第1章 第6節 霧の夜
夜の霧が、再び村を包み始めていた。
外の風は静かで、遠くの鐘がひとつ鳴る。
家々の灯が順に落ちていき、空には白い月が浮かんでいた。
ルヴェンは机の上に並べた薬草を見つめていた。
まだほんの少し湿り気が残っている。
マリアに教えられた通り、乾いた布で包み直してから、風通しのいい棚の上へ移した。
窓を少しだけ開けると、霧の香りが流れ込む。
「いい風ね」
背後から、マリアの声がした。
彼女は静かに歩み寄り、ルヴェンの肩越しに外を見た。
「今日はよく働いたわね」
「うん。森って、思ってたよりいろんな音があるんだ」
「音?」
「木が揺れる音とか、水が落ちる音とか。あと……風が、しゃべってるみたいだった」
マリアは小さく笑った。
「その言い方、あなたのお母さんにそっくりね」
「母さんも、そんなこと言ってたの?」
「ええ。“風はね、言葉の前にあるもの”って」
「言葉の前……」
「意味よりも先に、心を動かすもの。
あなたが今日、森の音を感じたのは、きっとそれを覚えているからよ」
ルヴェンは少し黙り、窓の外の霧を見つめた。
マリアは卓に置いてあった木椀を持ち上げ、ルヴェンの前に差し出す。
「少しだけ甘いお茶。蜂蜜を入れてあるの」
「ありがとう」
湯気が立ちのぼり、夜気に混じる。
その香りは、朝とは違う静かな甘さだった。
「リネアにはちゃんとお礼を言った?」
「うん。……それと、報酬を譲ってくれたのも」
「そう。彼女は優しい子ね。きっとあなたの母さんに似てるのよ」
「そうかな」
「そうよ。だから、いい仲間を大切にしなさい。
人は風と同じで、いつも同じ場所にはいないの。
でもね、優しい風は何度でも戻ってくる」
マリアの言葉に、ルヴェンは頷いた。
家の奥で、煎じ薬の瓶が小さく音を立てる。
その音が、眠りへの合図のようだった。
マリアは柔らかい布を手に取り、ルヴェンの肩にそっと掛ける。
「今日はもう寝なさい。温かい布を肩に掛けて、おやすみなさい」
「うん。おやすみ、マリア」
「ええ。おやすみなさい」
灯が一つ、落とされた。
霧の外では風が通り抜け、月の光が淡く差し込む。
その光が薬草の束に触れて、わずかにきらめいた。
――その夜の静けさを、ルヴェンは長く覚えていた。
霧と風の音が、夢の中まで続いていた。




