8.「あんたの旦那が【ヱビス神】を招き寄せてくれた!」
――先日、7/30にロシアのカムチャツカ半島付近で起きた巨大地震。日本沿岸部ほぼ全域に津波警報が発令され、みなさんは気を揉んだことと思います(作者も仕事中、はじめて本格的な避難を余儀なくされました。高台に5時間近く缶詰状態を経験)。
本作自体はその騒動の1週間前に完成しております。ですのでこのオチは、先日の出来事に便乗したものではないことをあらかじめお知らせしておきます。偶然、このような描写をしたことが重なってしまったにすぎません。時間も足りず、今さら手を加えようがありませんでした。ご了承ください。
「その漁師の拾った【ヱビス】が、おれの倅とは限らん。どこにも証拠はない。とはいえ水死体なんて、しょっちゅう漂ってるわけでもあるまい? おれはその漁師を捕まえ、どこに埋葬したかゲロさせた。なんてことはない。そいつの家の裏庭に、屋敷神として祀ってあったのさ。おれは腕ずくで奪い返した。あんたがさっき言ったとおり、日本人は事故や災害で肉親を亡くしたとき、遺体をこの眼で確かめたいと思う民族だ。たとえ骨の欠片でもいい。見つけてやることで故人も浮かばれると信じているし、遺族だって前に踏み出せる」
「私と同じ立場だったんじゃない。呆れる」
「申し訳ない。このとおりだ」トモは私に向き直り、頭を下げた。上半身を直角に曲げ、しばらくその姿勢を保っていた。しばらくするとその顔から、いくつもの雫がこぼれた。涙だった。「……なんてことだ。倅の身体を盗まれ、あんなにも悔しい思いをしたのに、あの男と同じことをしてたなんて、つくづく自分が情けない。おれは倅を死なせたことに眼を背け、以来仕事に生きるようになった。仕事に逃げたと言ってもいい。ゼニを稼ぐため、鬼になっていた――」
「鬼」
なら、私はどうだったか。
私が止めたにもかかわらず、歩は台風明けの海へ出かけ、波に飲み込まれ勝手に死んだ。
寄る辺を失い、路頭に迷ったというほど絶望したわけでもない。サバサバしたもんだった。結局、覆水盆に返らずであることを知っているからだ。
何度もビーチに足を運び、歩の骨の一部でも流れ着いていないか捜したのは、せめてもの伴侶としての務めだった。
彼の生命保険金を得たわけではない。
事故から1年が経過していないと、家庭裁判所に失踪宣言を申し立てることができないと教えられた。したがって、私の稼ぎと少ない貯蓄で日々をしのいでいたにすぎない。
私は――鬼ではないでしょ? 夫の死には淡白なだけで。薄情すぎるかな?
頭を上げたトモを見た。
打ちひしがれた男の姿がそこにあった。
息子を海で死なせ、心に傷を負った一人の老人にすぎなかった。もう居合の達人みたいな近寄りがたい雰囲気はない。
不意に彼は海の方を向いた。――なんらかの異変に気付いたのは、漁師としての長年の習性か。
眼を細め、遠く沖を凝視している。耳を欹てているふうだった。
つられて私もそちらを見た。
時刻は6時半を回ったころだろう。
水平線から朝日が浮かび、まばゆい光をまき散らしていた。
海上は一直線に光の帯となり、まるで釣れたてのタチウオの魚体のようにギラギラと輝いている。山じゅうセミの合唱団が暑苦しいハーモニーを奏で、今日もうんざりしそうな天気になるにちがいない。
いくらサーフィンをやっていた私とはいえ、海の現象については素人に毛が生えた程度だった。
沖の彼方がおかしいと気づくのに時間はかからなかった。
それだけではない。
海全体が――やけにザワついているのだ。
いったい、なにごとか。
そのとき、二人のスマートフォンがほぼ同時に鳴り、私は飛び上がる思いをした。
緊急地震速報!
私とトモはお互い顔を見合わせる。こんなとき、えてして声も出ない。
はるか沖の方角にちがいない。
ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドド――――ン!
地の底から、まるで大太鼓でも叩いたような音が虚ろに響いた。
私は目眩を憶ずにはいられない。エレベーターに乗り込み、昇降したときみたいな感覚に足元がふらつく。
てっきり睡眠不足と暑さのせいで、立ちくらみしたのかと思った。
そうじゃない。
共同墓地の方での異変がその考えを打ち消した。――石塔をはじめ、灯篭がゴトゴトと鈍い音を立てて、揺れているのだ。卒塔婆の束など、カスタネットみたいに連打を鳴らしている。
次の瞬間、大地が、ところてんみたいに波打った。
私たちは反射的にその場にしゃがみ込んだ。なにかにしがみつく。
直感的に震源地ははるか沖の方だと思った。
どれほど地震が続いたことだろうか。
トモはうずくまりながらも、沖の彼方をにらんでいる。
私も、それを見た。
はるか水平線の向こうから、こちらに向かって、白いなにかがやってくる。
これほどの距離が離れていてさえ、肉眼で見えるのだ。きっと巨大な物体にちがいない。
あれは――――。
一方の岸に近い海は、細かく波打っているじゃないか。
純粋な自然現象――海側から吹く風、いわゆるオンショアにより、チョッピー(風の影響で波が荒れた状態)ではない。
なんらかの生物の動きによる潮のうねりだ。それもおびただしい数の。
そのとき、場違いな電子音が鳴った。
思わずジーンズの尻ポケットに手をやったが、私のじゃない。
トモはハッと我に返り、作業着の胸ポケットにしまってあったスマホを取り出した。
画面をタップし、耳に当てる。
「タツジ、おれだ。今、地震があったろ。そっちは大丈夫か?」と、トモは鋭く言った。私に背を向け、小声で言った。「じつは社んところで【ヱビス】本人の奥さんに見つかった。もう大漁祈願はやめだ。終わりなんだよ。【ヱビス】はこの人に返す。おれも今から出頭するから――」
と言ってから、彼は口をつぐんだ。
スマホの向こうから、なにやらタツジの大声が洩れてくるのはどういうわけか。えらく取り乱している様子。
私は海のざわめきから眼を引きはがすことができない。
沖合の白い物体は波しぶきを上げ、確実にこちらに向かっている。
大きさはタンカーほどのサイズか。
その手前を、まるで漁船に追い立てられるかのように、海上が細かく脈動している。さっきよりも規模が大きくなっている気がした。白波がいくつも起きていた。
「……なに? 今、おまえさん、なんて言った!」
トモは電話の相手に、大声を張り上げた。
私と眼が合った。
「トモさん、どうしちゃったの? あの海と関係でも?」
「大ありだ……。海は、今度こそ本物の【ヱビス】さまを遣わしてくれたらしい」と、彼はスマホを離し、眼ん玉が突出せんばかりに開いて言った。通話を切るや否や、私の手首をつかんだ。「ついて来なさい! あんたの旦那が【ヱビス神】を招き寄せてくれた。海が魚で湧いているっていうんだ!」
「え? ウソ!」
なにがなんだか、わけがわからない。
トモは眼の色を変え、さっきまでの萎れた姿はどこへやら、私の腕を取ってレッカーしていく。石段を二人三脚で、しかも速足で下りる芸当をやってのけた。階段はところどころ崩壊していたが、彼はそれに頓着することなく、とにかく先を急いだ。
私は半ば連行される形で、軽トラの助手席に座らされた。
……って、なんでだよ!
この老人はトラックのエンジンをかけると、荒々しく方向転換させ、元来た道を戻りはじめた。
悪路などなんのその、トモはアクセルをベタ踏みして、恐るべきスピードを出す。
「これからどうするっていうの? 【ヱビス神】ってなんなの!」
「わめきなさんな。これから浜へ向かう。いいだろう、着く前にちょいと説明してやろう。飛ばすから、しっかりベルト、締めときなさい」
「もう! みんな自分勝手なんだから!」
「そうとも。男はみんな勝手なもんさ。自分のことしか考えていない」
◆◆◆◆◆
軽トラに幽閉された私は、太東ビーチまで着く間、トモから民俗学の演説を聞かされた。
水死体を【ヱビス神】として祀り、豊漁をもたらす漁民独自の信仰には、いろんな意味が含まれているという。
【ヱビス】は海を他界(もしくは異界)と見なすとき、その他界から此界へと越境してきた神である。
すなわち【ヱビス】こそが、【道祖神】や【田の神】と同義であるという。海の彼方から、人の住むこの世界へやってきたとすれば、【田の神】もまた山という他界から境を越え、里へ下りてきた神である。
そして【ヱビス】も【田の神】も、境界線を侵すということにおいて、【道祖神】【賽の神】と結び付くのである。【田の神】は【山の神】の化身そのものであるのは言うまでもない。もしくは一つの形であるということから、【ヱビス神】は【山の神】と同じ括りとも考えられるし、【ヱビス】が『異国の神』であると同じく、【山の神】も山という異世界に住む神であることによって結び付くと考えることもできる。
また【ヱビス】は、互いに矛盾する属性を持つ存在でもある。
人間に対し、福や禍さえ与え得る神であり、男であると同時に女の神でもあるし、ホトケ(ナガレボトケ)であるとともに神にもなり得る――つまり両義的な意味を持つという。
しかしながら穢れているという点は見すごせない。
【ヱビス】が穢れと係わりを持つ神であることは、なによりも水死体をご神体とすることに端的に示されて言えよう。また不具であること、異相であることに注目すべきである。
日本神話において、「外聞が悪いから」との理由で、出雲の神々の集会に出席できず、留守番をさせられるという描写をはじめ、【ヱビス神】への供物は葬式と同じく、左膳(死人に供える膳。えびす膳ともいう)にして乗せることや、門松を逆さに立てるなど、畢竟、【ヱビス】こそ穢れた神であることを裏付ける証左だという。
不浄なものが、神聖なものへと転換するという現象――宗教上のこの逆転はけっしてめずらしいことではなく、『儀礼的転換』と呼ばれる。
この現象は宗教、あるいは信仰というものの本質を炙り出す重要な手がかりであり、民間信仰において、水死体を【ヱビス神】として祀るこの現象こそ好例の一つである。