5.「【ヱビス】は境界線にいる、どっちつかずの存在なんだ」
「【ヱビス】は迷信じゃねえぜ、タツジよ。れっきとした福神さ。ただし粗末にすると禍を起こす。だから畏れる奴もいる。コインの表裏のようなもんだ」と、トモさんはゴム手袋をぬぎながら言った。もうすぐ昼の休憩が近いこともあって、リラックスモードに入っていた。「【ヱビス】は見ての通り、長い間漂流していたんで、陸の死体より崩れている。より穢れてるってことさ。おれたちゃ、陸から神聖な海へ穢れたものを船に乗せちゃならねえ掟がある。【赤いケガレ】や【黒いケガレ】を船に上げようものなら、【フナダマ】さまが怒りかねん。だがよ、その神聖な海の向こうから流れてきたモノは、たとえ水死体であろうとも、それさえも聖なる贈り物なんだ。この場合、船へケガレを入れても例外となる」
「つまりこうか?――海で【ヱビス】を拾えば、いくら腐敗が進んでいるモノでも、船に乗せたとたん、神聖なモノに化けるってか? この場合、タブーを犯してもかまわないってことか?」
「おれの親父や、そのまたじいさまに教えてもらったんだが」と、トモはどこからともなく煙草を取り出して、一本口にくわえ、タツジにも与えた。ライターで火をつける。フーッと煙を吐いた。「なんせ、広い海ん上で水死体と出くわすなんざ、宝くじに当たるくらいの確率だろう。昔は見つけたらまず、筵(ワラで編んだ敷物)を投げて死体を隠してやり、なるべくその姿を見ないようにして引っ張り上げたっていう。なんでも筵には、魔を避ける力があると信じられたそうな。【ヱビス】を上げるのは地方によっていろんな作法があって、取舵(左)側から引き上げ、そいつを置くのも取舵側か、船尾と決められていた。そこは【フナダマ】さまがお許しになった場所であり、穢れてもやむを得ない部分でもあるわけさ」
「核心を言えったら。焦らすなよ」
「つまりこうさ――【ヱビス】はあの世とこの世の境にいる、どっちつかずの存在なんだ。あの水死体は発見されないかぎり、身元不明のままだ。人ではあったが、遺族によって生き死にの確認がなされておらず、供養もされていない。生きているおれたちと完全なホトケとの中間に存在している。だからこそおれたちで拾いあげれば、神に格上げできる」
「わかるような、よくわからないような」と、タツジは下を向き、毛のない頭をごしごしこすった。水槽にもたれていたが、姿勢を正し、エプロンをはずしはじめた。「――ま、とにかくこの話は内密にってこったな。どっちにしたって【ヱビス】が今回の豊漁をもたらしてくれた。いつまでも恩恵が続くよう、スズメバチの巣は下手に突っつかないでおこうってことだな」
「そういうこと。世の中、わからなくてもいいこともあるさ。おれたちは【ヱビス】を丁重に祀り、今後とも仕事がうまく続くことを祈るだけ。――それだけさ」
トモはそう言って笑った。
二人は身に着けていたエプロンをはずし、作業場の奥へと去っていく。私の位置から見えない場所に消えた。どうやら昼食をとりに行ったにちがいない。
すっかり眠気はどこへやら、今では胸の動悸を抑えることができない。
どうやら漁師の世界には、【ヱビス】という名の水死体が漂ってくることが稀にあるらしい。それを拾い上げることで、なぜだか豊漁をもたらしてくれるという。そのメカニズムはよくわからなかった。
あんなだだっ広い海上で、水死体なんてめったにお目にかかるものでもない。
ズバリ、歩のそれではないか?
私がこの会話を耳にしてしまうとは、偶然にしてはできすぎだが……。
そういえば朝市で魚介を売っているおばさんも、ここ最近、大原漁港はイセエビが獲れまくってるって言ってたっけ。
地元がイセエビの大漁に湧こうと、知ったこっちゃない。
私はなんとしてでも、夫の遺体を取り返さなくてはならない。
すぐさま車を降り、猫のような爪先立ちで彼らのあとを追ったが、建物へ入ってしまったようだ。
この場は諦めざるを得なかった。
まだ確たる証拠をつかめていないのだ。
◆◆◆◆◆
悠長な話だが、次の日曜になるまで我慢した。
夜ごと歩は夢枕に立ち、メソメソ泣く。
金縛り状態の私は、心の中で夫と会話を交わすつもりなんだが、意思の疎通は計れない。
ただ、「おれはあいつらの奴隷にされ、いいようにこき使われている。頼む、侑李。おれの遺体を取り戻してくれ」と、くり返すだけ。
やたらと寝起きは疲れていた。
こうなったら、やるしかない。
いざ日曜の朝市。
私はまた大原漁港へ足を運んだ。
例のごとく、鮮魚を販売しているおばさんのもとに行く。
めぼしい魚介を買ったあと、それとなく彼女に水を向けた。
「そうらしいね。トモさんとタツジさんは昔から一緒に船に乗る仲でね。2週間くらい前から、船を獲物でいっぱいにして帰ってくるようになったって評判なの。漁港もイセエビの豊漁で活気づいたのは何年ぶりかね。イセエビもいるところにはいるんだね。きっと新しい漁場を見つけたんだよ」
「おばさん、唐突に変なこと聞くけど、【ヱビス】って何のことだか、知ってる?」
「七福神のえびっさんかい? それとも鹿児島の方じゃ、昔、網子(網引き漁師のこと)が目隠しして海に潜り、最初につかんできた石を【ヱビス】として祀ったって聞いたことがあるけど……。他にも、サメやクジラのことまで【ヱビス】って呼んだっていうし……」
「そんな意味もあるんだ」
本当は事前に、ネットでググって調べていたので、ある程度の知識はつけていた。たしかにおばさんが言ったこともひっくるめて【ヱビス】というそうだ。
しかしながら、まさか水死体まで【ヱビス】と呼ぶとは知らないようだ。
あえて深くは追求しなかった。余計な詮索をすべきじゃない。良きにつけ悪しきにつけ外部に洩らされ、それが当の二人の耳に届く恐れがある。
「そういえば」と、おばさんは思い出したように斜め上を見上げた。「トモさんはとくに験を担ぐ漁師さんでね。漁に出かける前、必ずご先祖の墓や祠にお供え物を供えるって聞いたことがあるわ。それがあの人の決めごとみたい。おれ流の大漁祈願なんだって。大漁旗を掲げて漁場から帰ってくるようになってからは、とくに熱心に供物を運んでるそう」
私はその話を耳にするなり、あいさつもそこそこに、漁港をあとにした。
◆◆◆◆◆
次の日、私はトモを尾行することにした。
その祠とやらに夫の遺体が埋葬されているのではないか。現場へ行き、問い詰めてやろう。なんなら掘り返して証拠をつかんでやってもいい。これで言い逃れはできまい。
そのあと警察へ通報する。
となると、あの人たちは何らかの刑で服役しなければならないだろうが、知ったことか。
――もしも、歩の遺体じゃなかったらどうする?
とんでもなく先走った行動になりかねない。
ええい! 身元不明の水死体なんて、この日本でしょっちゅう漂流しているもんじゃない。
太東ビーチと大原漁港の直線距離はわずか5キロあるかどうかだろう。
したがって、歩のそれである可能性は高い。