9.過剰すぎる福と禍
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私たちの乗った軽トラは国道を遡り、ようやく太東ビーチの駐車場に着いた。
7時半すぎだというのに、車でいっぱいだった。
潮の時間帯にもよるが、いつもならサーファーや車中泊をしに来た人もいるだろうが、この数はいくらなんでも多すぎる。
私たちのあとからも、次々と車が押し寄せ、バケツやらクーラーボックスやらを手にした老若男女が、我先に浜へダッシュしている。いったい、どうしたことか?
町内放送が、ひっきりなしにこだましていた。
津波警報が発令されたので、急いで高台へ逃げよ、と必死にくり返している。
なのにトモは車外へ飛び出し、私についてこい、と促すんだから。
「警報を無視しちゃうわけ?」
「それどころじゃなかろう。見ろ!」
私は太東ビーチを見るなり、声を失った。
魚だ。
砂浜にもひざ下までの海にも、異常な数の魚であふれ返っているのだ。
大勢の先客たちが、大きな魚を手づかみで獲るのに夢中になっていた。
どれも50センチは超えている。なかには1メートルクラスの、まるまる肥った魚体までまぎれており、男たちは戦車砲弾でも抱きかかえるようにして押さえつけている。魚は激しく身をよじらせた。
どうりでクーラーボックスがいるわけだ。だけど、これほどの量では追いつかない。
「カツオだ! 夏ガツオがわんさだ!」
トモは唾を飛ばして狂喜した。
私は戸惑うばかり。なぜカツオの群れがビーチで湧き立っているのか。
むしろカツオは、沖からやってくるあの白いモノに追い立てられたのではないか。
さっき山から海の彼方を見たとき、タンカーサイズの物体が近づいていたはず――。
私は砂浜に進み出た。
それは迫っていた。
白波とともに、紡錘型の肉塊がやってくるのだ。生きたタンカーどころか潜水艦そこのけだ。青い海の色と対比して、その体表は神々しいまでの白。まさに純白だった。自然界であんな際立つ白さは、お目にかかれるものではない。
あれが、あれこそが――。
「あれが【ヱビス神】だ」
トモはかたわらでつぶやいた。
まるで熱い湯船に浸かったかのような深いため息をつく。
「……あれってクジラじゃない」
「そう、シロナガスクジラだな。地球上の脊椎動物では最大を誇る種だろう。たしか、世界記録の最大全長は30メートル超らしいが」と、トモはカツオを手づかみする愚かしい住民たちをよそに、一歩前へ踏み出した。誰も彼もが歓声を上げ、カツオを獲るのに忙しい。あさましいったらありゃしない。津波警報が出されているのに……。「あの【ヱビス神】さまは優に100メートルを超えておる。まさに神聖なる海の彼方より遣わしてくれた、おれたち漁民の神にちがいあるまい」
「100メートルって、生物学的にありえない」私は茫然と立ち尽くしたまま洩らした。足元に打ち上げられたカツオの大群を見る。特徴的な魚体に、腹の部分が鏡みたいに銀色に輝いていた。「……なんでクジラが、カツオの群れを追い立てるの?」
「本来、おれたち漁師が使う【ヱビス】って言葉は、水死体だけではなく、もっと広い範囲でそう呼んだ。なかにはイルカやジンベエザメ、そしてクジラさえも【ヱビス】と言った。そしてジンベエザメやクジラなどの大きな海洋生物が姿を見せると、カツオなどの魚群までが逃げる形で現れることもよくあるからだ。クジラは富を運んでくれる神に他ならない」
「なるほど」
「それだけじゃない。古くからクジラそのものは海の恵みだ。それも最大級の」と、トモは言った。熱っぽい顔つきは、さっき出頭すると言ってたのに、反省の色をどこかへ置き忘れていた。「クジラが寄れば、七浦賑わう――つまり、クジラが獲れれば、七つの漁村が活気づくということだ。あれこそ富の象徴!」と言って、トモはスマホをタップし、耳に当てた。「タツジ、まだか! さっさとこっちへ来い。カツオにかまうな。ありったけの銛を用意しろ。クジラを仕留めるぞ!」
「ダメ! なんでよ!」
私は叫んだが、彼は海へ入っていった。
ちょうどそこへ、右手の防波堤を回り込む形で、いくつもの小型の漁船がやってきた。
漁師たちは鼻息も荒く、船を横一列に整列させている。
みんな、棒高跳びの棒のようなものをかまえていた。先端は釣り針のような返しがついており鋭い。――あんなちっぽけな銛で、シロナガスクジラに立ち向かうというのか。
てか、漁民にとっての神を殺しちゃうわけ?
断固、やめさせるべきだと思った。捕鯨問題の是非を問うているのではない。
さっきトモは、死んだ歩が正真正銘の【ヱビス神】を招き寄せたって言ってなかったっけ?
つまり、ただの水死体であった歩が、神へと祀り上げられた。
それで彼は満足したか、さらなる福を呼び寄せたってこと?
むしょうに迫りくるクジラが気になった。
まだ浜との距離は500メートルはある。
ジーンズの尻ポケットにオペラグラスをしまってあったのを思い出した。
それを取り出し、海をのぞき見た。
恐るべき流線型の巨体。生きた原子力潜水艦だ。しかも不自然なほど白い。ところどころフジツボの群れがこびりつき、無数の傷が長い航海を乗り越えてきたことを物語っていた。
――ち、ち、ち、ちょっと待った!
尖った頭部に、まさか人が乗っていることなど、誰が予想しようか。
なんと、人!
まるで波乗りするかのように、身体を斜めにかまえたライディングの姿勢。
ひどく見憶えのあるシルエットだった。
長身で、手足が長すぎるゆえに持て余しているような身体つき。
特徴的な襟足の長さ。
そして、鮮烈なすみれ色のウェットスーツ。
あれって、どう見ても――。
歩じゃないか!
死んだはずの夫が、なんで巨大なクジラをサーフボード代わりに波乗りしてるんだよ!
私は思考停止してしまい、身動きすらできなかった。
「ねえ、トモさん! あれ見て! クジラの上!」と、私は老人の背中に向かって叫んだ。トモは漁船に指示を出していたが、こちらをふり返った。血走った眼つきは尋常じゃない。オペラグラスを差し出す。「人が乗ってるの! あの姿恰好、ウチの夫にちがいない!」
「馬鹿言え。クジラの上に人だと?」
「だったら、これで見て!」
トモはオペラグラスをひったくった。
のぞき見る。
「……見えるもんか。おれを担ごうったって、そうはいくか!」
トモは私に突き返した。
すぐに海に向かって走り出す。
どういうこと?
歩の姿は、私にしか見えないってわけ?
夫が他人に見えようが見えまいが、動物愛護の観念を超えて、あの神々しいものに手を出させるのは阻止するべきだと思った。
あれこそは海の化身であり、神に他ならない。
絶望すぎるほどの巨体を誇るシロナガスクジラが近づく。
近づくにつれ、ますますカツオの群泳が押し寄せ、ビーチは銀色の魚体で埋め尽くされた。足の踏み場もない。
クジラとともに津波が迫りくる。
今になって、カツオ獲りに夢中になっていた人々が大騒ぎしはじめた。
獲物を放り出し、我先に陸へ逃げる。
漁船の一隻がトモを拾ったのが見えた。操舵しているのはタツジだろう。
トモを乗せた船は、他の漁船のもとに集まり、いっせいにディーゼルエンジンを最大出力にしたらしい。甲高い音が響き、白いしぶきを後方に飛ばして前進しはじめた。
これからクジラに戦いを挑むつもりか。――無謀すぎる!
あまりにもちっぽけな兵隊たちに見えた。
漁船団は二手に分かれ、クジラの両側面に取り付いた。
銛の投擲がはじまった。
クジラの筋肉は頑丈らしく、ことごとく弾き返される。一つとて刺さりもしない。クジラにとっては蚊に刺されるにも値しないだろう。
神に歯向かったのも同然だ。
まるで裁きを受けるように漁船は体当たりを受け、木っ端みじんにされる。
タツジとトモも同じ運命をたどった。
あえなく船は砕かれ、老人たちは海に投げ出される。
白い巨躯の下敷きにされた。あれでは、ひとたまりもない。
巨大な波に乗り、クジラをサーフボードにした歩が、なにやら叫んでいる。
いや、私だけにしか聞こえないのか?
見れば、他の人たちはすでに高台に避難していた。
クジラは眼前に近づいていた。オペラグラスは必要ない。
私は息を飲んだ。
肉眼でも見える。
歩は片手を上げてサインを出している。
なんてこった、あれはシャカじゃないか。――サーファー仲間で共有する、親指と小指を立てたハンドサイン。あいさつや感謝の意を表す。
クジラがすぐそこ。
歩がしきりに叫んでいた。
「イエ――――――イ! 侑李! おれだよ、おれ! 帰ってきたぜ! ヤッホ――――――ッ!」
「は――。なんで? あんた、やっぱり幽霊なの?」
「侑李! 見ろよ、見てみい、おれを。なんだか知らんが、神にされちまったんだよ!」
「なに言ってんの!」
「賭けはおれの勝ちだ! ビッグになったろ! これ以上のビッグはない! ウエ――――――イ!」
「馬鹿野郎!」
私は泣きながら、クルリと背を向け、高台に向かって走るしかなかった。
先に避難している人たちが、早く早くと手招きしている。
どうしてくれるんだ。
この町に、福以上の禍をもたらしやがって。
了
※参考文献
『本当は怖い 日本の風習としきたり』イースト・プレス
『ケガレの構造』波平 恵美子 青土社
『福神信仰』宮本 袈裟雄 民衆宗教史叢書
『魚と人をめぐる文化史』平川 敬治 弦書房
『墜落遺体: 御巣鷹山の日航機123便』飯塚 訓 講談社+アルファ文庫
じつはナガレボトケをネタに扱った過去作は他にも2つあったり……。1つだけ紹介しましょう(あと1つは駄作なので……)。
DQN、修学旅行中 海に落ちてあぼーん 何故かエビス様に祀りあげられそうになるクライシスの件
https://ncode.syosetu.com/n6101ia/