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青紐の記録  作者: いろは
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第2節 少年の願い

霧は、歩くほどに薄くなる。

けれど、村の朝はやはり静かで、足音の先にある景色を、ひと呼吸おいてから見せてくれる。


 


ルヴェンとリネアは並んで、中央の広場へ向かった。

屋根の藁から水が滴り、樋の先で小さな音を立てる。

どの家の戸口にも湿った木の匂いがあり、どの窓にも、朝の灯がまだ一つ残っていた。


 


「緊張してる?」

リネアが横目で笑う。

「してない、つもり」

「つもり、ね」

わざとからかう調子ではあるけれど、声は軽い。

彼女の足取りはいつものように速いが、半歩分だけ、ルヴェンに合わせていた。


 


広場に近づくと、霧の向こうにミレナの池が見えた。

水面は薄い硝子のように平らで、すこし触れただけで割れてしまいそうに見える。

池の縁には幾つかの露店が出ていて、パンの蒸気、焼いた豆の香り、乾かした薬草の青い匂いが、静かに混じっていた。


 


少年は知らず、胸の奥で大きく息をした。

今日からは、この場所で「冒険者」として名を呼ばれる。

外へ出る道を歩く資格を、ようやく手にする。


 


――なぜ、外に出たいのか。

自分でもはっきり言葉にできたことは少ない。

村が嫌いなわけではない。

むしろ、この静けさが好きだ。

マリアの家の湯気の匂いも、石畳の冷たさも、池の水が指先に残す温度も、全部、ずっとここにあっていいと思う。

それでも、とルヴェンは思う。

風が吹くたび、ここではないどこかを、胸の中の何かが指さすのだ。


 


「ねえ、ルヴェン」

「うん」

「冒険者になって、いちばん最初に行きたいの、どこ?」

問われてすぐには答えられなかった。

遠い街の名を挙げるべきなのか、山の向こうにある見たこともない湖の話をすべきなのか、分からなかった。

けれど、口から出たのは、もっと小さなことだった。

「……村の外の風を、ちゃんと感じてみたい」

「風?」

「うん。街道に出ると、風の匂いが少し変わるだろ。

 あれ、気のせいじゃない気がして」

「気のせいじゃ、ないよ」

リネアはすぐに言った。

「この村の風は、静かで丸いの。

 外の風は、少し尖ってて、速い」

「尖ってる?」

「ほら、あたしはもう登録してるでしょ。

 村から東の丘まで行ったことがあるんだ。

 帰り道、背中から押される感じがした。

 村の風じゃ、あんまりないやつ」

「そうなんだ」

「うん。

 だから、今日のあんたの“いよいよ”はさ、風の違いを知る日でもあるってわけ」

彼女はそう言って、いたずらっぽく笑った。


 


広場の片側では、粉屋の娘が籠いっぱいの白パンを並べていた。

焼き立ては銀貨一枚。

旅の途中の者にとっては高くない値だが、村で暮らす者にとっては、手を伸ばす時に一度、息を整える額だ。

それでも、湯気の立つ表面の割れ目を見ていると、誰もが少しだけ笑顔になる。

あの温かさは、言い値の中にちゃんと含まれているのだ、とルヴェンは思う。


 


「登録が済んだら、一つ買って半分こね」

リネアが言う。

「いいのか」

「いいの。冒険者二人の最初の儀式」

「勝手に作るなよ」

二人は小さく笑い合った。

笑いながら、ルヴェンはふと、自分の指が冷えていることに気づく。

冷えは緊張から来るのか、それとも、忘れられない感覚からか。


 


――魔法のことだ。

村では、祈れば風が応えることがある。

小さな灯りがともり、水が澄む。

誰もが大きな力を持っているわけではない。

けれど、祈りに応えてくれるのがこの世界の“当たり前”だ、と人は言う。

そして、ルヴェンは、その“当たり前”から、少しだけ外れている。


 


マリアは、そのことを責めたことがない。

「風は、呼ぶものじゃなくて、来るものよ」と、彼女は言った。

「呼べない人もいる。

 でも、感じられる人はいる。

 感じられるのはね、歩き続ける人」

あの言葉を思い出すたび、ルヴェンは前を向けた。

外へ出たいのは、たぶん、その確かめ方を知りたいからだ。


 


「考えごと?」

リネアが覗き込む。

「ちょっとな」

「ふうん。じゃあ、あとで祠に寄ろっか」

「祠?」

「池の南の小道にある、水の祠。

 お願いをすると、ちゃんと風が届けてくれるの」

「お願い?」

「うん。“歩くとき、転びませんように”って」

笑う声の奥に、ほんの少しの真剣さがあった。

リネアは、軽い言葉で大事なことを言うことがある。

彼女がすでに一度、村の外の風を知っているからかもしれない。


 


広場の中央を斜めに横切ると、石造りの掲示板が見えた。

そこには村の行事が並び、日付の横に小さな葉の印が押されている。

収穫の祭、祈りの日、雪解けの見回り。

そして、明日の朝――街道を西から来る商隊が、村を通るとあった。

荷車の列は短いが、薬の買い付けと日用品の売り立てのために立ち寄る、と墨は告げている。


 


「商隊、来るんだ」

リネアが呟く。

「うん。マリアの店も、忙しくなるだろうな」

「手伝い、いるかな」

「いるだろう。……登録、早く済ませて戻ったほうがいいな」

「そうだね」


 


池のほとりを回り込むと、祠へ続く小道の入り口に着いた。

柳の枝が薄く垂れ、霧の水滴をきらきらと揺らしている。

その奥に、苔むした石の祠が、ひっそりと立っていた。

ここで手を合わせるのは、村の子にとっては、靴紐を結び直すのと同じくらい自然なことだ。


 


「寄ってく?」

リネアが問う。

ルヴェンは頷いた。

道を外れて石段を上がると、空気がひんやりと変わった。

水の匂いが強くなるというより、澄む。

胸の中の音が一つ、余計に聞こえるような、そんな澄み方だった。


 


祠の前で、二人は並んで立った。

リネアは目を閉じ、短く息を整える。

彼女の祈りの言葉は小さく、誰にも聞こえない声で、自分にだけ分かる早さで落ちていった。

ルヴェンは、その横顔を見ないようにして、同じように目を閉じる。

言葉がうまく見つからないときは、心の中で景色を思い浮かべる。

マリアの台所の湯気、石畳の冷たさ、池の光、霧の縁。

それらを一つずつ置いていくと、不思議と胸の音が静かになった。


 


(歩けますように。……転ばず、戻って来られますように)

祈りは短く、それだけ。

目を開けると、枝と枝のあいだから風が通り、髪を軽く揺らした。

偶然だと分かっていても、ルヴェンは、こっそりと嬉しかった。


 


「よし」

リネアが手を打つ。

「じゃあ、行こ。ギルドは混む前に終わらせないと」

「うん」


 


祠を出て、ふたたび池の縁に降りる。

広場の人声が少し増えてきた。

粉屋の娘が白パンの籠を持ち上げ、値札をひっくり返す。

銀貨一枚の札が表へ出る。

湯気が上がり、列が短く伸びる。

ルヴェンはその様子を見ながら、自分の掌の中を確かめた。

マリアから受け取った銀貨三枚。

重さは、さっきと同じはずなのに、今は少し“位置”が違う気がした。

指先ではなく、腕の根元――胸の近くで重い。

その重さが、彼を前へ押す。


 


「ルヴェン」

「なに」

「さっきの、風の話さ。……あんた、たぶん、よく分かるほうだよ」

「そう?」

「うん。あんた、じっとしてるときの目が、“置いてる目”だから」

「置いてる目?」

「目で追わないで、目を置くの。……うまく言えないけど。

 あたしの父さんが狩りで言ってた。追う目は遅れる、って」

「へえ」

「だから、きっと大丈夫」

根拠は薄い。

けれど、彼女が言うと、どこか信用できた。


 


「ありがとう」

「どういたしまして」

リネアは少し顎を上げて笑い、先に歩き出した。

その背中に、ルヴェンは小さく息を吸う。


 


村の冒険者ギルドは広場の一角、木骨の小屋のような建物だ。

扉は開け放たれ、朝の光と湯気の匂いが薄く流れ込んでいる。

中には木の長卓が一つ、窓口の向こうには帳面と秤。

村長を兼ねる壮年の男が、もうそこに座っていた。


 


扉の手前で、ルヴェンは一度だけ立ち止まった。

背中に、霧の涼しさ。

前に、温い室内の匂い。

境目に立つと、風の向きがはっきり分かる。

外の風と内の風が、交わらずに流れていく。


 


(行こう)


 


彼は一歩、境を越えた。

リネアが振り返り、目だけで頷いた。


 


その小さな一歩が、やがて遠い街へ続くことを、

このときのルヴェンはまだ知らない。

ただ、胸の中にひとつ、確かな音が残った。

――歩ける、という音が。

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