第2話 埃まみれの出会い
「……なんだ、君は」
本の山が崩れた先から現れたのは、一人の男子生徒だった。
身長は私より頭一つ分高い。
学院のブレザーの上から、薄汚れた白衣を雑に羽織っている。
黒髪は手入れされておらず、長い前髪が銀縁眼鏡にかかっていた。
そして何より、酷い有り様だった。
頬には煤が付き、袖口は青いインクで汚れている。
私は観察する。
インクの瑞々しさから見て、汚れはつい先ほど付着したもの。
煤の匂いは、小規模なボヤ騒ぎ、つまり魔力暴発の痕跡。
彼は直前までここで実験を行い、失敗したのだ。
彼は眼鏡の奥から、あからさまに不機嫌な視線を私に向けた。
「ここは立入禁止区域じゃないが、遊び場でもない。迷子なら回れ右して新校舎へ帰れ」
冷淡な声。
公爵令嬢である私に対し、敬語すら使わない。
通常の令嬢なら「無礼者!」と激昂するか、「怖いわ」と怯える場面だろう。
けれど、私は安堵していた。
彼の言葉には、社交辞令というノイズが一切ない。
非常に効率的だ。
「迷子ではありません。私は静かな場所を探してここに来ました」
「なら外へ行け。ここは俺の思考領域だ。他人の呼吸音すらノイズになる」
彼はシッシッと手を振ると、机上の荒れた書類を乱暴に整理し始めた。
私への興味はゼロ。
完全に「邪魔な羽虫」扱いだ。
私は彼の手元を見た。
彼が今、書き殴ろうとしている羊皮紙。
そこには、先ほど私が「美しい」と感じた計算式の続きが記されようとしている。
やはり、彼は気づいていない。
その式の末尾にある、致命的な熱量計算のミスに。
「その式、そのまま起動すると右辺が崩壊しますよ」
私は事実だけを告げた。
彼のペンの動きが止まる。
背中越しに、凍りつくような沈黙が流れた。
ゆっくりと、彼が顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、先ほどとは違う鋭い光を帯びて私を射抜く。
「……は?」
「第三項の魔力循環係数です。入力を0.8で抑えても、ループ回数が増えれば熱量が指数関数的に増大します。外部への放熱ポートが定義されていません」
私は一歩近づき、彼の手元にある紙の余白を指差した。
「ここを並列処理に変えて、余剰熱を光に変換して逃がすべきです。そうすれば、術式は安定します」
彼は無言で私を睨み、それから手元の紙に視線を落とした。
食い入るように、私の指摘した箇所を追う。
一秒。
二秒。
彼の表情が変わっていく。
苛立ちから、疑念へ。
そして、純粋な驚愕へ。
「……嘘だろ」
彼はボソリと呟くと、新しい紙を引き寄せ、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
カリカリカリ、と硬質な音が響く。
私はその様子を、机の傍らで黙って見守った。
思考の速度が見えるようだ。
彼は私の提案を鵜呑みにせず、自分の頭で即座に検算(検証)している。
その姿勢こそが、信頼に足る研究者の証だ。
数十秒後。
彼は手を止め、書き殴った数式を見下ろした。
右辺は「0」。
完全な収束を示していた。
「……通った」
彼は乱れた前髪を掻き上げ、深いため息を吐いた。
そして、ようやく私を直視する。
そこにはもう、羽虫を見るような色はなかった。
「アンタ、何者だ」
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「ただの貴族令嬢じゃないな。この『光変換バイパス』の発想は、教科書には載っていない。今の魔導工学のトレンドからは完全に外れてる」
「教科書は、過去の成功例を載せているだけですから」
私は淡々と答えた。
彼が私の「身分」や「顔」ではなく、「発想」を見てくれたことが、胸の奥をくすぐる。
こんな高揚感は、王太子との茶会では一度も感じたことがない。
「私はアリア。アリア・ローズブレイドです」
ドレスの裾を摘み、淑女の礼をする。
ただし、社交界用の媚びた角度ではなく、対等な学者への敬意を示す角度で。
「……ローズブレイド? あの公爵家の?」
彼は眉をひそめたが、すぐに興味なさそうに鼻を鳴らした。
「家名なんてどうでもいいか。俺はエリアス。エリアス・ノークスだ」
「ノークス……伯爵家の?」
「三男だ。家からは勘当同然の扱いだがな」
エリアス・ノークス。
私は脳内のデータベースを検索する。
ゲーム本編には登場しない名前だ。
少なくとも、攻略対象ではない。モブキャラですらない、背景の一部。
けれど、目の前にいる彼は、背景などではない。
明確な論理と、私を凌駕する熱量を持った、生きた人間だ。
「それで、アリア嬢」
エリアスは、書き終えたばかりの紙を私に向けた。
口元に、微かな、しかし挑戦的な笑みが浮かんでいる。
「この式の続き、どう組むつもりだった? 光に変換したら、隠密性が損なわれる。アンタならどう消す?」
試されている。
意地悪な質問だ。
けれど、その問いは「私」に向けられている。
「悪役令嬢」でも「婚約者」でもなく、私の知性そのものへの問いかけ。
楽しくて、仕方がなかった。
「光の波長を、人の目に見えない領域――『紫の外側』までずらせばいいんです」
「……なるほど。だが魔力消費が増えるぞ」
「その分、構築式を圧縮します。あなたの書いた第五行目の記述、三割は削れますよ」
私は机の上のペンを一本借りた。
そして、彼の数式の隣に、さらさらと自分の式を書き込んでいく。
埃っぽい部屋の中で、二人のペンの音だけが重なる。
窓から差し込む西日が、宙を舞う埃を黄金色に染めていた。
この瞬間。
私は確かに、自分の人生を生き始めていた。
今頃中庭で繰り広げられているはずの「運命の恋」など、比較にならないほど些細な出来事に思えた。




