7.対決
盗み聞きしているうちに、むしょうに腹が立ってきた。
その祠に祀られている【ヱビス】とやらが、歩の遺体なのかどうか確信はない。
だがトモの祝詞の文句を聞くにつけ、あんまりだと思った。
恩着せがましく水死体を埋葬してやり、神に祀り上げ、そのくせ上から目線で願掛けするとは自分本位すぎる。まるで大漁祈願のために故人を使役させるようなもんだ。
――海の男になりたかったのに笑っちゃうぜ。まさか海の男たちの奴隷にされるとは。
――おれはあいつらの奴隷にされ、いいようにこき使われている。頼む、侑李。おれの遺体を取り戻してくれ。
夜ごと夢枕に立つ歩は、そう言っていたっけ。
奴隷にされているとは、こういうことだったのか。
私の中で、パズルのピースとピースがかみ合う感触がした。
「そこの女。おれを尾けてたろ。なにが目的だ」
と、トモはこちらに向き直った。朝日が輝き、彼の全身を淡い影絵としてしまう。
心臓を、ペンチでつねられる思いがした。
「バレてた? なら、いつまでも隠れるまでもないか」
私は観念し、墓石の陰から立ち上がった。
敵意はないと言えば噓になる。
武器を持っていないことを示すため、肘のところで両手を上げた。
「漁師仲間で、黒のハイエースを乗り回している奴はいない。はじめから怪しいとは思っていた。それに尾行するにせよ、車間距離を詰めすぎだな」
「お察しのとおり。たまたまその【ヱビス】の話を聞いてしまいましてね」と、私は言いつつも、彼の方へ近づいた。トモは直立不動の姿勢で微動だにしない。この期に及んで泰然自若な態度に歯ぎしりしそうだった。「そこの祠で眠ってるのは、私の夫じゃないかと勘ぐったの。早とちりだったらごめんなさい。馬鹿な人でね。去年の11月上旬に――」
トモは片手をかざし、私の話をさえぎった。
「知ってら。あんたはおれが拾った【ヱビス】の奥さんだろ? 去年の秋、太東の浜でサーファーが行方不明になったって、うんざりするほど町内放送で聞かされたんだ。おれはすぐにその男だろうと結び付けたさ。拾ったとき、ウェットスーツ姿だったから間違いなかろう。まったく、台風明けに波乗りに行くなんざ、正気じゃない」
「色は? どんなスーツの色だったか教えて」
「紫だった」と、あっさり認めた。正確にはすみれ色だったが。「おれが掬い上げたときにゃ、白骨化してたよ。いくらかの部位は潮に流されちまったようだが、頭蓋骨を含め、だいたいは残ってた。きれいな男の遺体だった。漂白剤につけて磨いたみたいに。ちょうどあんたと同じ年くらいだろう。違うか?」
「やっぱ、間違いなさそ……。墓あばきするまでもないね。だったら、なんでさっき、『どこの誰とも知れぬおまえ』なんて、シラ切ったの。嘘つき」
「どこまで【ヱビス】について知っている? 【ヱビス】は拾った者と血のつながりのない身元不明者であることが望ましい。祀ることによって、神格化させてやれる。見返りとして獲物の大漁を約束させられる。これが昔からの習わしだ。【ヱビス】は福神にさせることもできるが、丁重に扱わなければ祟ることすらある。逆に不漁になるっていうんだ。【ヱビス】を見かけても、逃げるように立ち去る漁師もいる。――あえてどこの誰とも知らないと、おれ自身をだます必要があった」
「その言い方だと、返してくれるつもりはないってわけ? その妻が身元を保証できる。なんならDNA鑑定を依頼しましょうか? もう【ヱビス】の効力なんて――ない!」
「【ヱビス】がこれほどの漁をもたらしてくれるとは思わなんだ。おれたち漁師は、豊漁に笑う一日もあれば、漁場を駆けずり回ったあげく、重油ばかりを消費しただけで、ため息ばかりつく日もあってな。むしろそちら方が多い。みんな【ヱビス】にあやかりたいと思っておる。昔からそうだ。【ヱビス】を拾えば、人知れずこうして祀り、己のために願掛けしたっていう。欲のため、と言われても仕方ねえかもな」
「それって、人としてどーなの?」
「あんたの言うとおりかもしれん。これで身元が割れた。【ヱビス】の魔力は失われたかも」と、トモは照れ隠しのように右眼の横の傷を搔いた。深くえぐれているのはどんな理由があるのか。「さすがに奥さんに攻められ、突っぱねるほどおれも強欲じゃねえさ。わかった、降参だ。この遺体は返す。残念だが、おれは死体遺棄罪の刑事罰を受けねばなるまい――」
トモは相好を崩し、白い歯をのぞかせた。
「よかった……。てっきり、私が消されるんじゃないかと思ってた」安堵せずにはいられない。話している途中で、二人きりだったし、口封じされるんじゃないかと冷や汗をかいていたところだったのだ。そして物言わぬ私は、土饅頭の下で夫の隣で添い寝されられるはめに――。
トモはなぜ、死んだはずの夫が使役させられていることに気づいたのだと疑問をぶつけてきた。
私は即答してやった。夜ごと夢枕に立ち、メソメソ窮状を訴えるんだと。
死んだことは仕方ない。だからこそ私は、せめて彼の遺骨だけでも取り返そうと話した。
ついでに、これも問うてみた――この地域には、溺死した人の仏壇に水を供えるべきではないという謂れがあるのかと。
◆◆◆◆◆
「ふしぎなこともあるもんだ。旦那がそんなことを」と、トモは朝日にきらめく太平洋を見ながら言った。「海で溺れ死んだ人間ってなあ、たらふく潮水飲んで苦しんだんだ。ここいらじゃ、そんな人の仏壇に水は供えるべきじゃないって昔から言うな。誰だって好き好んで溺れ死ぬわけじゃない」
「やっぱり、そういうもんなんだ」と、私は言った。そろそろこの追走劇に幕を下ろすべきだ。「じゃあ、警察に通報するね。あなただって生活かかってたんだし、情状酌量の余地はあると思う。なんだったら、私から口を利いてあげてもいい」
「おやおや、お優しいことで」と、トモはあごを撫でながら言った。喉の奥で低く笑った。「皮肉なもんだ。過去のおれもあんたと同じ境遇だった。一人息子を取り返すためにしゃかりきで捜し回ったのを忘れていた。それを思い出させてくれて、ありがとよ」
「どーいうこと?」
「昔、倅を海で死なせたことがある。あいつは他にやりたい夢があったらしいが、刺網漁を継がせようと押し付けた結果がこのざまだ。遺体は見つからなかった。おれは仕事の手をとめ、そこらじゅう一帯を船で捜したさ。3カ月もしたころだったか。よその漁師町で、【ヱビス】を拾って以来、豊漁に恵まれてうれしい悲鳴をあげているって、とある漁師の噂を聞き付けてな」
「あれま」