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2.「侑李……。おれはビッグになりたいんだ」

◆◆◆◆◆


「おばさん、この真あじ5尾とハマグリ100グラム、それとメバルとイサキも1尾ずつちょうだいな」と、私は陳列台を指さした。新鮮な魚介が発砲スチールの容器に盛られて並んでいる。値札はどれも良心的だ。「このハマグリ、よく肥えてるね。おいしそ。帰ったら浜焼きにしよっと」


「毎度あり。いつもありがとね!」


 鮮魚を販売している顔なじみのおばさんは歯列を見せた。

 すばやい手つきで指定した魚とハマグリをビニール袋に入れてくれる。

 なんだか岩手の実家に残してきた母を思わせる面差しで、私はすぐに打ち解けたものだ。


 朝市は大勢の客で賑わっていた。

 おばさんをはじめ、威勢のいい売り子のかけ声がそこかしこで響いている。

 客たちは乗せられ、つい財布の紐も緩みがちだ。ここでは電子決済は役に立たない。


「どお、売れ行きは? テレビで宣伝するようになってから、遠くから買いに来てくれる人も増えたって聞いたけど」


「ボチボチってとこ。これだけ同業他社が集まってるんだもん」と、おばさんは謙遜する。発泡スチロール製の生けに手を突っ込み、赤い甲殻類をつかんだ。獲物はピチピチと踊り、飛沫を飛ばした。「見てごらん、この立派なイセエビ。ここ最近、イセエビが豊漁らしいの。トモさんってベテランの漁師さんが、毎日のように大漁旗を揚げて帰ってくるそうなの。私らもそれにあやかってるわけさ」


「じゃ、これも2匹追加して」


「あいよ。そんな侑李ゆうりちゃんは元気かい? なんだか瞼が腫れぼったい気がするけど。あんたこそちゃんと眠れてるの? せっかくの美人が台なしよ」


「あれま。これでも化粧でごまかしてたつもりなんだけど」


「旦那さんを亡くしちゃったのは気の毒だけど、覆水盆に返らずさ。だったら前を向いて進むしかないのに」


「だよね」


「あんただって若いんだし、今にきっと別の人が現れるよ。幸せになりなさい」


「うん」と、私は買い物かごを両手でさげたまま頷いた。「でも、それはもうちょっと先。だって夫の遺体も見つかっていないんだし、せめて骨の一つくらい手に入れたい。次へのステップはそこから」


「今でも旦那さんの身体が流れ着いていないか、太東の浜に通ってんの?」


「うん。望み薄なのはわかる。けど、万に一つの可能性を信じて」


「気が済むまでやるといいわ。いずれ時間が解決してくれるさね」


 と、おばさんは魚やらエビの入ったビニール袋を渡してくれた。

 私は代金を支払う。

 大原おおはら漁港で日曜日ごとに開かれる朝市だった。たくさんの店が軒を連ねている。

 外房そとぼうで獲れたばかりの新鮮な魚介類のみならず、陸で栽培された野菜までが、お値打ち価格で売られているのだ。


 イカやエビの炭火焼きの香ばしい匂いが漂っていた。タコ飯もおいしそう。

 漁港のエプロン(岸壁の地表のこと)を、子どもたちが走り回っている。親たちは海へ落ちはしないか、気が気じゃない。波はフラットな状態だった。




 正午にさしかかる頃合いだったので、客足が遠のいていた。

 私は思うところがあって、ためしに昨夜、夫が夢枕に立ったことを話してみた。

 すると、おばさんはちょっと驚いた顔を見せ、


「侑李ちゃん、知らないのかい? ここ南房総じゃ、先祖に海で亡くなった身内のいる家じゃ、仏壇に水を供えないしきたりがあるんだよ。今でこそ寂れちまってるけど、昔このあたりはマグロ漁が盛んだったの。一番活気のあったころは10年のうちで200人以上の漁師が海に落ちて亡くなったもんさ」


「そうなん?」


「とくに冬の荒れた海に落ちて死んだ人を引き上げるのは難しいって言うの。それで漁師仲間は泣く泣く波にさらわれるご遺体を見送るしかなかったそう。だから漁師は、海で死んだ人たちに、これ以上水を飲ませるべきじゃない、と考えたんだろうね。だから仏壇に水はよしなさい。――今は漁船ふねも大きくなったし、近代化して昔と比べると、海で亡くなる人は減ったみたいだけど」


「ふーん。勉強になった」


 まさかよかれと思っていた行為が、故人には迷惑だったなんて。

 少なくとも歩は幽霊となって私の夢枕に立っているっていうことは、溺死したのは間違いなさそうだ。

 だとすれば、なんとしても彼の亡骸なきがらを見つけてやりたい。


「また困ったことがあったら、寄っといで。いつでも相談に乗るよ」


「わかった、おばさん。仏壇にコップ水はやめてみる。代わりに熱燗、あげてみるよ。それで故人と会話できるんだったら、願ったり叶ったりだしね」


◆◆◆◆◆


「あれだけ猛威をふるった風台風だったんだ。見ろよ、あんなビッグウェーブ。めったにお目にかかれないぜ。風だってオフショアになってる」


 11月上旬、季節外れの台風がすぎたあの朝のことは忘れられない。

 歩は眼の色を変えて、窓の外を見ながらまくし立てた。パブロフの犬みたいに、ヨダレでも垂らしそうな顔つき。

 いい年こいて、デパートでおもちゃをねだる子どもそのものだ。


 オフショアとは、岸から沖に向かって吹く陸風をさす。

 陸風だと波は崩れにくくなり、面もきれいになるため、サーファーにとって最高のコンディションとなるのだ。白波が立って割れると、サーフボードに乗ったとしてもたちまち失速してしまう。


「ケリー・スレーターじゃあるまいし、勇気と無謀の違いを知りなさいったら。ほら、ビーチには誰もチャレンジしてない。まさに快速電車に飛び込むようなものよ。自分の奥さん、不幸にするつもり?」


「ここに住んだ理由は何だ? 良質の波を見かけたら即アクセスできるからだろが。このチャンスを逃す手はない」


 と、歩はゆずらない。

 言うそばから、シャツとジーンズをパンツごと脱ぎ捨て、スッポンポンになった。

 もどかしげにすみれ色の一張羅であるウェットスーツに足を通す。ピチピチなので、うまく入らず、おっとっと……と、よろける。

 ケツを蹴っ飛ばしてやろうかと思った。


「言うこと聞けったら!」


「侑李……。おれはビッグになりたいんだ。なにがなんでも、あの波をつかまえてみせる!」


 歩はウェットスーツを装着し、ファスナーを胸まで上げると、ひたむきな顔で言った。

 私は人差し指で自分の鼻を押し上げ、


「ピッグの勘違いじゃね?」


 と、言ってやった。ブヒッ!


「おれのこと馬鹿にしやがって。見てろ、あのでっかいチューブをくぐってやる。豚呼ばわりしたことを撤回させてやるからな!」


「この分からず屋!」


 歩は私の投げた湯呑を、ヒラリとかわした。

 押入れのふすまにぶつかると、虚ろな音を立てて砕ける。

 玄米茶が入っていたので、思いっきり染みがついた。


 行くなと制止するが早いか、夫は廊下に立てかけていたサーフボードを抱え、玄関のビーチサンダルをつっかけた。

 ガタピシする引き戸を開ける。

 私はその背中を罵った。


 こうして、さわやかな快晴が広がる屋外へと飛び出していった。

 一人で波乗りに行くなんて愚かすぎる。

 万が一、波にさらわれるのを想定して、相棒バディを連れていくべきなのだ。私は毛頭、付き合うつもりはなかったが。


 カラオケボックスの仕事が深夜1時までで、帰ってきて軽いご飯食べたり、お風呂入ったり、なんやかんやして床についたのが3時だったのだ。

 とても寝足りない。そのまま布団に突っ伏してしまった。


 それが歩を見た、最後の姿となった。

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