3.映画『グラン・ブルー』と日本航空123便の墜落事故のこと
◆◆◆◆◆
『グラン・ブルー』という映画がある。
リュック・ベッソン監督の原点にして最高傑作と名高いフランス・イタリア合作のそれだ。
主人公ジャックのモデルは伝説的なダイバーであり、『イルカに一番近い男』と称された故ジャック・マイヨール。ライバルであり、よき理解者の役にあのジャン・レノが演じている。
本作では、フリーダイビングの世界記録に挑む二人の男たちの友情と衝突を描いた。
ジャックは海で生きることでしかアイデンティティを見出せない。それゆえせっかく恋人を得て、赤ん坊まで授かりながら、海で死ぬことを選ぶ。奇しくもモデルのジャック・マイヨールすら、晩年はうつ病に悩まされ、自ら命を絶ったという。
初上映の1988年当時、フランス全土のハイティーンの若者たちに絶大な支持を集め、今でも海に生きる男のロマンとして、熱烈なファンが多いことで知られている。
はっきり言って、私はこの映画が嫌いだ。
ジャックは陸では生きられない社会不適合者にすぎない。結局、自ら海に潜って命を落とす。
残されたジョアンナの心境、いかばかりか。半狂乱になるのも無理はない。
海にロマンを求める男は、エゴイスト以外の何ものでもない。
私は、いったいこれから何を拠り所にして生きればいいのか。
私のサバサバっぷりよ。
かつてはあれほど愛した歩さえも、客観的に俯瞰で捉えることができた。
私という伴侶を残して、あの人は荒天のなか海へ出ていき、勝手に死んだ。
プロサーファーには程遠い技量にすぎなかった。台風明けなんかに波乗りに行くのは狂気の沙汰だ。
死んだ人は、どうにも取り戻せない。だったら残された私は、私のペースで生きていくしかないでしょ。
お世辞にも仕事の収入は多くはなかったし、せっかくの貯蓄も確実に目減りしていた。ご近所の老夫婦が何くれと世話を焼いてくれたので、食べることに関してはどうにかなっていたが――。
朝市の帰り道、私は太東ビーチへ足を運んだ。九十九里浜の最南端に位置する海岸線。ビーチブレイク(砂浜で砕ける波)が起きている。
深いところでサーファーたちがパドリングして波待ちし、波が盛り上がるのを見計らってテイクオフしている。――ボードの上に腹ばいになって水を掻きつつ、波が来る瞬間、立ち上がるテクニックのことをいうのだ。
うまい人もいれば、いくらやっても洗濯機に放り込まれたように波に揉みくちゃにされたり、テイクオフすらままならない初心者もいた。たっぷり潮水を飲まされているだろう。
砂浜で膝を抱えた。
左右の海岸線や、沖の方に眼をやる。
どこにも歩の遺体らしき物体は見当たらない。そもそもこれだけのサーファーがたむろしているのだ。もしも、誰かの遺体だか白骨死体が見つかったら、ただちに通報してくれるはずだ。人はそこまで薄情ではない。
人間は波にさらわれれば、離岸流に引っ張られ、はるか沖へと運ばれる。
沖の彼方へと連れ去られた漂流物が、元の浜に帰ってくるのは現実的ではない。帰ってくるとすれば、どこかの湾になった海岸や、岬だったりするらしい。
心の寂寥を慰める術はない。
だからこそ私はカラッと笑う。
クヨクヨしてても、どうにもならないっしょ……。
◆◆◆◆◆
連日、夢枕に立つ夫は気の毒に思えてならない。
遺体そっくりそのままとは言わない。
せめて骨の欠片だけでも拾ってあげたいんだが。
以前、御巣鷹山に墜落した日本航空123便の墜落事故に関するノンフィクション小説を読んだことがある。
日本人ならではの宗教観なのだという。遺族をはじめ、捜索隊や警察でさえ是が非でも遺体を見つけてやりたい民族は他に類を見ないそうだ。
1985年8月、この航空事故は日本における民間航空史上最悪の事故であり、世界的に見ても単独機としては過去に前例がないほどの犠牲者数520名を数えることで知られている。
そのうち外国人の死者は22名。アメリカ人やイギリス人観光客がいた。
キリスト教圏の外国人の、死と遺体の処置に関する考え方は、日本人のそれと異なっており、現場で身元を特定するために奔走した医師や警察は戸惑ったという。
「ご遺体をどのようにされますか?」
と聞くと、遺族は決まってこう答えたという。
「息子(もしくは娘)は神のところへ召された。肉体は持ち帰るまでもない。そちらでお任せします。一緒に亡くなった人たちとともに火葬するなり、埋葬してやってください」
なぜ遺体を引き取らないのか?――と、日本人なら首をかしげてしまうだろう。
キリスト教圏の人たちは、口を揃えてこう答えたという。
「death is death。死は死でしかない。引き取ったところで甦るわけでもない。魂は神のもとへ召された。だから肉体は必要ではない」
かたや日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。むしろ、そうありたいと願うのかもしれない。
だからこそ死んだあとも完全な遺体が必要であり、ご遺体を生きた人間と同様に丁重に扱うのだとされている。
東日本大震災のときも同様だった。捜索隊の真摯さには頭が下がる。
日本人なら失ってしまった肉親や知人の身体は、たとえどんなに変わり果てていようと取り戻したいと考えるものだ。
私だってそうだ。
じかにこの眼で夫の死を確認することで、前に進むことができる。
◆◆◆◆◆
明け方ごろ、またしてもすみれ色のウェットスーツ姿が枕元に立った。
まさか、毎晩歩の幽霊に安眠を妨害されるとは。
暑いのに、床に入る直前、燗にしたコップ酒を仏壇に供えていた。これで文句はなかろう。
功を奏したか、翳った顔も、心なしか晴れやかな表情に見えなくもない。
「おれはビッグになれなかった……。賭けはおまえの勝ちだな」
おいおい、私は賭けなんか、してないって。
私は金縛りになったまま、寝床で唸っていた。身じろぎすらできない。
相変わらず歩は、全身から潮臭い雫をポタポタ垂らしている。
「じつは困ったことになってる」と、直立不動の夫は唇も動かさず言った。その眼は死んだ魚を思わせる。「おれは囚われの身になっちまったんだ。海の男になりたかったのに笑っちゃうぜ。まさか海の男たちの奴隷にされるとは」
私には、返事をすることができない。
代わりに、心の中で尋ねた。
――ちょっ。どういう意味? 奴隷って穏やかじゃない。
「おれの身体、一度は沖へ流されたんだ。けど、誰かに見つけて欲しくて、このビーチに帰ってきた。奇跡的に潮の加減もあったんだろう。ところが暗いうちに、あいつらに捕まり、うまく利用されるようになっちまった」
大抵歩は明け方に枕元に立つ。少なくとも寝入りっぱなはない。なんらかの法則があるらしい。