第一話 『あなたの微笑みに、私は囚われてしまったのです』
佐藤さんへ。
これは、私の勝手な懺悔です。
きっと、あなたはもう覚えていないことばかりかもしれません。
けれど、私の中では、いまだに鮮やかに、あの日の光や匂いまでもが残っていて。
思い出すたび、少しだけ胸が苦しくなるんです。
それは、大学に入学する春のことでした。
私が上京したのは、三月の終わり。
冷たい風が残ってはいたけれど、街はすでに新生活の気配で満ちていて、紳士服屋さんがにぎわっている光景や、駅のホームでは大きな荷物を抱えた人たちが行き交っていた姿を覚えています。
桜のつぼみが膨らみ、今にも芽吹きそうな中、私は大学近くのワンルームマンションに引っ越しました。
六畳一間、ユニットバス。キッチンは狭く、壁は薄い、窓からは隣の建物の壁しか見えない。築年数も経っており、今となっては、きっと選ばなかっただろうなと思うような物件です。
でも、それでも当時の私は嬉しくてたまりませんでした。ようやく手に入れた「ひとり暮らし」という響きに、胸を高鳴らせていたのです。
転居の付き添いで来てくれた母が家に帰り、数日たった頃でしょうか。
私の部屋の隣に、もうひとり、新しい住人がやってきました。
簡単な昼食を終え、ぼんやりしていたとき、ふと隣から物音が聞こえてきたのです。隣の部屋からガタガタと荷物を運び込む音がしてきました。ダンボールの擦れる音や、引っ越し業者らしき人の声も混じっていて。
私はなんとなく落ち着かない気持ちになり、そっと玄関のドアを開けて、廊下に出てみたのです。
ドアの前に置かれたダンボールの山の向こうから、するりと姿を現したのは――
黒髪のロングヘアを後ろで緩くまとめ、ベージュのコートを羽織った、少し背の高い、すらりとした女性でした。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。どこか中東系を思わせる、彫りの深い顔立ちで。
それなのに、所作はひどく静かで、歩き方さえも音を立てないような……まるで映画のワンシーンのようだったのです。
「はじめまして。佐藤と申します。隣になるみたいですね」
そう言って、彼女は微笑みました。
その姿は、控えめでどこか品がありました。春の空気のように柔らかくて、私の胸の奥にすっと入り込んできたのです。
一瞬で、私は惹きつけられてしまいました。異性だったら恋に落ちていたことでしょう。
ああ、この人をずっと見ていたい――それが、私の正直な感情でした。
その気持ちは、やがて私の大学生活に小さな波紋を広げ、少しずつ、少しずつ、歪めていくことになります。
――けれど、それをここで詳しく語るのは、まだやめておきましょう。
これは順を追って話すべきでしょう。
どうか、もう少しだけ、私のこのわがままな懺悔に付き合ってください。
大学時代の、私の小さな罪を、少しずつ、少しずつ。