭騒ぎが頻発していた。
生徒たちは「魔王の復活の前兆か」などと無責任に噂している。
そして今日。その噂に、決定的な「解答」が与えられたらしい。
窓から見える中庭には、多くの生徒が集まっている。
その中心にいるのは、煌びやかな騎士服に身を包んだ王太子ジュリアン様と、聖女のような白いドレスを着たリナ嬢だ。
風に乗って、ジュリアン様の演説が聞こえてくる。
『皆、恐れることはない! リナの“聖なる予知”が、元凶の居場所を示した!』
わっと歓声が上がる。
私は冷めた目でそれを観察した。
『北の森だ! そこに潜む魔獣こそが、学院を脅かす元凶である! これより生徒会執行部を中心とした精鋭部隊で討伐に向かう!』
リナ嬢が胸の前で手を組み、祈るようなポーズで空を見上げている。
絵画のように美しい構図だ。
シナリオ通り。
私の記憶によれば、これは「第一章・魔獣討伐イベント」。
北の森に現れた変異種を倒し、リナ嬢の聖女としての地位が確立される重要な局面だ。
「……くだらない」
私は窓を閉めた。
歓声が遮断され、静寂が戻る。
「北の森に行くのか? あいつらは」
「ええ。予言に従って」
「非論理的だ。今の風向きは南東。もし北の森で異変が起きているなら、臭いは学院まで届かない」
エリアスが眼鏡の位置を直し、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
彼も気づいている。
天才的な魔導研究者である彼にとって、この状況の違和感は明白すぎるのだ。
「事実を整理しましょう」
私は手帳のページを捲り、ここ数日の観測データを読み上げた。
「一、学院内で硫黄に似た魔力臭が断続的に発生している」
「二、特に低い土地にある校舎――この旧校舎や食堂裏での被害が大きい」
「三、上水道の水圧低下と、排水の逆流現象」
私は指を一本立てる。
「結論。原因は『北の森』などの遠方ではない。私たちの足元です」
「地下水路か」
「はい。学院の地下を流れる魔導排水路。そこの『詰まり』が魔力溜まりを起こし、揮発した魔力が小規模な発火や悪臭を引き起こしている」
ゲームのシナリオでは、確かに敵は「北の森」に現れる設定だった。
だが、現実はゲームではない。物理法則が支配する世界だ。
北の森の魔獣は、地下から溢れた魔力に引き寄せられた「結果」に過ぎない。
元凶を絶たなければ、魔獣を倒してもまた次が現れる。
「放っておけばいい」
エリアスは興味なさそうに椅子に座り込んだ。
「あいつらが森で徒労に終わろうが、俺たちの知ったことじゃない」
「いえ、困ります」
「なぜだ?」
「地下の魔力溜まりが臨界点を超えれば、水蒸気爆発が起きます。計算上の被害範囲は半径500メートル。この旧校舎は倒壊します」
「……俺の研究室が潰れるな」
エリアスがガタリと音を立てて立ち上がった。
その瞳に、明確な殺気――もとい、研究環境を守るための使命感が宿る。
「行くぞ、アリア。掃除だ」
私の求めていた答えだ。
私は口元だけで微かに笑い、頷いた。
「はい。予測に基づいて、リスクを排除しましょう」
◇
私たちは旧校舎の地下ボイラー室を経由し、学院の地下水路へと降りた。
冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。
鼻を突くのは、腐敗臭とツンとする刺激臭。
足元はぬかるんだ石畳だ。
私は制服のスカートの裾を手で持ち上げたが、足元は革靴だ。
このまま進めば、泥と汚水で台無しになるだろう。
けれど、構わない。ドレスの汚れよりも、事実の解明の方が優先だ。
そう覚悟を決めて踏み出そうとした時、足元がふわりと軽くなった。
「……汚れるぞ」
エリアスが短く言った。
見ると、私の靴の周りに薄い空気の膜が展開されている。
『斥力フィールド』の応用だ。
「君が泥まみれになると、俺の研究室まで汚れるからな」
「……合理的配慮、感謝します」
素直じゃない彼の優しさに、口元が緩む。
私たちは光魔法を灯し、奥へと進んだ。
「数値が跳ね上がっている。こっちだ」
エリアスが示す先、水路の合流地点。
そこに「それ」はあった。
巨大なヘドロの塊。
いや、生活排水と古い魔導廃液が混ざり合い、ゲル状に固着したスライム状の障害物だ。
それが水路を完全に塞き止めている。
行き場を失った水と魔力が、赤黒い光を放ちながら脈打っていた。
「……酷いな。誰かが捨てた実験廃棄物の魔石が核になっている」
「物理攻撃では飛び散るだけです。焼却すればメタンガスに引火して爆発します」
「ああ。分解するしかないな」
エリアスが白衣を翻し、チョークを取り出した。
水路の壁面に直接、構築式を書き込み始める。
「アリア、加水分解の構成式だ。粘度係数をゼロまで落とす。組めるか?」
「可能です。30秒ください」
私は手帳を広げ、即座に計算を開始した。
彼が巨大な「枠組み」を作り、私が最適な「分解プログラム」を充填する。
言葉を交わさなくても、互いの意図が手に取るようにわかる。
本来なら、王太子と聖女が愛を語らいながら進むべきイベントの時間。
私たちは暗い地下道で、汚泥と向き合い、数式を組み立てている。
泥臭くて、地味で、誰も見ていない作業。
けれど。
「できたぞ。接続しろ!」
「リンク確立。充填率100パーセント……起動!」
二人の声が重なった瞬間。
魔法陣から淡い青色の光が放たれた。
光はゲル状の塊を包み込み、音もなく分解していく。
分子レベルで結合を解かれた汚れが、さらさらとした水に戻り、下流へと流れていく。
詰まりが解消され、ごうごうと健康的な水音が響き始めた。
「……クリア」
私は手帳を閉じ、息を吐いた。
淀んだ空気が、急速に清浄化されていくのがわかる。
ふと横を見ると、エリアスが壁に背を預け、眼鏡を拭っていた。
彼は私を見て、ニヤリと不敵に笑った。
「悪くない手際だ。助手の合格点はやってもいい」
「助手ではありません。共同研究者です」
「……ああ、そうだったな」
彼は否定しなかった。
薄暗い地下道、二人きりの空間。
でも、どの舞踏会よりも、今の私たちが成し遂げたことの方が「美しい」と、私は確信していた。
地上では今頃、リナ嬢たちが空振りの森を探索している頃だろうか。
魔獣など、最初からいなかったのだから。
私はエリアスに手を差し出した。
彼がその手を握り返す。
実験とインクの染み付いた手は、温かく、頼もしかった。
「帰りましょう、エリアス。温かい紅茶が飲みたいです」
「賛成だ。実験の続きもしないとな」
私たちは光の差す出口へと歩き出した。
誰にも称賛されない、けれど確かな勝利を胸に。
◇
翌日。
王太子率いる討伐隊は、泥だらけで帰還した。
「魔獣は気配を察して逃げたようだ」という苦しい言い訳と共に。
学院の異臭騒ぎがピタリと止んだ理由を、彼らは永遠に知ることはない。




