第1話 脚本の廃棄
春の日差しが、王立貴族学院の石造りの回廊に鋭角な影を落としている。
私は回廊の円柱の陰に身を寄せ、手元の懐中時計を確認した。
午後一二時一五分。
気温一八度。微風。
条件は揃っている。
私の名前はアリア・ローズブレイド。
この国の筆頭公爵家の娘であり、王太子殿下の婚約者。
そして――この世界が『救国の聖女と銀の王子』という乙女ゲームの舞台であることを「観測」してしまった転生者でもある。
視線の先、中庭の噴水広場を見る。
色とりどりの花が咲き乱れるそこは、ゲームのオープニングイベントの舞台だ。
来る。
回廊の向こうから、小走りで現れる人影があった。
ピンクブロンドの緩いウェーブヘア。
制服のスカートを規定より三センチほど短く着こなした、小柄な少女。
男爵令嬢、リナ・ベルモンド。
この物語の「ヒロイン」だ。
彼女はきょろきょろと不自然に周囲を見回している。
視線の動線が定まっていない。何かを探している――あるいは、誰かが「そこにいること」を確認しようとしている目だ。
やがて彼女の視線が、噴水の向こう側から歩いてくる金髪の青年――王太子ジュリアン様に固定された。
脳内の記憶データと合致する。
あと一〇秒。
彼女は何もない平坦な石畳で派手に転ぶ。
教科書をばら撒き、拾おうとしたジュリアン様と手が触れ合う。
運命の恋が始まる瞬間だ。
そして、本来のシナリオならば。
ここで悪役令嬢である「私」が登場しなければならない。
嫉妬に狂って扇で彼女を打ち据え、殿下に幻滅される。
それが、私に割り振られた役割。
私は無意識に、持っていた扇の柄を強く握った。
今、そこへ行けばどうなるか。
シナリオ通りに彼を助け、リナ嬢を穏やかに注意する?
「攻略知識」を使えば、好感度を稼ぎ、断罪イベントを回避して「愛され妃」になることも可能だろう。
……非合理的だ。
胸の奥で、冷ややかな感情が湧き上がる。
好感度? フラグ?
他人が書いた脚本をなぞって得られる愛情に、何の価値があるというのか。
「知識に依存すると、人生が他人の脚本になります」
かつて自分が導き出した結論を、音にならない声で反芻する。
私は介入しない。
観察し、検証し、自分の足で選んだ道を行く。
その時。
リナ嬢の足が、平坦な地面で不自然にもつれた。
物理的にはあり得ない角度への重心移動。まるで、見えないワイヤーで引かれたかのような転倒。
「きゃあっ!」
わざとらしい悲鳴。
教科書が散乱する音。
男性の驚く声。
私は冷めた目でそれを見届け、踵を返した。
手帳を開くことさえしない。記録する価値もない、茶番劇だ。
心拍数は平常。
罪悪感はない。あるのは、腐った食材を皿から避けた時のような、正当な判断を下したという事実だけだった。
◇
喧騒が遠ざかるにつれ、廊下の空気が冷やりとしてくる。
私が向かったのは、本校舎から渡り廊下で繋がれた旧校舎だ。
老朽化のため現在はほとんど使われておらず、倉庫代わりになっている場所が多い。
埃っぽい木の匂いと、微かなインクの香り。
人気のない静寂。
私はこういう場所が嫌いではない。
目当ての場所は、二階の端にある旧図書室だ。
新校舎に大図書館ができて以来、ここを訪れる生徒は皆無に近い。
ここなら、誰にも邪魔されずに思考を整理し、先ほどの「観測結果」を手帳にまとめられる。
重たいオーク材の扉に手をかける。
ギィィ、と蝶番が軋んだ音を立てた。
中へ足を踏み入れると、舞い上がった埃が西日の中で踊った。
「……誰もいない」
壁一面の本棚には、カビの生えかけた古書が詰まっている。
静かだ。あの中庭の騒がしさが、別の次元の出来事のように思える。
私は安堵の息を吐き、窓際の大きな閲覧机に向かった。
そこで、足を止める。
机の上が、異常だった。
そこには本や羊皮紙が、地層のように積み上げられていた。
『古代ルメリナ魔導式の変遷』
『熱力学と魔力係数の相関』
いずれも、学院の必修科目とはかけ離れた専門書だ。
そして、散乱する無数の紙片。
そこにはインクで、狂気的な量の数式が書き殴られていた。
私は目を細める。
これは、ただの勉強のメモではない。
魔法陣の構築式だ。
それも、現代の主流である「円環型」を意図的に破壊し、再構築しようとしている。
「……火属性の第三階位? いいえ、着火プロセスが省略されています」
思わず声が出た。
一枚の紙を拾い上げる。
この式では、魔力を通した瞬間に熱暴走を起こす。
いや、違う。
紙の端に、走り書きで修正項が添えられていた。
『熱量は外部へ逃がすな。循環させろ。係数0.8で再入力』
……美しい。
私は思考を奪われた。
教科書通りの冗長な詠唱を嫌い、論理だけで現象をねじ伏せようとする、鋭利な刃物のような知性。
この学院に、こんな研究をしている人がいるなんて。
ゲームの知識にはなかった要素だ。
攻略対象のデータは全て頭に入っているが、こんな「変人」はいなかったはずだ。
胸の奥で、先ほどシナリオを捨てた時とは違う種類の高揚感がざわめいた。
未知。
予測不能な変数。
私が求めていたのは、あらかじめ決められた恋ではなく、こういう「理解不能な現実」だ。
その時。
書架の奥から、ガタガタと本が崩れる音がした。
誰かいる。
私は咄嗟に身構えた。
だが、逃げるという選択肢は浮かばなかった。
この式の主に、会ってみたい。
どんな顔をして、どんな論理で世界を見ているのか。
それを知ることは、きっと――
「……なんだ、君は」
本の山の向こうから、不機嫌そうな低い声が響いた。




