6.トモを尾行する
刺網漁に出かける前とすれば、朝は相当暗いうちから動き出すにちがいない。
私は1時にカラオケボックスの仕事を終えると、ろくに休むことなく、3時未明に大原漁港で待ち伏せすることにした。
もっとも、漁に出かける漁師たちが、漁港へわざわざタイムカードを打刻しにくるわけでもないだろう。いきなり、その祠とやらへ直行されたら身もフタもないが、私は賭けてみることにした。
漁港の専用駐車場の片隅にハイエースを停め、私は息を殺して待つ。
途中眠気に襲われ、うつらうつらと舟を漕いだが、見逃してはいない。
なんだかやけに波の音が大きかった。波しぶきで視界も白く煙っている。
そんなこんなで、その夜は白々と明けてしまった。
潮煙が舞っている。駐車場には、ちらほらと車が停まるようになってはいたが、誰も船着き場の方へは行かない。
どうやら天候が悪いせいで、漁には出られないようだ。波が岸壁で砕け、エプロンにまで海水が流れ込んでいる。
結局その日はトモとタツジは現れなかった。――空振りだ。
◆◆◆◆◆
私はすぐに家に帰り、シャワーだけ浴びて横になった。
2秒で眠りに落ちた。
疲れていたのか、夫は夢枕にも立たなかった。出たとしても憶えていない。
なにくそだ。あきらめるもんか。
昼前に跳ね起きると、天気予報をチェックした。
大きくうねる熱帯低気圧に向かって、暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定になっているせいだ。どうりで昨日のカラオケボックスの仕事も暇だったわけだ。
ここ2日は海は荒れるだろうとのこと。とすれば、漁師たちも仕事はできないと見た。
3日後、私は深夜の仕事を終えると、漁港の近くで見張った。
4時半ごろ、次々と漁師らしい男たちが通勤しくる。
多くは事務所裏の駐車場に集まったが、軽トラ一台だけが建物の正面玄関に横付けされた。
私は降りてきた人物を、オペラグラスでのぞき込んだ。
トモだ! 見間違いようがない。彼は作業着ズボンのポケットから鍵束をジャラジャラ言わせ、錠を解いている。
どうやらトモは、漁師仲間から一目を置かれる存在らしい。
誰もが遠慮がちに頭を下げている。尊敬と畏怖を集める人物のようだ。遠巻きにトモと言葉を交わすだけで、そばへ近づくのも憚られるといった距離を保っていた。
作業着姿の彼は笑顔すら見せず、いの一番に建物に入った。
遅れて、箱バンに乗ったタツジもやってきた。
こちらはすでに漁に出られるような恰好に着替えている。
私はハイエースから降り、背をかがめ、忍び足で事務所の方へ近づいていく。まだあたりは暗く、闇にまぎれることができた。
抜き足差し足で、建物の横に置いた活魚水槽の陰に身体を押し付ける。
秘密諜報員みたいに、聞き耳を立てた。
建物から出てきたトモとタツジは水揚げ場の下で、なにやら打ち合わせを交わしはじめた。
直後、タツジは荷物を手に、船着き場へ歩き出す。
漁に出かける準備に取りかかるらしい。
トモより他の若い漁師も、各々の魚船へ荷物を運び出した。これから漁場へ向かう段取りにかかっている。
一方のトモは事務所に入ったきり、なかなか出てこない。
しばらくすると盆を手にして出てきた。横付けした軽トラの助手席にそれを積み込む。
盆には缶ビールと茶碗に盛られたご飯、皿には尾頭付きの鯛らしき魚があった。
タツジに仕事の支度をさせている間、トモは別の案件をすますつもりだろう。
二人がペアで漁に出かけるのはすでに聞いてあった。この間、盗み聞きした会話から、トモがイニシアチブをとっていることは読み取れた。おそらく漁船さえも彼が操り、あらゆる権限を握っていると見てよい。
トモが軽トラに乗り込んだ。
私はあわてて駐車場に戻った。
ハイエースに乗り、スタートさせる。
逃すもんか。
軽トラは、大原漁港を出ていくところだった。
私はハンドルを切り、軽トラのあとを追った。
夜明けは近い。
すでに空は青みがかり、視界が利くようになってきている。
距離をつめた尾行はバレる恐れがある。気を付けなくては。
平日とはいえ早朝ということもあり、交通量はほとんどない。
軽トラはライトをつけているので、テールランプが目印となっている。車間距離を開けていても、見失う心配は少ないだろう。
トラックは国道465号線に乗り、西へ西へと内陸部へ入っていく。
小高い丘が連なり、民家がまばらの一帯へ車を走らせる。周囲は田園風景が広がっている。
やがて道は舗装されていないガタガタ道になった。
軽トラはものともせず悪路を走破し、しばらく蛇行した道を進むこと10分。
山に向かって一直線に伸びる石段が見えてきた。
軽トラはその前に停まった。
あまり近づきすぎると怪しまれるかもしれない。私はかなり離れた路肩にハイエースを停め、エンジンを切った。懐中電灯を用意していたが、もう用はないだろう。むしろシャベルを持ってくるべきだった。
トモは車を降りて助手席側のドアを開け、シートの上に置いた盆を手にし、石段を上っていく。
そのころには朝日が差し込み、この閑散たる南房総の町を浮き彫りにしていた。靄が立ち込めていた。
私は逸る気持ちを抑え、深呼吸しながら180秒をカウントする。
そして車外に降り、石段に向かって小走りする。ばっちりこの日のためにスニーカーを履いていた。
緩やかな山の標高は、せいぜい200メートルもあるかどうか。
苔むした石段は中腹まで続いており、トモは盆を手にしたまま半分以上を上りきったところだった。体幹はブレることなく、健脚ぶりを示していた。
私はいくぶんためらったあと、その後ろ姿を追う。
息を切らせながらの追跡だった。
途中、彼が背後をふり返らないか、気が気じゃない。見つかりそうになったら、脇の藪に飛び込むしかなさそう……。
こっちは仕事明けで、しかも日ごろの運動不足が祟った。全身から汗が噴き出す。
山の中腹の広場に、狭いながら共同墓地があった。
トモは片隅の、自身のご先祖の墓と思われる石塔の前にひざまずき、手を合わせている。
私は坂の陰に身体をかがめ、彼の次の行動を見守った。
◆◆◆◆◆
その祠は、墓地から離れた木陰の中にうずもれる形であった。ずいぶんと古いもののようだ。
屋根は切り妻造りで、小型ながら社になっていた。周囲はきれいに掃き清められている。ご神体を祀った観音扉の前には、白い紙垂がそよ風になびいていた。
オペラグラスをのぞき込み、トモの動きを見る。
祠のかたわらには、こんもりと土饅頭が不自然に盛り上がっているのはどういうわけか。まるで最近土をかぶせたように真新しい。赤土が眼にも鮮やかすぎる。
トモは祠の前に盆――供物だろう――を置き、そちらでも合掌した。
眼をつぶって、なにやらブツブツ呟いている。
私は気配を悟られないよう、墓石の陰から墓石の陰に隠れながら近づいた。
どんな念仏を唱えているのか、やがて耳に入った。
「……おまえを拾って祀ってやったんだ。また今日も志、よろしく頼むぞ」と、トモは祠の前にうずくまり、一人くっちゃべっている。合掌を解くと、缶ビールを手にし、プシュッとタブを開けた。祠の前に供えてやる。海の方に眼をやった。「見ろよ。ここの見晴らしは最高だな。南房総の海を一望できる。やはり、人間は陸で眠るのが一番ってことだな。どこの誰とも知れぬおまえを、神にまでしてやったんだ。少なくとも天気のいい日は、こうして供え物をしてやる。だからおれの船をしっかりもてなせ。今日も豊漁にしろ」