4.ヱビスとの約束
――あいつら? あいつらって誰? 利用されるって? ひょっとして闇サイト?
「侑李、おれが馬鹿すぎた。甘ちゃんの大馬鹿野郎だ。あのとき、おまえの言い付け、守っていりゃあ……」と、鉄筋でも飲み込んだみたいに立ち尽くす彼は、涙声で言った。「頼む、おれの身体を見つけてくれ。おれの遺体が盗られた。これじゃあ、おちおち眠ることもできん。頼めるのはおまえしかいない」
――盗られたって。あんたの遺体を、誰かがどう利用するっていうの? ラーメンスープの出汁にでもするっての?
「おまえって、いっつも茶化すんだから」
――あら。幽霊にあきれられた。
「とにかく、死んじまったのはどうにもならねえ。せめてあいつらから骨だけでも取り返してくれ。これじゃ、いつまで経っても上れないんだ」
歩はメソメソ泣いた。
上がれないって、成仏できないってことかしら?
やれやれ。死んでも世話が焼けるんだから。
全身からいろんな雫を垂らすせいで、またしても私は枕を取り換え、畳を掃除する羽目になった。
◆◆◆◆◆
9時すぎに眼が醒めた。
あいつらに盗られたと言ってなかったっけ?
夫の遺体だか白骨死体を回収して、何に利用するっての?
私のおつむでは理解できない。
最近、寝不足が続いていた。
エアコンが壊れて寝苦しいというのもあるし(修理の依頼はしてある。早くても7月下旬なんだと)、こうも毎晩歩に出てこられると、いくら身内のそれとはいえ、まんじりともできない。
朝のうちは家のことをしているうちに時間だけがすぎ、11時になってしまった。
薬局の仕事は13時からはじまり、19時まで。1時間のブランクをはさんで、20時から1時までがカラオケボックスの仕事だ。
長丁場になるので、その前に二度寝しておきたい。
愛車のハイエースワゴンならクーラーを利かせ、眠るにはうってつけだった。幸いにして、車中なら歩の幽霊に泣きつかれたことはない。
車のカラーは黒だ。
この7月上旬の苛烈な暑さを思いっきり吸収してしまうし、日差しを遮らないとまぶしくて仕方がない。借家の敷地では太陽が照り付けているからダメ。
どこか日陰がないか、私は周囲を見回しながら運転してみた。
しばらく走ると、ちょうど大原漁港の建物が眼に飛び込んできた。
先日、朝市に来たばかりだ。
ちょうど、水揚げ場に隣接した事務所の横が日陰になっている。
あそこなら涼むのに最適だ。
幸い誰かの車両も停まっていない。
壁はなく、柱だけの庇のついた水揚げ場の下では、二人の防水エプロン姿の従業員さんだか、漁師さんだかがお仕事していた。
昼に近い時間だけあって、大方の魚は出荷されたのだろう。閑散としていた。
こちとらあまりにも眠くって、人さまに気を遣うどころではない。
15分ばかし仮眠をするだけだ。ちょこっとだけ場所を借りよう……。
「漁港が湧いたのはよかったな。おこぼれにあやかろうと、若い奴らの船があとをつけてくるから参る。もっとも、あいつらもホクホクだろうが」
「こんなにイセエビがかかったのは何年ぶりかな。ここのところ連続だぜ。怖いくらいだな」
「たまたまかもしれん。あるいは【ヱビス】が約束を守ってくれたのかも」
「てっきり、わしは迷信かと思ってたんだ。【ヱビス】にそんな効果があったなんて。おかげでご祝儀相場で、懐もあったかくなったのはありがたいが――。しかしよ、もしもアレを隠したってことを見つかれば、何らかの罪に問われるんじゃねえか。この年でワッパなんか、かけられたくないぜ」
「しっ……。タツジ、声が大きい」
わずかに窓を開けているせいで、水揚げ場の方から年配の男たちの声が聞こえてくる。
せっかくアイドリングしたままシートを倒し、眠りに落ちようとしていたのに。
話の内容が気にならずにはいられない。
【ヱビス】の約束、効果?
【ヱビス】って七福神、ヱビスビールの【ヱビス】だよね?
私は睡魔に負けまいと、気力をふり絞って上半身を起こした。
車窓越しに老人たちを見る。
水揚げ場はすぐそこだ。
漁港事務所の横に、関係者以外の車両を停めていても気にしていないようだ。
二人とも防水エプロンをつけ、長靴を履いている。
長年強い日差しにさらされ、浅黒く日焼けていた。まるでガトーショコラみたいな色。年齢は70前後といったところか。この漁港では生き字引みたいな古株に違いない。
片方は白髪頭で、右眼の横に深い引っかき傷が特徴のご老体。
背筋はシャンとし、いかにも老練な風格を醸している。漁師さんだろう。堅気ではないような鋭い眼つきをしていた。道衣に袴姿に着替えれば、居合の達人と紹介されても疑うまい。
別の相方は、禿げ頭に白い口髭がトレードマークの老人だった。
こちらの方が背が高く、歩くたびに片足を引きずる癖がある。上はタンクトップを着て、ムキムキの上腕二頭筋がのぞいていた。剽軽そうな柔らかい顔つきだ。
「迷信か。たしかにこの世にゃ、迷信はいくらでもあるわな」と、こめかみに傷のある老人が腕組みしたまま言った。「六曜ってあるだろ。江戸時代に使われていた旧暦にも、大安、仏滅などの吉凶日はあった。けれど、当時はそんなこと気にする人間は誰もいなかったっていうぜ。明治のはじめに陰暦が廃止され、今の太陽暦に改められると、自然と吉凶日は消滅したんだとか」
「トモさんは物知りだな」
「ところが明治の中ごろだ。暦――今のカレンダーのことだな――を売る商人が、販売量を増やそうと暦に大安、仏滅などという文字を勝手に入れて売り出したらしい。世の中何が当たるかわかりゃしねえ。それが大ヒットして、暦は飛ぶように売れた。しまいにゃ他の業者もマネするようになり、それが現在に至ってるっていうんだ。つまり吉日、凶日ってな、単なる一人の商人の思い付きで流行ったにすぎず、六曜になんの意味も根拠もねえわけさ」
トモさんと呼ばれた白髪の老人は滔々とまくし立てた。漁師にしておくのはもったいないくらいの知識人らしい。
「なるほど」と、タツジさんは水槽にもたれ、頬杖をついたまま言った。「それはわかるとして、なんで【ヱビス】を拾えば、わしらに恩恵を授けてくれるってんだ? 六曜とどう違う? たしかに先代の組合長からも、【ヱビス】の噂は聞いてた。漁師によっては海へ行って、【ヱビス】と鉢合わせになるのを嫌う奴もいれば、トモさんみたいに飛び跳ねて喜ぶ人もいる。なんでこうも【ヱビス】に正反対の反応を示すんだ?」